Welcome to my blog

空模様

 「南無阿弥陀仏」と「これでいいのだ」

先日、この記事を読んだ。
いのちのケア 末期がんの内科医・僧侶、田中雅博さん
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12100137.html?rm=150

「私は進行がんが専門で、がんセンターでは内分泌部治療研究室長も務めました。医学はいのちを延ばすことを扱うわけですが、そのいのちをどう生きるかという問題にはまったく役に立たない。体の痛みを止める医師が必要であるのと同じように、『いのちの苦』の専門家が必要です。それがほとんどいないのは日本の医療の欠陥だと思います」

 《田中さんが言う「いのちの苦」は医療分野で「スピリチュアルペイン」(spiritual pain)と呼ばれる。世界保健機関(WHO)でも議論され、生きる意味の喪失や死後への不安などが含まれるとされる。

 キリスト教文化を背景とした欧米の多くの病院には、これに対応する専門職がいる。田中さんは1980年代から、日本でも「スピリチュアルケア」(spiritual care=いのちのケア)が必要だと提言。ローマ法王庁が呼びかけた国際会議にも4度招かれ、海外の実情を学んだ。》

「人というのは、元気なうちは自己の欲望にとらわれたり、怒ったり、他人を差別したりするものです。しかし死が避けられないとなったときは、そうしたことから離れて、自分のいのちを超えた価値を獲得するチャンスでもあります。いのちより大事にしたいもの。それは信仰を持たない人にとっても、自身の『宗教』だと思うんですよ。それに気づくことができれば、その大事なもののために残りの時間を生きることができるのではないでしょうか」

 ――医療の現場には宗教に対する違和感もあるようです。スピリチュアルケアをする人は宗教者でなければいけませんか。
 「必ずしも宗教者でなくてもいいと思いますよ。欧州では哲学畑の人もいるそうです。ただ、仏教は私たちの死生観に何らかの影響を与えていますから、日本では少なくとも仏教の知識は欠かせません。もし病院で僧衣に違和感があるなら、制服を作ってもいい。ローマの病院でスピリチュアルケアに携わる人に会ったら、白衣を着ていましたね」




私はひととき、仏教の思想にひかれていたが
(なんせ屋号を「空」にするぐらい)
かといって、日本ではどのように仏教がひろまっていったか
また民衆のあいだで、何が仏教に求められていたかについては
ほとんど知らない。

上の記事を読んだあとで、仏教についてやはりもうすこし知らねば
と漠然と考えていた。
たまたまその後、「親鸞さんばかり目立っているけど、法然さんあってこそ」
というような記事を見たような気がするのだが
それがなんだったのかなにゆえだったのか、まったく覚えていないし、記録もない。
ネットのログもたどってみたのだが、足跡は見つからない。


とにかく、なんでか覚えていないけど、こないだ図書館に行った時に
「法然さんについての本を読まねば」と思い
借りたのが、この本。



法然さんと言えば、MJの影響で
「ホーネン、ホーネン」という掛け声がおのずと浮かんでしまう。
出典こちら


南無阿弥陀仏と唱えれば、極楽へ行ける。
貧しくとも、老いも若きも、男も女も、隔たりなく。
そして仏教は民衆のものとなった、その程度である。
私が知っているのは。

P.50
みんなが「南無阿弥陀仏」を口にして称えられるようになったということは
誰もが口ずさめる仏教ボーカルができたということで、
それなら民衆たちはまるでヒット曲のさわりが歌えるような気分になったということなのです。
こういうことも手伝って、専修念仏の輪はしだいに民衆たちの間に広まっていきました。



法然の噂を聞きつけた顕真は、噂の真意を尋ねるために
大原でカンファレンスをひらくことにしました。
浄土宗で伝えられるところの「大原問答」です。
歴史上ではあまりとりあげられることがありませんが
日本宗教史上では、きわめて注目すべきターニングポイントでした。

