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空模様

 死をどう考えるか

「読書と対話の会」。
池田晶子さんの「14歳からの哲学」を輪読して、
考えたことをとつとつと語る会。
5回目の今日は6人で対話。
キャンセル待ちもあったり、また今日はじめてきてくださった方の話から、
こういう話をする場を求めている人はきっともっと多いんだろうなと感じる。
(えんたらいふの斉藤さんがとりまとめてくださってます。ありがたし。
http://msentalife.wix.com/entalife#!blank/c5w0



今日読む章は、はじめて読んだ時に
書いてあることがすんなりと飲み込めず、
しばしうーんと唸った「死をどう考えるか」。




「死とは何か」の一般的な答えとしては、無になること。そこで納得する。しかし、ここも非常に大事なところなんですけど、無というものは無いから無なわけです。無が在ったら無ではない。無は存在しない。存在しか存在しない。したがって、「死ぬということは無になることである」という言い方によって、そこで言われている無というものは無い、すなわち、死は無い、ということになります。にもかかわらず、なぜ無い死を在ると思って人は生きているのか。その視点を手に入れると、死が存在すると思って生きているこの世の光景が可笑しく見えてくる。無いものを在ると思ってるんですから。思い込みですね。世の中のすべてが錯覚の上で動いている。これはおもしろい。
 ですから、死が存在しないと気づきますと、「人生」という言葉の意味するところがまるっきり変わってきます。やがて死ぬ、どうせ死ぬと言えなくなっちゃう。なぜなら死は無いから。人生の意味ががらっと変わる。
 論理的に考えれば確かにそうなります。でも現実に人は死ぬではないか、と反論されるでしょう。確かに毎日、人が死んでいます。でも、死ぬのは常に他人なんですね。だれも自分が死んだことは無い。死は他人の死としてしか経験することができない。やっぱりそれこそが現実なわけです。これ、気がつくと非常に不思議なことなんです。



池田さんは、「死はない」とここでも書いている。
このことが、まるでわからなかった。

  でも、死ぬのは常に他人なんですね。
  だれも自分が死んだことは無い。
  死は他人の死としてしか経験することができない。



そう、確かにそう。
でも、「死はない?」。



この間の授業で、「イワン・イリッチの死」がとりあげられたのだけれど
久しぶりに読み返して、ピカーンと閃光が脳内に走ったのよ。





『ところで死は?どこにいるのだ?』
古くから馴染みになっている死の恐怖をさがしたが、見つからなかった。
いったいどこにいるのだ?
死とはなんだ?
恐怖はまるでなかった。
なぜなら、死がなかったからである。
死の代わりに光があった。
「ああ、そうだったのか!」彼は声にたてて言った。
「なんという喜びだろう!」



(この小説の、ラストの描写は本当にすばらしいので
よかったら図書館ででも借りて読んで欲しい)


ここをあらためて読み返した時に思い出したのは、「46年目の光」。


実話である。
マイク・メイは3歳で視力を失った。
46歳のとき、幹細胞移植という手術を受け
視力を取り戻すことができた。
その、「はじめて目でとらえた」瞬間の描写である。


P.193
ズドーン!ドッカーーーーン!
白い光の洪水がメイの目に、肌に、神経に、細胞に、どっと流れ込んできた。
光はいたるところにある。
光は自分のまわりにも、自分の内側にもある。
髪の毛の中にもある。
吐く息の上にもある。
隣の部屋にもある。隣のビルにもある。隣の町にもある。
医師の声にも、医師の手にもくっついている。
嘘みたいに明るい。
そうだ、この強烈な感覚は明るさに違いない。
とてつもなく明るい。
でも痛みは感じないし、不愉快ですらない。
明るさがこっちに押し寄せてくる。
それは動かない。
それはどこからともなくあらわれる。
どこからともなくやって来るって、どういうことだ?すべて白づくめだ。

P.206
わあっ!
屋外の新鮮な空気がメイのまわりで渦巻き、明るい青と緑と赤と黄の壁紙が
いっせいに押し寄せてきた。
建物の中で見たのとは、まったく別の明るさだった。
右を見ても左を見ても、光り輝くカーテンがあった。



(手術は成功し、視力は戻ったと思われた。
しかし、目の機能が回復しても、マイク・メイは正常に物を見ることが出来ない。
人間は「眼」だけで物を見るのではないのだ。
「見る」ということは、経験によった行為であり、
「視力」とは、ものごとを「脳」でとらえるチカラということらしい。

…しかしこの本は、脳科学の本ではなく、メインはもっとポップなアメリカンサクセスストーリーである。)


この2冊が繋がって、
宇宙は「ひかり」なのだろうと、あらためて思う。


「死」について、私が考えていることは、以前ここに書き出した。
http://soramoyo.blog43.fc2.com/blog-entry-743.html
私が話したことも、だいたい変わらない。


ずーっとずっとしたいと思ってきた「死の話」が、
やっとできた。
ささやかながらも、公然と。

死のことを想いながら、幼い頃のそれは
おどろおどろしいものだった。
こんなおとなになった今は、まぼゆいひかりとなっていることを
あの頃の私に教えてあげたい。

…いや。
知っていたんだよな、本当は。

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