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空模様

 そこに、その人がいる

後期の授業が始まった。

病院実習、高野山での学会のこと
早く書き出しておかねばと思いながらも
日が経つにつれ、「書き出しておきたかったこと」が
流れてゆく。
ああ、ホントに早く書き出しておかないといけなかった。
あの時感じたあれやこれやが、
「はてなんだったかのぅ」になってしまっている。

しかたない。
とりあえず、日が経っていないことから書き出しておこう。

前期の授業がハズレだったため
(1年目の授業がすごすぎたから期待がいやがうえにも高まりすぎたのだ…)
後期も期待しないでおこうと思っていたのだけれど
初日から、息するのも忘れるほど先生の話にひきこまれてしまった。
とくに社会福祉学。

福祉≠社会福祉。
ここに社会がつくことの意義について。

「その人の話を丁寧に受けとめながら社会資源につなぐ、情報の紹介に終わらない」
という箇所が残った。(メモしておいてヨカッタ)

また、シェイクスピア、マクベスからの一文を紹介してくださった。

悲しみを声に立てなさい。
口に出さない悲しみは荷の勝ち過ぎた心臓にささやいてそれを破裂させる。


社会に取り残されている人々にとっての
エンパワメントはかえって疲弊させるだけ。
その前に、そこに至るまでの苦しみが癒されなければ
情報だけを与えても、動きようがない。

ならば、どうなれば、どうであれば、癒されたと人は感じられるのだろうか。
この、癒されていない人の方が圧倒的に多いこの世の中で。

先生の話を伺いながら
私は池田晶子さんの著書「あたりまえのことばかり」の中にでてくる
〈どうすれば癒されるのか〉の章を思い出していた。
http://soramoyo.blog43.fc2.com/blog-entry-748.html

不可解であることを知るということは、
不可解であることを受け容れるということに他ならないからである。

自分を受け容れる、自分という心を受け容れるという行為が
何か広く遥かなものへの祈りに似てくるのはこの理由によるだろう。
自力と他力の接する接点、受け容れることで見透かしていけるようなあの領域である。



苦しみ、苦しいということの明らかな感情ですら、
自分にとっては不可解な訪れなのだと知ることで、
それがよってきたる遥かな方へと解き放たれてゆくといったことだ。
そのことによって、事実上の人生が何か変わるわけでもないかも知れない。
しかし人は、物語を楽しむように苦しみを楽しむ、
そんなふうに自分の人生を歩き始めるのではないだろうか。




明確な、すっきりとしたこたえはない。
だから、授業はもんもんとした気持ちが終わる。
私は痛いもん好き(痛いモノズキ)なので、
この痛みやすっきりしない具合はある意味快感である。

そうして、もんもんと考えながら飲むお酒は最高なのである。


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水曜日、学校帰りによった店がよかった。
本当は、学校の友人と話したくていったのだが
わたしたちがゆっくりと話すための隙をみつけようとすると、
写真に写る二人によってことごとく阻止された。

まぁ、でもそれがよかった。
この地で38年間飲み屋を営むママさんは
飲み屋をしながら、ケアマネの資格をとっていたり
休みの日には新宿区のホームレス支援をおこなっていた。

私も山谷に赴き、おっちゃんらと話すことは
小料理屋でのバイトの延長線上にあるなぁと
なんとなく感じていたが、
飲み屋というのは、おっちゃんたちにとって
「ケアをうける場」なのだなぁと思う。
そんなことは謳われていないが、
「ケアを受けている、施している」と誰も口にしないところは
山谷で向かう先でも同じことである。


そう簡単に癒されはしない。
けれども「そこに、その人がいる」ということのかけがえのなさを思う。


学校へ通うのもあと半期。
限られた時間の中で、とことん楽しんでいく。

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