空模様

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Posted by チエ on  | 

これまでにないことをやってみる 其の参

【これまでにないことをやってみる 其の一】
【これまでにないことをやってみる 其の二】
からの続き。


上智大学のグリーフケア人材養成講座に通っていた頃、
グループワークが毎回行われて、
自分自身が感じたことを話してゆく時間があった。

そこでも、私は自分が本当に思っていることは、口にできなかったと
最後の授業の日に言ってしまった。
そう言うと、クラスの人たちはすこし残念そうな顔をした。
いやいや、あなたたちのせいではない
と言いたかった。
しかし、それを含めても、私には口からことばがだせなかった。

自分が感じていることはたくさんある。
そして、私が頭で考えていることもたくさんある。

けれども、それをどう言っていいのか、わからなかった。
口には出せない、しかし、こうして文字にはできる。

もしかしたら、これは障害と言ってもいいのかもしれない。
ただし、病院にかかったところで、おそらく問題のない正常な人だ、私は。
病名はつかなくても、人が気軽にやっているようなことが私にはできない。
人に言えば「そんなこと、たいしたことないよ」ということばだったり、
こうしたら、ああしたらいいんじゃない?という反応が返ってくる。

哲学カフェというものがあると知ったのは、
こういう葛藤の日々の最中だった。

もともと、「死ぬってどういうことだろう」ということに興味があるから
グリーフケアの講座へも通うようになった。

哲学カフェでは、話したいと感じることが話せるのだろうか。
行ってみたけれど、やはり思うようには話せなかった。

大学の図書館で目があったのは、池田晶子さんの本だった。
池田晶子さんの書いたことを読んでいると、
「哲学」とは、「問い、考えること」とあった。
「14歳からの哲学」は、私にとって聖書だ。
副題にある通り、まさしく考えるための教科書となった。

「14歳からの哲学」を輪読して、考えたことを話し聴きあう
読書と対話の会は、Aというブロックにある章、
「考える→考える→考える→言葉→言葉→自分とは誰か→
死をどう考えるか→体の見方→心はどこにある→他人とは何か」
を繰りかえし読んでいる。今、二巡目。
「自分とは誰か」については三回読んだ。
先に進みかけて、一度戻ったのだった。

頭で考えることと、それを口に出してみることはまるで異なる作業で、
口に出してみてあらためて、考えがかたちとなった。


小さな問いからはじめて考える。
それを、人にわかる言葉にする。
言葉にしないと、考えははっきりしない。
それから、「なんで?」「どうして?」と聞くことで、もっと考えを深めていく。



私の場合は、まず、ネットにアクセスしだした20年前に
ネットの中で日記をつけてみて、自分の考えていることがあらためてわかる
ということがあった。本当にびっくりしたものだった。
私ってこんなことを考えているのか、と。

そして、今こうして、人と向き合って話をしてみる場に身を置いて
「私はこう考える」と口からの言葉として話せるようになった。
読書と対話の会を繰り返し続けていくのは、「人は変わる」と感じたからだ。


え、もともとちゃんと考えを口にできる人だったじゃないの?
と思う人もいるかもしれないが
自分では言えていないと思うことがよくあった。
あるのは漠然とした「思う」だけだった。


「本当のことを知っているということは、それ自体が自由なことなんだ。
本当のことを知らないから、人は人に対して自分の自由を主張することになるんだ」


と池田さんは、「14歳からの哲学」の中で書いている。

ああ、本当に。

私は、この一年でずいぶんと自由になった。

(え、もともと自由なんじゃないのと人は言うかもしれない。
そう、たしかに本来、人は自由なのだ。
自由がどういうことなのかがわかれば。
そういう意味では、これまでの私は不自由だった。
人に自由をすすめながらも、私自身は不自由だったのだな。)


おっ、まだ続きそうです。
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これまでにないことをやってみる 其の二

