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空模様

 死と生きる 獄中哲学対話



池田晶子氏と、1998年死刑判決をうけた恩田真志氏との往復書簡集。
のちに何度も「易しくなかった」と池田さんはいろいろな書き物の中で
こぼしておられるが、まさしく真剣での斬りあいであり
身を、いのちを削って、ソクラテスとプラトンのごとく
「善く生きよ」と強く訴えかけている。
「良いと善いは違う」と。

陸田氏は、一審において死刑を受け入れ上告しないとしていた。
しかし池田さんが「控訴せよ」と伝えた。
単純な命乞いではない。
悪を悪とも思わずに、悪事を働いてきた陸田氏は
独房に入ってはじめて「自分がしたことは悪だった」と気づいた。
そして池田さんに手紙をしたためたのがはじまりだった。
池田さんは、陸田氏が獄中で知り得たことを、他人にも知らしめるべきだとして
もっと考えろ、魂を言葉にしろ、そのための時間をのはぜと訴えた。
そして、往復書簡が展開されていく。



いいもわるいもない
とよくいわれるが、
万人に同じ「良」がないだけで
ひとりひとりのなかに「その人にとっての良」があるはずだ。
そして、その良をなすことが「善」である。
ただし、「金銭的な良いと精神的な善いは違う」。

そのことを、「わかろうとしない者にはわからせる事はできない」と池田さんは斬る。
だから、反感も喰らう。
わかろうとしない大衆から。

P.28
「言ってもわからない」とわかっているのに、それでも私が書いているのは、
あなたのような人がひとりでも増えるよう、それ以外ではありません。
ほかに理由はありません。そうでなければ何もしないほうが、よほどましだからです。
私にとっての「善く生きる」とは、このこと以外ではないのです。

二千五百年後のあなたが、ソクラテスに共感することができたのは、
彼が、善く生きることを自ら示してみせたためだということ。
そして、プラトンという人が、そのことを書いて残したためだということ。
示し、書き、残さなければ、善く生きるということを、人に伝えることはできないのです。
そして、善く生きるということは、明らかに、そのことを「人に伝える」ということを含んでいるのです。





P.141
なるほど最終的には、真理は言語を越え、「あるがまま」ではありますが
理知には理知ゆえの使命があり、それが他でもない、我々がしているところの、
この「言語による真理の表現」です。
音楽も絵画も、それが本物であるならば、必ず同じ「それ」を表現しようとして
為されていますが、しかし、言葉には、音楽と絵画とは決定的に違うところがあります。
それは、思想を人に伝え得る、というこのことです。
音楽や絵画は、人に感動は伝え得ますが、思想を伝えることはできません。
あれらが、直接に人の行動を左右されることがあるかのように見えても、
それは必ず一度、言語化の過程を経ているはずであって、
ベートーベンの音楽によって戦争が起こった、ピカソの絵によって革命が起こった、
ということは絶対にない。人を行動へと駆り立て、戦争や革命を起こすことができるのは、
必ず、「思想」、すなわち「言葉になった考え」だけなのです。
それは一行のスローガンであることもあり、たった一語の単語である場合さえあります。
生かすも殺すも言葉のみ、音楽や絵画によって、人は生きたり死んだりしません。
だから、言葉を大切に扱うことを、くれぐれも心がけて下さい。
せんだって、いわゆる「批評家」という人たちについて、あなたも指摘していましたが
じっさい、あの手のものは、ちゃちな自己顕示欲である場合がほとんどで、
ああいうところに本物はいません。
「愛」なしに批評なんてものが、可能であるわけがない。
他人を叩くくらいの目的で、大事な言葉を使うなど、
言葉を愛していないことのまぎれもない証拠だからです。
なんでそれで「言論人」なんでしょうか。
あなたにもまだ、若干ですが、その傾向が残っています。
「被害者の生命とともに書く」という覚悟なら、最終的に人に届くことができるのは、
愛のある言葉だけだということを、しっかり肝に銘じておいて下さい。




引用が長いが、この引用は
のちのち読み返す時のため。
そしてまた、私自身に届けられている言葉だとも感じるためだ。
とくに以下の部分。


P.142
「愛が大事」と申しましても、あなたも言うような、そのへんのディスカウントショップで
投げ売りしているようなものでなければ、あなたの居る「独房」で
いかにしてこれを維持し得ましょうか。
ただでさえ極端に頭の人なのに、いかにして情理のバランスを保ち得ましょうか。
あるいは、動植物との交感とか、自然への畏敬といった古い感情を思い出すことなど。
あなたが自覚的にそのように努めるという、そこに全てはかかっています。
達磨禅師や荒野のキリストという例もあります。立派すぎるということはありません。
先人に可能だったことは、必ず我々にも可能です。
がんばって下さい。
やり遂げましょう。





「生かすも殺すも言葉のみ、音楽や絵画によって、人は生きたり死んだりしません」
という一文に反感を覚える人もいることかと思う。
私もはじめはかすかに抵抗を感じた。

けれども、こういう時に思い出すのはいつも「46年目の光」というノンフィクションのこと。



マイク・メイは3歳で視力を失った。
46歳のとき、幹細胞移植という手術を受け、視力を取り戻すことができた。
けれども、彼には何も見えなかった。
網膜に刺激が届いている。
実際には、目には映っている。
けれども、それらを認識できない。
彼がみるものは、光が散乱する混沌とした世界だった。
光の散乱、ノイズ。
それをカタチとして認識できるのは、これまでの脳の学習あってこそ。
学習により、あらかじめ予期しているから。
「こういうものだ」という脳の認識=信念が、
目に映るものをカタチとして私たちにみせている。

脳の認識をいい換えると「言語化」となるように思う。
「からだを経る」とはこのことでもあろう。

IMG_8243.jpg


池田さんは2007年に腎臓がんで亡くなっている。
陸田氏は2008年に刑が執行された。
刑を受けるに際して「池田さんのところに行けるのはこの上もない幸せです」
という言葉を残したそうである。

ことばについてあらためてかんがえるきっかけになった。
お二人のやりとりに深謝するばかりである。


考えるということは、精査をあげること。
無意識を意識にのぼらせてゆく。
無意識のその深層こそ、私の源である魂なのだから
言葉も魂なのである。
そう気づけば、適当な(思ってもいない)ことは言えない。

(何度も何度も考えて、本能のままに書き出していって、精査をあげるんだよ。
「思っている」だけでは、あがらない…)

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