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空模様

 路上より

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友人に声をかけてもらい、ひとさじの会に参加した。
路上で暮らす人たちへ、おにぎりと救援物資を手渡す、そのお手伝いに。
http://hitosaji.jp/muscat1b/categories/94194/

学校からの実習をきっかけに、山谷へ赴くようになった。
山谷は、大阪でいうと西成のような地だと書けば関西の人たちにも伝わるだろうか。
高度経済成長期にはここを拠点に労働者たちが集った。
かつての労働者たちは年をとり、生活保護を受けながら通称ドヤとよばれる簡易宿泊所に暮らす。
こぎれいに改装されたドヤは、最近では海外からのバックパッカーたちに人気らしい。

山谷は、歴史的に興味をひかれる地だ。
最寄りの南千住駅界隈は、江戸時代には刑場だった。
受刑者を弔うために建立されたという首切り地蔵も
駅からほど近い寺院に残されている。
このあたりを掘りかえすと今でも人骨が出て来るそうだ。
そして、南側は吉原、遊郭跡地。
山谷は、死と性にはさまれた街だ。
こういう場所に私は魅かれる。

おにぎりをつくったのは光照院(ちなみに山友会のお墓がある寺院でもある)。
最近、法然さんのことをしらべる機会もあって、光照院が浄土宗であることにあらためて縁を感じる。

三升のお米を6釜分炊き、味を付けて小分けして、みんなでいっせいにラップでくるんでいく。
毎回、200個以上つくっているそうだ。
ベトナムからきた留学生たちは揚げ春巻きをつくっていた。
この日は海外からの留学生たちがたくさん集い、活気に満ちていた。
しかし、数人しか集まらず、人手がまったく足りない日もあるそうだ。
靴下やカイロ、風邪薬などを仕分けしたのち、念仏を唱える時間を持った。
その後、グループにわかれて、隅田川沿い、上野、浅草界隈を歩き、
路上に暮らすひとりひとりへ手渡していった。

ブルーシートと木材でりっぱな小屋をつくって住んでいる人から、
段ボールを解体して小屋にしている人、手荷物一つでただベンチに座る人。
得体の知れない、どこか不気味に思っていた人たちが、
ただ力なくうずくまる人たちとしか映らなくなった。
ごくごく普通の人たちだった。

最終的な集合は、浅草の吾妻橋。
余ったから持って帰ってと受け取ったおにぎりを、池袋の地下にいた人にあげられたらと思った。
今までどちらかというと避けるようにしてきた人たちだったが、
もはや話しかけるのは、むずかしいことではなかった。
横になってた人はおきあがって「いいんですか」と受け取ってくださった。
その人は、ラップにくるまれたおにぎりを開いてにおいを何度も嗅いでいた。
あやしいものじゃないかの確認か、まずはにおいから味わっているのか。


震災が起こった頃は、だれかの悲しみにふれるたびにどうにもできない無力を感じてつらかった。
今は、違う。だれかの悲しみをわたしがどうにかすることはできない。
その人にしか、引き受けられないもの。
人が自由であることは苦しみを伴う。
神は手を貸したり、指図もしない。
人が自由に生きるとは、そういうことなのだろう。
生きることは、その人自身にしかできない。

物理的にではなく、精神的に
横に、もしくはその人にはみえないところで、ずっとその人のそばにあって支えている。
わたしの存在は知らないままでいい。
かなしむ私と、そこにただともにいるだけの私とがある。
ずいぶんと胆力がついた。



そこへいきたいという私の魂に気づくきっかけになったのは、
遠藤周作さんの「深い河」と「沈黙」だったが
2年の課程を終える時、やはり大切にしたいのはここだと再確認させてくれたのは
遠藤さんが「戦友だ」と言い合っていた井上洋治神父の本と、
遠藤さんと井上さんとも交流のあった山根道公さんの本だった。

  「主よ。あなたがいつも沈黙していられるのを恨んでいました」
  「わたしは沈黙していたのではない、一緒に苦しんでいたのに」
  「しかし、あなたはユダに去れとおっしゃった。去って、なすことをなせと言われた。
   ユダはどうなるのですか」
  「私はそう言わなかった。今、お前に踏絵を踏むがいいといっているように
   ユダにもなすがいいと言ったのだ。お前の足が痛むようにユダの心も痛んだのだから」

ここではじめてロドリゴは、長年の疑問であったキリストのユダへの言葉の真意をキリストから明かされて悟るのである。すなわち、キリストのユダへの言葉が決して憤怒や軽蔑からのものでなく、人間の弱さゆえにもうそうするしかどうしようもないといった状況に陥ったユダの苦しみに対して、その痛さと苦しみをともに分かちあう愛から出た言葉であり、決してユダを突き放すような「去れ」という意味ではなかったのだということを悟ったのである。(P.334)

聖書において生前のキリストが何故に美しさも価値もない色あせた襤褸のような人たちを探し求めてその友となったのか、まったく無理解だった弟子たちが命惜しさにキリストを見捨てて見殺しにする体験を通して自らの弱さや惨めさを痛いほどに知らされ、自らも弱い惨めな人間であり、生前のキリストのまわりにいた色あせた人たちと同じであることに気づくことで、はじめて生前のキリストの行いや言葉の真意を理解するようになってゆく課程と重なろう。(P.336)

遠藤周作 その人生と『沈黙』の真実/山根道公著


 

昨日の夜は、雨上がりでなまあたたかく、しっとりとしたもやが街を覆っていた。
スカイツリーは夜の闇の中でぼんやりと浮かんでいた。
夜の街を歩くとしみじみ自由だなぁと思う。

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