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空模様

 仏教思想のゼロポイント



図書館で予約していたのがようやく手元に届いたというのに
この2週間はなんとなく本を読むことに着手できずにいた。
いよいよあさって返さねば!そしてこの本はこの後も予約がぴっちり入っているので延長できない!
ということで、あわててパラパラとページを繰った。

釈迦の言っていることと、仏教が指し示すことって
イコールじゃないな
(まぁ、それはキリスト教とて同じ…)
思ってきたけれど、そういう観点をまたあらたに指し示してくれる本。

仏教が輪廻転生を否定しているという説について。
私も大学で聞いて「そうだっけ」と思ったのだったけれど、
この本の中でも「『ゴーダマ・ブッダは輪廻を説かなかった』という結論は出しようがない」とあった。


仏教、とくに大乗と呼ばれるそれらあまたの教義はじつに多様なのだけれど
それについて明記してくれている本は、これまで読んだことがなかった。
(そこまで違うならなら「仏教」と名乗らなくてもいいのに、とニー仏さんは書いていた)
ゴーダマ・ブッダは「異性と目もあわせないニートになれ」と説いているのだが、
それがどうして人々に手を差し伸べるような教えへと転じたのという説明がわかりやすい。
仏教が世界宗教へとなるに至った由縁。


まだざっくりとしか読めていないけれども、
おおと思ったところは抜粋しておく。


P.175
渇愛を滅尽し解脱に至った者たちは、存在することを「ただ楽しむ」のである。
それはもちろん、「欲望の対象を楽しみ、欲望の対象を喜ぶ」ような、
執著によって得られる「楽しみ」ではなく、
むしろそこからは完全に離れ、誰のものでもなくなった現象を観照することによってはじめて知られる、
「最高の楽(paramam sukham)」と言うべきものだ。
対象への執着がなく、利益が得られるわけでもなく、
必要が満たされるわけでもないが、「ただ楽しい」。
そのようなあり方のことを、「遊び」と呼ぶことは許されるだろう。
仏教では、何ものにもとらわれない自由闊達な仏の境地を「遊戯三昧」と形容するが、
ここで言う「三昧」は、「集中」というより、「まじりけがない」というほどの意味。
つまり、解脱者たちの生きる時間は、その本質として、純粋な「遊び」であるということだ。
したがって、彼らの一部が利他行への実践へと踏み出すのも、もちろん「遊び」ということになる。
彼らは「必要」だからそれをするわけではないし、「意味がある」からそれをするわけでもない。
ただ、眼前の「衆生」と呼ばれる現象は、それが本来「公共物」であることに気づかずに、
「それは私のものであり、それは私であって、それは私の我である」と考えて「世界」を形成し、
自縄自爆の苦しみに陥っている。
解脱者たちも、かつては凡夫であったがゆえに、それが彼らにとっては「事実」であり
「現実」の苦として作用していることをよく知っているから、それを「ただ助ける」ことにするのである。
「ただ助ける」というのは、解脱者たちには行為の対象である衆生に対する執着がなく、
「物語の世界」を実体視してもいないがゆえに、それは意味も利益も必要もなく、
「ただ行われる」ということ。
したがって、それは「遊び」である。

P.177
そして、解脱者たちの「遊戯三昧」は、子供の「遊び」よりももっとまじりけがない。
(略)彼らの生きる時間はその全てが純粋な「遊び」であり、
さらに巳自身も含めたあらゆる現象が「公共物」であることを徹見してもいる以上、
彼らは利他の実践のために、場合によっては自分の命も「芻狗(すうく・神前に供えるわら細工の犬)」
のように捨て去ることを決して厭いはしないのである。
彼らにそれができるのは慈悲の行為が彼らにとって「遊びではない」からではなく、
むしろそれが、「何かそれ以外の大切なもの」を別のどこかで確保しておくことの全くない、
純粋な「遊び」そのものであるからだ。





P.159
涅槃(nibbana)の原義は(煩悩の炎を)「消すこと」だとされるが、
まさに火が消えるように、その時には対象と観察、即ち、継起する現象の認知が消失してしまう。
現象の認知がないのに、「経験」があるというのは理解の難しいことだし、「推論の領域を超えた」ことだ。
だから、その「経験」の内実について、言葉で語ることは不可能である。
ただ言えることは、それが起こった時には、煩悩の炎が実際に消えてしまうということだけだ。



ゼロポイントとは、ここのことだ、と。
ゴーダマ・ブッダがこの経験をしたことが仏教の始点だ、と。


ゴーダマ・ブッダは「異性と目もあわせないニートになれ」と説いている。
それがどうして人々に手を差し伸べるような教えへと転じたのかという説明がわかりやすい。
仏教が世界宗教へとなるに至った由縁。

http://mainichi.jp/articles/20151215/dde/012/070/013000c



(インドの数学における「 0 (ゼロ)」をあらわすシューニャ、
そしてシューニャは「空」をあらわす。
唐突ですが、ばあちゃんちもひきつづき「空」という屋号にしようとおもって〼)

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いただいた沈丁花。あまいながらも、ほんのかすかに柑橘様の爽やかさのある香り。

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