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空模様

 【14歳からの哲学】10月8日

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「読書と対話の会」ご案内

■日時:10月 8日(土)10時~13時(予定)
■場所: 練馬区富士見台 
(西武池袋線・富士見台駅より徒歩7分)
(ご参加される方へ、直接お伝えします)
  
次回は、第5章  言葉(2)(P31~)
​*途中章からでもご参加いただけます。
読んでなくちゃ参加できないということもありません。
ただし、「14歳からの哲学」はご持参くださいませ。


○会費:500円(お茶とおやつあり〼)
○定員:8名 (残り2席です) 




ひとの目にうつるものに「名前」がつけられること。
そして、その「名前」になってゆくこと。
でも、名前をつけられるその前からあること。


池田晶子著「14歳からの哲学」言葉(2)より
P.36

「しょせんは言葉、現実じゃないよ」という言い方をする大人を、決して信用しちゃいけません。そういう人は、言葉よりも先に現実というものがある、そして、現実とは目に見えるもののことである、とただ思い込んで、言葉こそが現実を作っているという本当のことを知らない人です。




【若松英輔さんの著作「悲しみの秘義」より】

哲学者の井筒俊彦(1914-1993)は晩年、「言葉」とだけでなく
「コトバ」と記すようになった。
コトバと書くことによって彼は、文字の彼方に息づいている豊穣な意味のうごめきを
浮かび上がらせようとした。
井筒が考えるコトバには無数の姿がある。
画家にとっては色と線が、音楽家には旋律が、
彫刻家には形が、宗教者には沈黙がもっとも雄弁なコトバになる。
苦しむ友人のそばで黙って寄り添う、こうした沈黙の行為もまたコトバである。

『荘子』には「地籟」「天籟」という表現が出てくる。
「籟」は、ひびきを意味する。
天地の場合、ひびきがコトバになるというのである。
「天籟」にふれ、井筒はこう書いている。


【人間の耳にこそ聞えないけれども、ある不思議な声が
声ならざる声、音なき声が、虚空を吹き渡り、宇宙を貫流している。
この宇宙的声、あるいは宇宙的コトバのエネルギーは
確かに生き生きと躍動してそこにあるのに、
それが人間の耳には聞えない
/「言語哲学としての真言」】

ひびきという無音の「声」は、耳には聞こえない。
だが胸には届く。
胸が痛む、あるいは胸が張り裂ける、と私たちはいう。
あるいは心の琴線にふれる、ともいう。
コトバが心に届くとき、人は何かに抱きしめられたように感じる。
誰の人生にも幾度かは必ず、こうした出来事が訪れる。
そしてその感触は忘れられることはあっても、生涯消えることはないのである。





ひとの目にうつるものに「名前」がつけられること。
そして、その「名前」になってゆくこと。
でも、名前をつけられるその前からあること。
それ以前からある、その意味、その本質、その響き。


言葉を大切にするということが、自分を大事にするということ。

言葉を大切にする、とは、
書くこと、話すことが文法に沿ってなければならない、ということではない。
また敬語をきちんと使わなくてはいけない、ということでもない。


それがその名前や言葉になる前から存在しているそのもの、その本質は、
「私」が知覚する以前からある。
けれども、「私」がその存在を知覚することで「私」の世界は成立する。
私の世界は、私の用いている「言葉」によってできている。

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