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空模様

 キャラメルと包み紙

ことばが大切だと思ってきたけれど
時に、人が言う「ことば」とわたしが「ことば」と言い表したいものとは
違うように感じてきた。

それを、私は
「キャラメルと包み紙」というように書いていた。

パッケージによってキャラメルの印象も変わってしまうけれど
包み紙じゃなくて、私は中身をただ味わいたいのだ
というように。

たとえば
http://soramoyo.blog43.fc2.com/blog-entry-372.html
http://soramoyo.blog43.fc2.com/blog-entry-382.html




若松英輔さんの「悲しみの秘義」から引用する。

哲学者の井筒俊彦(1914-1993)は晩年、「言葉」とだけでなく
「コトバ」と記すようになった。
コトバと書くことによって彼は、文字の彼方に息づいている豊穣な意味のうごめきを
浮かび上がらせようとした。
井筒が考えるコトバには無数の姿がある。
画家にとっては色と線が、音楽家には旋律が、
彫刻家には形が、宗教者には沈黙がもっとも雄弁なコトバになる。
苦しむ友人のそばで黙って寄り添う、こうした沈黙の行為もまたコトバである。

『荘子』には「地籟」「天籟」という表現が出てくる。
「籟」は、ひびきを意味する。
天地の場合、ひびきがコトバになるというのである。
「天籟」にふれ、井筒はこう書いている。

人間の耳にこそ聞えないけれども、ある不思議な声が
声ならざる声、音なき声が、虚空を吹き渡り、宇宙を貫流している。
この宇宙的声、あるいは宇宙的コトバのエネルギーは
確かに生き生きと躍動してそこにあるのに、
それが人間の耳には聞えない
「言語哲学としての真言」



ひびきという無音の「声」は、耳には聞こえない。
だが胸には届く。
胸が痛む、あるいは胸が張り裂ける、と私たちはいう。
あるいは心の琴線にふれる、ともいう。
コトバが心に届くとき、人は何かに抱きしめられたように感じる。
誰の人生にも幾度かは必ず、こうした出来事が訪れる。
そしてその感触は忘れられることはあっても、生涯消えることはないのである。




私が感じていたのは、このことだ。


池田晶子さんも「言葉が世界をつくる」と書いていたが
池田さんがいうところの「言葉」も、ここにある「コトバ」なんだと思う。

言葉ができるには、その言葉の意味をしっていなくてはならない。
ニワトリが先か、卵が先か。
そのどちらかわからない、そのもとにあるものが「コトバ」であり
私がいいたかったキャラメル。
(キャラメルの先にはクリームや砂糖があるけれど。
そしてクリームの先には、牛乳が。砂糖の先にはさとうきびが。
まだもう少し先をたどれそうだけれど、コトバの先は…)

私がいいたい「ことば」は、多くの人が思う「言葉」じゃなくて
だから、ことばについての話がすんなりできなくなった。


言葉、ことば、コトバ
とかきわけるのも、とりあえず便宜上なだけ。
私はかなが好きなので「ことば」と表している。
おなじ音なので、話すとなるともっとややこしい。
たいてい伝わらない。

この話したいことが伝えられない
というジレンマ、長らくあったよね…。

やっと、的確な表現に出会えた。


ああ、これもね。




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おいしい珈琲と豆を提供してくださる店を教えてもらった。
理想の深煎。

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