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空模様

 久高オデッセイと地下水脈と私の課題

いよいよ学校も残り半期になり
「この半期で取り組みたい課題は」とスーパーバイザーから問われる。
その場で思いついたことを話したが、
あとあとどうもしっくりこない。
話したことももちろんそうなのだけれど
もっと大事なことがあるはず。
なんとなく釈然としない気持ちのまま
午前の授業が終わった。

その日の午後は研究所主催の
『久高オデッセイ第三部風章』上映会とシンポジウムに出席。
シスター高木と島薗先生と鎌田先生、三人のトークショー(違)
これは聞き逃せないでしょ。


kudaka

映像はあまりにも美しく、あまりにも心地よく
時折、抗いきれない睡魔に襲われる。
眼を見開いていたいのだが、これは神々の誘いである。
いざなわれると、はいとおとなしく身を委ねる他ない。
ZZZ…

心身ともに一番揺さぶられたのは
スーツ姿の男性のカチャーシー。
人が魂からも踊る姿には、
まさしく共振というか、うちふるえる。
ちょうど少し前に読んだこれが頭をよぎる。
町田康訳「奇怪な鬼に瘤を除去される」(『宇治拾遺物語』より)


久高島は、琉球を造った祖神アマミキヨが最初に降り立ち
国造りを始めた地と伝えられており
歴代の琉球国王も参詣を欠かさなかったとされる。
現在でも、島をあげての祭祀は数多くおこなわれており
12年ごとの午年におこなわれるイザイホーは多くの観客を集めていた。
イザイホーとは島で生まれ育った30歳から41歳までの女性が
セジ(霊力)を受け継ぐために行われる成巫式のことであるが
1978年以降、後継者がなくなり途絶えている。


特筆すべきは、土地を個人で所有するという概念がないこと。
土地は神様からお借りしているものと考えられ、
島の集落外、北部は聖域としてまもられている。


久高オデッセイは、2002年に撮影が始められた。
大重監督は病を抱えながらも13年という歳月をかけて
今年1月5日イザイホーがおこなわれるはずの日を見届け
自らのいのちをそそぎこむかのように
6月に第三部を完成させた。そして7月22日に亡くなった。

鎌田さんは、大重監督のことを
「気配の魔術師」と書かれていた。
一貫して大自然の中でつつましくもたくましく
けなげに生き抜いていくいのちの輝きと祭りとエロスを描いてきた
と綴っている。

自然は官能的である。
自然のうちにエロスを感じるのは、
聖なるものが本来は性なるものであるからだろう。
わたしはそう思う。

性は、いやらしい?
何を言ってるんだろうと思う。
色なくして、人うまれず。
この世をうみだしているものは性(聖)であろうぞ。



この映画の中には、大重監督の語りが入っている。

「地下水脈がわき出るような歌声であった。
祭りは途絶えているが、祭りの命は息づいている。
祭りは人間が生きている限り行われる。
生きていることの証が祭りである。
やがて違った形で復活するだろう。
12年間待っていた島の姿を確認した。
東の海の向こうには、ニライカナイがあると言われている。
しかし、この島こそが、この地上こそがニライカナイではないかと思えてくる。
地球の7割が海である。陸地が海によって、繋がっている。
海に育まれている久高島は、姿を変えながらも、脈々と命を繋いでいた」。



以前、釈徹宗さんがメタ宗教について
鈴木大拙の霊性論から次のように解説されていた。

「大拙が考える霊性というのは要するに、誰もが持っている宗教心とか宗教性のことなんですね。
これは、仏教とかキリスト教とか神道とかは関係なく、脈々と人間に流れていますが、
それが花開くためには、地下水を吸い上げるための井戸みたいな装置、回路がいる。
宗教が井戸なら、霊性は地下水ということになります」。
鈴木大拙の霊性とは、「メタ宗教性」であり、
宗教をつくるもの、宗教以前の宗教、それを霊性と名づけた、と。
(内田樹・釈徹宗『現代霊性論』講談社)



この一節と、大重監督の言葉は
おなじことを語っているなぁと
映像を見ながら思い出していた。


見えないところで、地下深くで水は脈々と流れつづけている。

ああ、これだったな
私の課題は
と思い出す。

私は、今通っている学校に入る前から
信仰と宗教はベツモノだとことあるごとに考えてきた。
だから特定の宗教には属さないと言ってきた。
しかし、自身の信仰については
いざ語る言葉をなにも持っていなかった。
なにを私は信じているというのだ?
信仰と言ったところで、あまりにも漠然としていた。

この地下水脈は私の中にも流れている。
釈徹宗さんのことばで、腑に落ちた。
私の中には地下水脈が流れている。

そして大重監督のことばで
それは確信に変わった。

不可解な大宇宙に生き死ぬ不思議、この感覚に目ざめるだけで、じつは十分なのではなかろうか。
この感覚は、ある意味で、畏怖する謙虚さのようなものだからである。
池田晶子「あたりまえなことばかり」トランスビュー



聖職者が語るところの「神」「おおいなるもの」を言い替えると
私にとっては「自然」である。
私がうまれてかえるのもここである。
そして、それは信仰ではなく確信となった。
この一年半で。


いや、まだよくわからない。
でも、ここが私の今のまなびへの源泉だった。
ここと離れずにいること、
そして、いのりへとどうやってつなげていくのか。
次の春、私はここで得たものに
あらためて気づけるのかもしれない。
私がこの学校になぜ入ったのかは、
地下水脈を掘り起こすためであった
と今になって言えるからだ。



シャーマンはことばであらわし
大重監督は、映像であらわした。
中沢さんがアースダイバーで書かれたことを
大重監督は映像でもってみせた。
本気だったゆえに荒く激しく向かい、
監督のもとを離れた人も多かった。
監督ほど貧乏な人はいなかった、
しかし、人には恵まれていた。
自然の気配を繊細に嗅ぎ取り
それはこうして映画となり、
彼の精神はそこに宿りつづけている
と、監督に近しい方々が話された。


今日は、東京自由大学で開催された
久高オデッセイ第一部結章を見に行った。
その前に「原郷ニライカナイへ」 が上映された。
大重監督が久高オデッセイをとりつづける契機となったのが
比嘉康雄さんのことばだったという。
この映画もすごかった。
予告編だけでも、射抜かれる。



12月12日(土)「久高オデッセイ第二部 生章」が
東京自由大学で上映される。
お時間ある方はぜひ。
http://jiyudaigaku.la.coocan.jp/


あとそうそう、土曜日には大学院の募集要項が配布された。
「実践宗教学研究科 死生学専攻」。
くぅぅ、行きたいぜ、大学院。
宝くじ、買いに行こうかな。
年末ジャンボ。

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