【これまでにないことをやってみる 其の一】からの続き。

はじめに、対話の場へ「哲学カフェ」や「哲学対話」ということばを
持ち出そうとした時、やはり「哲学かぁ、むずかしそう」というような声を
ちらほら聞いた。

なんせ公共事業であるので、「オープン、ひらかれている」ことが大事だ。
誰からしても、アクセスを拒まれないこと。

なので、「哲学」ということばはかなりクローズドなのである。
「哲学」ということばをそのまま出しても、ひとは集まらない。
(かわいそうな哲学… ( ノД`))

まちの人々にとって、どうしてそれが必要だと思うの?
あなたはどうしてそれをいいと思ったの?
それを何て言えばいい?
ということは、講師の広石さんから何度も問われた。

他のひとにどうして必要か、なんて考えたこともなかった。
私にとって大切だったということしかなかった。

オープンであるとは、
私と他者の間がつながっていると感じられることか。
自分だけにわかることばじゃ、バトンにならない。
ことばは、橋でもある。
そして、こちらからさしだす手のひらでもある。


これって、哲学カフェや哲学対話でかわされる対話、そのものについてを言ってるな。

ここに気づけたことは、とても大きなことだった。

こうして書き出してみるとなんてことはないように感じられるが
問われた瞬間は、目からウロコが落ちる思いだった。


もうちょっと続きます。。。

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これまでにないことをやってみる

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文京区が主催する活動支援コーディネーター養成講座とファシリテーション講座
に参加している。
http://bunkyo-sip.jp/?p=3818

春まで通っていた学校でのグループワークを通して、
そして、実際に「読書と対話の会」などの場を持つようになって
ファシリテーターの勉強がしたいなと思っていたところ
たまたまfacebookで講座の案内を見かけた。
しかも費用は破格値の4000円だった。
全7回。
一回ごとの参加費かと何度も確認したが
全7回分のお値段だった。
びっくり。

はじめは、ファシリテーター講座だけでいいやと思っていたのだけれど
講師の広石さんの話がおもしろくて、続けてコーディネーター講座にも通うことにした。



文京区では、対話等を通じて地域の多様な主体が関わり合いながら、
地域課題の解決を図る担い手を創出していく取組を「新たな公共プロジェクト」と称して
より豊かな地域社会の実現を図っていこうと取り組んできたそう。

活動支援コーディネーターとファシリテーション養成講座は
そのプロジェクトの一環として開催。

文京区民だけが参加できるのかと思いきや、
他区民もウェルカムとのことで、文京区はえらく太っ腹である。


ファシリテーション講座の中で、対話の場を企画運営するという実践があり
そこでは「哲学対話」を題材にすることにした。
はじめは、文京区といえば坂道だし、坂道大好きだし、坂道を取り上げたい
と思ったのだけれど、実際、この坂道については自分が参加者として知りたいことであり、
企画してゆくにはハードルが高いと感じてもいた。

それならばと今の私にとって最も関心のある「哲学」を題材にしてみたらどうだろう
と取り上げたところ、それに賛同してくれる人がいたおかげで企画をスタートさせることができた。

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これはなりゆきで、ともいってしまうが
本当は、今自分が住んでいる練馬で開催できるのが何よりなのではあるけれども
ひとまず縁があって、なんとなく「そうなってゆく」ことが
私にとってはいいような気がしている。
(私が自分の自我で推し進めると、どうもパワーバランスが悪いようでうまくいかない)

というわけで、なりゆきで
「新たな公共プロジェクト」内にある別講座、「文京社会起業アクション・ラーニング講座」
の交流発表会にて、企画を発表してみないかという声をさらにいただいて
「まじかー、人前でしゃべるのきらいなのにー」という気持ちとは裏腹に
やったことのないことはやってみたいという好奇心もあって、発表に臨んだ。


