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空模様

 魂との邂逅

前々回のブログに書いた「神は救わない」という話。
まだ足りないなぁと思っている。


図書館で借りた柳田邦男さんの本。




P.46
人間の心や価値観というものは、かたくななように見えて
意外にダイナミックな可塑性を持っている。
その変化を拓くのは、その人なりに切羽詰まった思いでわが身を投入する行動なのではないかと
私は思っている。



このことだと思う。
救うのは他でもない、私自身しかないということ。
神ではなく。




P.23
おそらく、人が、哲学はわからない、哲学をわかりたいと言うとき、
わかっていないのは本当は「哲学」ではなくて、「自分で考える」ことのほうだ。
人生や自分について、自分で考えるその仕方をわからない、と言っているのだ。

しかし、敢えて私は言うけども、「私探し」と人が言うとき、
その〈私〉は、じつは考えられるべき〈私〉ではない。
思い悩まれ、やがて癒されるべきものとしての〈私〉なのだ。
この〈私〉は、哲学的思考の対象としての〈私〉ではない。
なぜなら、思い悩まれ、やがて癒されるべきものとしての〈私〉は
そのような〈私〉として、すでに答えだからだ。

存在するすべての人間が、自分のことを同じ語〈私〉で呼ぶものだから
話は甚だ混乱するのだが、右のような〈私〉を
「社会的な〈私〉」と私は呼びたい。
「私とは何か」と問うて、性格や帰属や来歴や、せいぜいDNAが答えになり得るような〈私〉だ。
人はそれを喪失したと思い、どこかへ探しにゆかなければと思う。

対して、性格や帰属や来歴や、その他一切の属性とは無関係の〈私〉、
したがって、喪失のしようもなく常にここに在る〈私〉、
これを「形而上的な〈私〉」と私は呼んでいる。
哲学的な思考が対象とするのは、こちらである。
デカルトが見出したのも、こちらである。




ここで池田さんが書いている「形而上的な〈私〉」とは、魂のことである。
私の理解である。

魂としての〈私〉の声は、頭で考えるだけでは聴こえない。

感覚とよばれる、
聴く、嗅ぐ、ふれる、味わう、匂う・・・
それら「感じること」すべてを総動員してはじめて
「考える」という。
からだを使うことも、考えることなのだ。

「からだで覚えるには、まずはゆっくりゆっくり動いてみることで
そこではたらくべき筋肉が、その動きを理解するから。
はやく動いてしまうと、見た目だけが同じ、表面だけのものになってしまう」

(これは、身体儀礼にもつながる)

無意識にやってしまっていることを
意識にのぼらせて、精緻に磨いてゆく。

その過程に、魂との邂逅があるのだろうと私は思っている。
他人は欺けても、自分を欺くことだけはどうしてもできない。
「どうしたらよいですか」と問うているのは、神に対してではなく
魂としての〈私〉に対してなんだ。

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