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空模様

 哲学対話

立教大学でひらかれた哲学プラクティス連絡会に
誘いを受けて参加してみた。

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「学会」ではなく「連絡会」というところがミソである。


「お金をもらっていない人から先生と呼ばれるわけにはいかない」
と、どんな人であろうと先生と呼ぶことは禁止であるということ。
また、小学生以下は保護者同伴であれば参加可であり
こどもたちが教室内をうろうろしたとしても
それを困難に思うような人はむしろ参加してもらわなくても結構であるということ。
この二点について、まずはじめに(おそらく)会の代表である
立教大学の教授、河野哲也さんが釘を刺した。

これだけでも、この会はおもしろいぞと思う。

哲学プラクティスとは
おもに対話という手法をもちいながら、哲学的なテーマについて
共同で探求する実践的な活動をさす。(会のプログラムより)

学校の授業となっていたり
各地で哲学カフェと称した場が開催されていたり
このところ「哲学」はちょっとした盛り上がりを見せているそうで
私がそのキーワードを見かけるのも
自分の関心のせいだけではなかったのだと知る。

すでに参加している人、
まだ参加はしたことないけれど関心を持っている人、
なにそれ?と思っている人が集い(180名ほどが集まったと聞く)
すでに実践されている方々から報告を受けたり、
情報を交換しあったりする場となった。
私のようなひよっこが参加しても大丈夫かしら
とほんの少しは思ったりしたが
いきなり老舗の哲学カフェに参加するよりは気楽にすごせたと思う。


私がびっくりしたのは
保育園で行われている哲学対話。

本当に、こどもは大人が思っている以上にいろんなことを考えている。

池田晶子さんが(好きなのでどうしても引き合いに出してしまうが)
「こどもは純粋理性だと知るべきだ」と書いていて
(たしか「あたりまえなことばかり」のなかで)
まったくだと思う。

長いバージョンもあるのでよかったら。


(映像の中で「犯人がどうのこうの」と言っている男の子のお父さんは
警察におつとめなのだそうだ)



私のこころにとどまっている点はふたつ。

・場の安全

夏にあった病院実習のグループワークで
自分の死生観をテーマにした時に
私は「DEATH CAFE」、つまり「死」について語り合うことのできる場を
想定して話をしたのだが、スーパーバイザーから
「本当に死にたいという人が来たらどうするの?」と問われた。
自分が参加したことのある会で、精神的に不安定な人と遭遇したことがなく
これはまったく盲点だった。

哲学対話と、大括したところのメンタルヘルスに関わるグループワーク
との線引きは容易ではないだろう。

参加した人の中からの質問にもあったことだった。
ファシリテーターの能力がなにより問われるなぁ…。

・「ただしい」ということば

絶対的な善、正しさはあると考えるようになったのは最近ではある。
それまでは私も「善も悪もないよね」と言ったりしていた。
そこで使われる善悪は、相対的な規範だ。
そんなものをはるかに超えているのが
本来の「善」であり、「正しさ」であろう。

だから「善も悪もないよね」というのは御意でもあるが
やはり、間違っている。
言葉に包まれる以前に、意味であったり、本質であったり、真理があるから
言葉となりうる。
絶対的な「善」や「正しい」があるということだと今は思う。

(あ、でもどちらも漢字なので
やまと言葉の「よし」「あし」についてもう少し調べたいところ)


ワークショップで、「人はなぜ哲学カフェに集うのか」という問いについて
30人超で考えを述べあったのだけれど
ある方が、「哲学とは、だれにとっても『正しいこと』を対話によって見つけていくことだと思う」
というようなことを述べられた時に、多くの人が「拒否」といってもいいような反応を見せた。
それがとても印象的だった。
そう簡単に使ってはいけないことばだということにあらためて気づいた。



正しいということばはむずかしいことばだ。
ことばは、シンプルであればあるほど、むずかしいようだ。
だって、多くの人があらためて意味を問わないほどにアタリマエだと思っているから。
その「アタリマエ」を「どういうこと?」と問うて、
誰にとってもの「正解」を見つけていくのだよ。
すぐには見つからないし、正解があるのかどうかもわからないことをね
ああだ、こうだと言い合うの。
それが哲学対話。

対話において理解するということは共通なものへと変身することである
H.G.ガダマー



この「対話」という言葉に、私は一般に使われているものといくらか異なった意味を与えたい。
意味をより深く理解するには、言葉の由来を知ることが役立つ場合が多い。
「ダイアローグ(dialogue)」はギリシャ語の「dialogos」という言葉から生まれた。
「logos」とは、「言葉」という意味であり、ここでは「言葉の意味」と考えてもいいだろう。
「dia」は「~をとして」という意味である―「二つ」という意味ではない。
対話は二人の間だけでなく、何人の間でも可能なものなのだ。
対話の精神が存在すれば、一人でも自分自身と対話できる。
この語源から、人々の間を通って流れている「意味の流れ」という映像やイメージが生まれてくる。
これは、グループ全体に一種の意味の流れが生じ、
そこから何か新たな理解が現れてくる可能性を伝えている。
この新たな理解は、そもそも出発点には存在しなかったものかもしれない。
それは創造的なものである。このように何かの意味を共有することは、
「接着剤」や「セメント」のように、人々や社会を互いにくっつける役目を果たしている。
『ダイアローグ』デヴィッド・ボーム著





人を言い表すのに、
人間と書いたり
Human beingと言ったりする。
「間」、「being」
その意味は「対話」にあるという気が、私はしている。


日本における哲学カフェ草分けのお一人、上智大のT先生、あ、Tさんは
グリーフケア研究所の構成員でもいらっしゃった。
お声をかけたら、「もしかして面接した?」と聞かれた。
私が面接していただいたのはO先生だったなぁ。
ここのところケアの現場も、「対話」は大きなキーワード。
オープンダイアログ
ユマニチュード
ナラティブ
グリーフケア
スピリチュアルケア。

根底に流れるものは大きく変わらないと思う。
他者への尊厳(存在肯定)、
語ること、
そして聴くこと。

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