テーマは、「『哲学カフェ』を通してなんでも話せる場をつくろう」である。



長くなるので、一旦ここでおきます。
次回へ続く。。。




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【14歳からの哲学】10月8日

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「読書と対話の会」ご案内

■日時:10月 8日(土)10時~13時(予定)
■場所: 練馬区富士見台 
(西武池袋線・富士見台駅より徒歩7分)
(ご参加される方へ、直接お伝えします)
  
次回は、第5章  言葉(2)(P31~)
​*途中章からでもご参加いただけます。
読んでなくちゃ参加できないということもありません。
ただし、「14歳からの哲学」はご持参くださいませ。


○会費:500円(お茶とおやつあり〼)
○定員:8名 (残り2席です) 




ひとの目にうつるものに「名前」がつけられること。
そして、その「名前」になってゆくこと。
でも、名前をつけられるその前からあること。


池田晶子著「14歳からの哲学」言葉(2)より
P.36

「しょせんは言葉、現実じゃないよ」という言い方をする大人を、決して信用しちゃいけません。そういう人は、言葉よりも先に現実というものがある、そして、現実とは目に見えるもののことである、とただ思い込んで、言葉こそが現実を作っているという本当のことを知らない人です。




【若松英輔さんの著作「悲しみの秘義」より】

哲学者の井筒俊彦(1914-1993)は晩年、「言葉」とだけでなく
「コトバ」と記すようになった。
コトバと書くことによって彼は、文字の彼方に息づいている豊穣な意味のうごめきを
浮かび上がらせようとした。
井筒が考えるコトバには無数の姿がある。
画家にとっては色と線が、音楽家には旋律が、
彫刻家には形が、宗教者には沈黙がもっとも雄弁なコトバになる。
苦しむ友人のそばで黙って寄り添う、こうした沈黙の行為もまたコトバである。

『荘子』には「地籟」「天籟」という表現が出てくる。
「籟」は、ひびきを意味する。
天地の場合、ひびきがコトバになるというのである。
「天籟」にふれ、井筒はこう書いている。


【人間の耳にこそ聞えないけれども、ある不思議な声が
声ならざる声、音なき声が、虚空を吹き渡り、宇宙を貫流している。
この宇宙的声、あるいは宇宙的コトバのエネルギーは
確かに生き生きと躍動してそこにあるのに、
それが人間の耳には聞えない
/「言語哲学としての真言」】

ひびきという無音の「声」は、耳には聞こえない。
だが胸には届く。
胸が痛む、あるいは胸が張り裂ける、と私たちはいう。
あるいは心の琴線にふれる、ともいう。
コトバが心に届くとき、人は何かに抱きしめられたように感じる。
誰の人生にも幾度かは必ず、こうした出来事が訪れる。
そしてその感触は忘れられることはあっても、生涯消えることはないのである。





ひとの目にうつるものに「名前」がつけられること。
そして、その「名前」になってゆくこと。
でも、名前をつけられるその前からあること。
それ以前からある、その意味、その本質、その響き。


言葉を大切にするということが、自分を大事にするということ。

言葉を大切にする、とは、
書くこと、話すことが文法に沿ってなければならない、ということではない。
また敬語をきちんと使わなくてはいけない、ということでもない。


それがその名前や言葉になる前から存在しているそのもの、その本質は、
「私」が知覚する以前からある。
けれども、「私」がその存在を知覚することで「私」の世界は成立する。
私の世界は、私の用いている「言葉」によってできている。

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「哲学」とは、「私は好きにした、君らも好きにしろ」じゃないかな。

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「14歳からの哲学」を題材にした「読書と対話の会」、
初回三人での顔合わせが7月12日で
あいだ二度ほど抜けて、数えてみたら昨日で12回目だった。

1 考える[1]
2 考える[2]
3 考える[3]
4 言葉[1]
5 言葉[2]
6 自分とは誰か
7 死をどう考えるか
8 体の見方
9 心はどこにある
10 他人とは何か

