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空模様

 「哲学」とは、「私は好きにした、君らも好きにしろ」じゃないかな。

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「14歳からの哲学」を題材にした「読書と対話の会」、
初回三人での顔合わせが7月12日で
あいだ二度ほど抜けて、数えてみたら昨日で12回目だった。

1 考える[1]
2 考える[2]
3 考える[3]
4 言葉[1]
5 言葉[2]
6 自分とは誰か
7 死をどう考えるか
8 体の見方
9 心はどこにある
10 他人とは何か

毎回、1章ずつを読み合わせて
感じたこと、考えたこと、
ぱっと思いついたこと、思い出したことを話してゆく。
いま、二巡目。
「考える」は3章、「言葉」は2章にわかれているけれど
一巡目の時は、それぞれ「考える」3章で一回、「言葉」2章で一回とし、あわせて読んだ。
二巡目は丁寧に、わかれた章ごとで話すようにしてみた。
一巡目の時は、なんてあっさりと終わっていたことか。

三人で話すと、まとまりよくおさまってしまう。
それはそれで心地のよい時間だった。
けれども、バランスがよすぎて対話に動きがない。
私たち三人の間に、考えの大きな差がなかったからだろう。

動きが始まるのは、均衡が崩れた時。
対話では、自分ひとりでは思いもよらなかった問いが投げかけられた時。

三人での対話から、6人へ。
そして、8名へと席数を増やした今回は
バトンがとてもいいタイミングで渡されてゆく場になったように思う。

沈黙の時間がほとんどなく
かといって、なにか急くような体感もなく
(まるで口を挟む隙ないほど行き交う言葉が過剰な場では、
長縄跳びのリズムにのれなかった時の事を思い出す。
私にはちょっとしんどい感じ。)
3時間、ずっと8人のままで話をしつづけられる場であったことが
なにより私にはうれしいことだった。

先の記事にも書いたが
哲学「philosophy」とは、知、智を愛すること。
「士希賢」(士は賢をこいねがう)という文言から希哲学と訳し、希が略され「哲学」に。
「哲」は
賢い : 物事の筋道が通っていること
賢い人 : 道理をわきまえている人
を指す。

「それってどういうことだろう」と考える、そのことがすでに哲学であり
その「考える」人の姿を私は愛している。



ところで。
5月から文京区主催のファシリテーター講座に通っているが
講座の中で、文京ミライカフェなる対話の場を一コマ企画する課題がある。
私はここでも「哲学カフェ」やら「哲学対話」を軸とするようなプランをあげてみた。
いくつもプランが上がった中で「キーワード : 哲学」に同意してくださった方がいて、
数名でプランニングしてゆくこととなったが
そのプランニングの場がまさに哲学対話になった。
題して、「そもそもなんやねん、哲学って」。

「哲学」という名前がイヤなんだという、
すでに哲学カフェを運営している方からの声があったり
「対話する事に何の意味があるの ?」という意見があったり。

私は単純に、すでに「哲学対話」や「哲学カフェ」などの場を持っている人たちを
つなぐような場になればなどと考えていたけれど
「哲学」という、なんだかとっつきにくい感じのすることばを軸に
あーだこーだ話せるといいんじゃないということになりそう。

先日の哲学プラクティス連絡会の中でも幾度となく
「哲学対話」と「対話」の違いは?
みたいなことが論議にあがっていたけれど
どこにでも「あの人のやっていることは本物じゃないわよ」
みたいな話があるのだなぁと思って聞いていた。

浴衣を着ていたら知らんオバはんに「あなたの着付けは間違っている」と
正されるような感じにも似ている。
確かにだらしない浴衣の着付けを見ると私も思わず顔をしかめそうになるが
私にとっての正しさを他者に求めると、窮屈なのは実は私だ。
着物離れが進む中、着物を着る楽しさを見出している人がいるということに
「いいね !」と言い合えるといいな。

この「着物」の部分を
「哲学」に置き換えてもいいと、私は思っている。
(さすがにひどい着崩れをおこしていたら、お直しの手伝いはするがな)


みんな、自分の好きなことをやったらいい。
自分のしたいようにすればいい。
(これは、あれですよ。
「私は好きにした、君らも好きにしろ」ですよ。
シンゴジラを見た人にしかわかんないネタだけど <(_ _)>)

そうしていれば、間違いを指摘することはどうでもよくなる。
「あなたもしたいようにやってるのね」
それでいいじゃないか。
「私はこうしてます」という人の姿をみていたい。


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