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空模様

 自然が先生

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長年続けてきた気功の教室で、先生からは
「自然が先生です」と教わってきた。
気功の目的は「からだの自然を呼び覚ます」ことと。


からだと宇宙のあいだにある
無数の言葉を繋ぎたいとずっと思ってきた。
去年、その機会をいただき
なんとか一冊の本にまとめることができた。
まだまだ稚拙ではあるし、完璧とはまるで言えないが
本質的なところはおそらくこの先も変わらないと思う。

特定の宗教には属していないが
「宗教的なもの」にはひかれてきた。
仏像が好きだと思ってきたのも
屋号に「空」と名付けたのも
長崎に伝来したキリスト教の話にひかれるのも
イスラムの文様アラベスクにひかれるのも
おそらくすべておなじみなもとにある。

宗教はいらないが
信仰はある
と公言してきた。


上智大学グリーフケア研究所の講座に通うようになって
「スピリチュアリティ」ということばを聞くようになった。
それは、私がずっと考えてきた「信仰」と
おなじものを言うと直観した。

どこかしらに脈々と、地下水のように湧きつづけているもの。
それは記憶なのか。
いつから、なにゆえ、どこからのものなのか。
まるでクラウドのようだ。
そのサーバーはどこにある?


どうしてそれを私は知っているのだろう。
もちろんその過程には、カタチあるものに触れて
それを観音というとか、菩薩というとかわかるわけだけれど
それにひかれるのはなぜなんだろう。
魂ということばに、あああのことだとわかるのはなぜなんだろう。

「大拙が考える霊性というのは要するに、誰もが持っている宗教心とか宗教性のことなんですね。
これは、仏教とかキリスト教とか神道とかは関係なく、脈々と人間に流れていますが、
それが花開くためには、地下水を吸い上げるための井戸みたいな装置、回路がいる。
宗教が井戸なら、霊性は地下水ということになります」
と釈徹宗さんが話していた。

宗教が地下から水をくみ上げることのできる電動ポンプだとしたら
電動ポンプを持っていない私は、みずから掘り出すしかない。
気づいたら掘り出しにかかっていた。
自然にそうなった。


数学を表すmathematicsの語源μαθηματα(マテーマタ)には
「すでに知っていることを学ぶ」という意味があると聞いた。

なぜだかわからないけれど
どういうことだかまるでわからないけれど
もともと知っているとしかいいようのないものを
人はもってうまれる。


うまれたばかりのこどもは、知っている。
とくに教えられていなくとも
そこから乳がでることを知っている。

どうやったら寝返りをうてるのかも、
どうやったら立てるようになるかも
知っている。
ふわりとたよりなげにあることで
おとなたちが仕えてくれることも。
イヤなことには泣いて全力で拒み、
気持ちのよいことは繰り返し何度も求め、
満足したら笑顔をふりまき
まわりにいる者を安心させる。
そこにいるだけで、いい。
生きるために必要なことは、わかっている。



なぜだかわからないが
おのずとそうなっている。

それをこそ「自然」というのだ。
私が今ここにいるのも
その「自然」のもとに。

なぜだかわからないけれど
ここにいる。

そして、私は知っていたのだ。
ただ生きるための力をもともと持っている、と。

掘り出しつづけて、ようやくその水脈を見つけた。

「自然が先生」。
気功で教わってきたことだったが
今またここにかえってきたと思った。

私を生かしているものは「自然」、
おのずからそうなっている、
オノズカラシカリ、
そのものからだった。


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