毎回、1章ずつを読み合わせて
感じたこと、考えたこと、
ぱっと思いついたこと、思い出したことを話してゆく。
いま、二巡目。
「考える」は3章、「言葉」は2章にわかれているけれど
一巡目の時は、それぞれ「考える」3章で一回、「言葉」2章で一回とし、あわせて読んだ。
二巡目は丁寧に、わかれた章ごとで話すようにしてみた。
一巡目の時は、なんてあっさりと終わっていたことか。

三人で話すと、まとまりよくおさまってしまう。
それはそれで心地のよい時間だった。
けれども、バランスがよすぎて対話に動きがない。
私たち三人の間に、考えの大きな差がなかったからだろう。

動きが始まるのは、均衡が崩れた時。
対話では、自分ひとりでは思いもよらなかった問いが投げかけられた時。

三人での対話から、6人へ。
そして、8名へと席数を増やした今回は
バトンがとてもいいタイミングで渡されてゆく場になったように思う。

沈黙の時間がほとんどなく
かといって、なにか急くような体感もなく
(まるで口を挟む隙ないほど行き交う言葉が過剰な場では、
長縄跳びのリズムにのれなかった時の事を思い出す。
私にはちょっとしんどい感じ。)
3時間、ずっと8人のままで話をしつづけられる場であったことが
なにより私にはうれしいことだった。

先の記事にも書いたが
哲学「philosophy」とは、知、智を愛すること。
「士希賢」(士は賢をこいねがう)という文言から希哲学と訳し、希が略され「哲学」に。
「哲」は
賢い : 物事の筋道が通っていること
賢い人 : 道理をわきまえている人
を指す。

「それってどういうことだろう」と考える、そのことがすでに哲学であり
その「考える」人の姿を私は愛している。



ところで。
5月から文京区主催のファシリテーター講座に通っているが
講座の中で、文京ミライカフェなる対話の場を一コマ企画する課題がある。
私はここでも「哲学カフェ」やら「哲学対話」を軸とするようなプランをあげてみた。
いくつもプランが上がった中で「キーワード : 哲学」に同意してくださった方がいて、
数名でプランニングしてゆくこととなったが
そのプランニングの場がまさに哲学対話になった。
題して、「そもそもなんやねん、哲学って」。

「哲学」という名前がイヤなんだという、
すでに哲学カフェを運営している方からの声があったり
「対話する事に何の意味があるの ?」という意見があったり。

私は単純に、すでに「哲学対話」や「哲学カフェ」などの場を持っている人たちを
つなぐような場になればなどと考えていたけれど
「哲学」という、なんだかとっつきにくい感じのすることばを軸に
あーだこーだ話せるといいんじゃないということになりそう。

先日の哲学プラクティス連絡会の中でも幾度となく
「哲学対話」と「対話」の違いは?
みたいなことが論議にあがっていたけれど
どこにでも「あの人のやっていることは本物じゃないわよ」
みたいな話があるのだなぁと思って聞いていた。

浴衣を着ていたら知らんオバはんに「あなたの着付けは間違っている」と
正されるような感じにも似ている。
確かにだらしない浴衣の着付けを見ると私も思わず顔をしかめそうになるが
私にとっての正しさを他者に求めると、窮屈なのは実は私だ。
着物離れが進む中、着物を着る楽しさを見出している人がいるということに
「いいね !」と言い合えるといいな。

この「着物」の部分を
「哲学」に置き換えてもいいと、私は思っている。
(さすがにひどい着崩れをおこしていたら、お直しの手伝いはするがな)


みんな、自分の好きなことをやったらいい。
自分のしたいようにすればいい。
(これは、あれですよ。
「私は好きにした、君らも好きにしろ」ですよ。
シンゴジラを見た人にしかわかんないネタだけど <(_ _)>)

そうしていれば、間違いを指摘することはどうでもよくなる。
「あなたもしたいようにやってるのね」
それでいいじゃないか。
「私はこうしてます」という人の姿をみていたい。


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