P.58
元来、浄土に往生を遂げるとか悟りをひらくといったことは、
一般の市井に生きる人々にはなかなか適わぬことでした。
仏教教典は弟子たちがブッダの言葉を編集して成立したものです。
サンスクリットやパーリ語で書かれています。
これをシルクロードを渡ってきた訳経僧たちは、中国僧とともに漢訳していったわけですが、
そのうち雑然と訳出されてきた仏典を体系づけて解釈する必要が生じました。
そのようにバラバラに漢訳してきた経典を
一貫した解釈によって再編集することを「教相判釈」といいます。
いろいろの判釈があったのですが、
とりわけ天台智顗が説いた「五時八教」という判釈が主流になると、
その見方が日本に入ってきて、最澄以下の叡山の学僧によって受けとめられ、
そこで修行から成仏までのプロセスが細かに組み立てられたのです。
法然は一人の「乱想の凡夫」として、
それほどまでに体系づけられた修行は続けることはできない主張します。
天台の教えは正しいかも知れないが、その体系にもとづいて往生するためには
自ら律する修行をずっと続けることになる。
仏教には、もっと思想的な瞬間や想念としての瞬間に
間にあうような方法がなくてはならないのではないか。
法然はそういうことを訴えたのです。
法然の強みとなったのは、仏教界を代表するような論客を前にして、
私には「乱想の凡夫」としての境界性しか語ることができない
という立場にたったことだと思います。
こうして、大原問答は法然の名声を大きく高めることになりました。
このとき、日本仏教史はまったくのあらたな転換を見たのです。





この本におさめられている、法然の研究者である町田宗鳳さんと正剛さんとの
「いかに大地震と原発事故をうけとめるべきか」の対談は
いままたあらためて、多くの人に読まれるべきテキストだと思う。
下記にかなり抜粋しているが、できれば本で読んでほしい。
図書館で借りてでもいいと思う。

対談相手の町田さんの語る法然像がすてきだ。

「月のはばかりの時、経よみ候はいかが候」
「くるしみあるべしとも見えず候」

生理中に法華経をあげてもよろしいんですか、と法然さんに聞いているわけです。
法然さんが何の問題があるんですか、と。
一切そういうものは苦しみにならない。何の気にする必要もありませんよ。

猛烈な批判にさらされ続け流罪も受けているが、意に介さなかったそうな。
「かなわぬ物ゆえに、とあらんかからんと思いて、
決定心おこらぬ人は、往生不定の人なるべし」。
そんなものは到底叶わない、とあれやこれやと条件を考えて決断力のない人は、
結局極楽往生できないんだ、と。

「私たちも自分たちの才能とかいろんなことを考えて、
自分たち自身にブレーキをかけているところがありますけれども、
きっと私の夢を実現するんだ、と。
必ず自分は夢を実現するし、必ず幸福になるんだ、という確信を持った時に
きっとそれが実現していくんですよという教えとして受け止めたら
これは非常に今日的なメッセージになり得るんじゃないかと思いますね」

法然さんの改革は見事に親鸞さんへ受けつがれ、
民衆の間に仏のおしえが華ひらいてゆく。
私たちが「えーっと、日本人は仏教徒?」となることはじめ。


「南無阿弥陀仏」と唱えりゃ、極楽ゆけんのかよと。
そう思えたなら、それでええと私も思う。
なんとハッピーな。
あなたが思う世界、宇宙はあなただけのもので、誰をも不可侵。
疑っているのだとしたら、疑う人はあなた以外にないということだし。

法然さんの強さが、バシッときたわ〜。
その強さはバカボンのパパ的。
「これでいいのだ〜」と笑って言えることよね。

バカボンのパパは、法然ちっく。
「南無阿弥陀仏」と「これでいいのだ」は同義やな。

そういえば、赤塚さんは、下にでてくる町田さん曰くの「痴聖人」だと思う。
赤塚さんのなかに、仏のおしえは浸透していたんだろうなぁとなんとなく思う。


…と思って、調べたらえらいことだったわ。
「バカボン」とは薄伽梵(バギャボン・バガボン)仏教用語でお釈迦様の敬称であり、
サンスクリット語の「Bhagavan(バガヴァーン)」「Bhagavad(ヴァガバッド)」
全知全能者、覚れる者という意味で、
Buddha(仏陀、ブッダ)と同義語を漢訳したもの…とあった。
http://lealta.jp/its-all-right/

そうか。
知らず知らずのうちに、痴聖人「赤塚不二夫」によって、教えを受けていたのね。
今になってこうしてわかるなんて、ちょっと泣けるわ。

バカボンのパパ




P.179
「悪人正機説における『悪人』というのは、
何か倫理的に悪いことをした人という意味ではありません。
自分の中の『悪』に気づいた人のことを『悪人』というのです」。
親鸞はみずからのことを『蛇蝎のごとくなり』と言ったけれども、
彼は自分のなかにひそむサタンをちゃんと見ている。
そういう自分がいて、どうしようもないものと思い、業の深さを感じる。
そこに気がつかないと、「悪」を抱える自分を救ってくださる阿弥陀さんがおられる
という信仰の世界には入っていけないはずです。
その自覚ができる人のことを「悪人」とよぶのです」

P.182
町田「法然という人は、『悪』というものを徹底的に見つめました。
それはもちろん、自分のなかの『悪』だけではなかったでしょう。
彼の生きた時代は、人間の『悪』が露骨にでている時代だった。
目の前で殺し合いをしている、路上で強姦もしている、そんな光景を毎日のように見ていたわけですから
このとてつもない『悪』が救われるためにはどうしたらいいのかと徹底的に考えることができた。
その思索の末にたどり着いたのが悪人正機説(※)ですから、
これは一神教を信じる人たちにもぜひ聞いていただきたい。
彼らは、信仰のなかに『悪』をもたない、いい換えれば、
信仰を持つ者はみな善人だと考えている。
そうすると、このすばらしい信仰を共有しないやつはサタンだから、
原爆を落としてもいいとかミサイルをぶち込んでもいいという発送になってしまいかねないんです」
松岡「悪が敵になってしまう」
町田「仮想敵をつくって攻撃する、そして軍事力や経済力を高めていく。
これが近代文明の本質ですからね。なので文明のパラダイム・シフトがあるならば
まさに『悪人』を取り込むようなコミュニティをつくっていく必要がある」。

松岡「仏教では『悪人』であるかどうかは、カルマとしての『悪』をどう感じるかが
問題になっています。誰にでもあるものが、いまは自分のところにやってきて宿ってしまった。
そういう『悪』ですから、必ずしも行為としての『悪』、
裁かれる『悪』であるとはかぎらないのです。
悪人正機説という独自の思想が生まれた理由は、ここにあるような気がします」。

※悪人正機説
阿弥陀仏が救済したい対象は、衆生である。
すべての衆生は、末法濁世を生きる煩悩具足の凡夫たる「悪人」である。
よって自分は「悪人」であると目覚させられた者こそ、
阿弥陀仏の救済の対象であることを知りえるという意である
親鸞が説いたことで有名であるが、親鸞の独創ではなく
法然の教えでもある。


町田「法然さんが本当にしつこく口癖のように使う言葉に『生死を離る』というものがあります。
人間が生きるとか死ぬとかはあまり問題ではない。トイレで死んでもいい、大通りで死んでもいい、
みんな永遠のいのちに還っていくのだ、という感覚をもっていた。
ギリシャ語のビオスとゾーエという言葉を使って説明すると、さらにわかりやすい。
ビオスは個体生命です。
お数珠でいえば、一粒一粒がビオスで、つないでいる糸がゾーエです。
近代ではこのビオスしか見えなくなっているから、この粒が死んだら終わりだ
ということになってしまう。けれどもゾーエを見ていたら、一粒が二十歳で死んでもいい、
一〇〇歳で死んでもいい、なぜならみんなが同じところに還るのだから、と思えてくる。
宇宙生命的な空間に戻っていくわけです。仏教にはそういう安心感がある。
これをもっと科学的に論じられたらいいと思いますね」

松岡「仏教のいいところは、生もつながっているし死もつながっているところです。
弘法大師が『秘蔵宝鑰』に残した言葉に、『生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、
死に死に死に死んで死の終わりに冥し』というものがあります。
生と死は数珠のようにつながっている、と。
ここが仏教の重要なところです。この死生観がまさに救いです」

町田「私がよく言うことですが、西洋における理想的な人間は聖人です。
道徳的にまったく傷がなく、独身で、神に近いような高いところで崇め奉られる人のことです。
ところが東洋の理想的人間像は「十牛図」にでてくるように痴聖人です。
教養があるかどうか、修行したかどうかもわからない、
それでいて安心立命の世界に生きているような普通のおじちゃん、おばちゃん。
ここでもやはりゾーエ的な生命を直観している」。




0 Comments

Add your comment