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空模様

 人と人、その間

8月の終わりから一週間泊まり込みでの病院実習、
そして、ほどなく高野山大学でひらかれるスピリチュアル・ケア学会への遠征、
さらに友人たちとの「考えるためのミーティング」を経て
通年実習のために山谷へ…
と、あまりにも濃密な半月だった。
その間、安保法案可決の報もあった。

記しておきたいことばかり。


病院実習は海にほど近い大きな病院でおこなわれた。
通えない場所だったので泊まり込みだった。
あの海の色とともに忘れたくない一週間だ。
春にも別の病院で実習はおこなわれたけれど
おそらく、先の一週間があったから今回の一週間がまた色鮮やかになった。

臨床コースを取得した面々にとって1年目の授業は、
グループワークが主軸になってくる。
生育歴を中心に、あたえられた時間の中で
おとなになった今でも気にかかっていることを話す。
その話したことを聞いたメンバーからは、
またそれぞれに感じたことをシェアされる。

それは決して、「話した人」のことではなく
あくまでも「聞いた人」の感じたことである。
何度も何度も、「あくまでもシェアすることはシェアする人の感じたことである。
他者のことではいっさいない」ということを念押しされる。

私たちはともすれば、相手から言われたことが
自分にとっていいことであればうれしくなるが
苦々しいこと、都合の悪いことを言われると、
相手から批評されたと思いがちである。

違うのだ。

あくまでも「その人が感じたこと」なのだ。
それは、私のせいではない。
また私を評価、批評するものではない。
その人がこれまでに抱えてきた何かに対して反応しているのであり、
その感じたことを伝えてくれたにすぎないのだ。
勘違いしてはいけない。

友人がブログに書いてくれていたことがタイムリーでおもしろかった。

あなたの口から出ることばは、すべてあなたのことを語っている。
誰かのことについて述べるときはとりわけ、そうなのだ。
ホドルフスキー



同じようなことを言ってると思うのだけど
こういうブログの方がわかりやすかったりするのかもね。
http://ameblo.jp/kokoro-ya/entry-12075891603.html


何度も何度も、あなたはどうなのかを
スーパーバイザーから問いかけつづけられて
グループワークはすすんだ。


相手に照準を合わせがちだと、でてくる言葉は
「○○さんが××してよかったと思いました」とか。
これも読書感想文の弊害かとも思うが、悲しいかな、
「私はどう感じたか」「私はどう考えるか」
ということを奪われた教育が、日本ではスタンダード。
だから、善悪も相対的に考えがちである。
「私は本当はこうしたいけれど、先生も親もこっちがいいっていうしな」などは
最たるものじゃないかしら。
本当の自分の気持ちを置き去りにして
先生が言うから
親が言うから
友達が言うから
果ては
国がそう言うから
ネットの中で見たから
というのが「今」かもね。



自分が本当に感じていることを押し込めて
ここまで生きてしまったから
「あなたが感じたことを話してみて」と言われても
困窮するばかりである。

いいことしか言えない、みたいな(笑)

誰かがいいねと言ってくれることしか言えないとか
もしくは
困惑のあまり、怒りだしちゃうとか、泣いちゃうとか。

その時の心情を自分であぶり出していくのって
はじめはつらくもあるけれど
慣れてくると結構スムーズ。
私は「感情の因数分解」といったりしているけれど
こういう行程を何度も何度も繰り返して
もうこれ以上割り切れない、素数の感情を見出していくことを
「繊細」であると言いたいのだな。
(数学苦手だけれど、このあたりは結構好きだったな)

まぁ、そんなことをグループワークでおこないながら
病院実習も平行しておこなわれていく。
患者さんと相対したときの気持ちも吐露したりしながら。

グループワークのなかでできないことは
患者さんとの間にも起こり得ない。
とスーパーバイザーは言う。
いかに、ひとりひとりがグループメンバーと対峙しあえるか。
そのあたりが、
あなたはどの程度、人と向き合えるか
が問われるということなのだなと思う。

一方通行ではなく
こちらも生身をさらけ出すから
相手も向き合ってくれるってこと、ある。
大切なのは「事象」ではなく「感情」。
自己啓発セミナーとの違いは、そこだと思う。
感情的になるのではなく
自分の感情をどこまで見つめられるか、である。

泣いている 我に驚く我もいて 恋は静かに終ろうとする
俵万智



自分で独立して仕事をしていくのに際して「空」という屋号をつけるに至ったのは
松原泰道さんの「わたしの般若心経」という本だが
その中にも紹介されている一句。


(この本に出逢ったのは、もう20年以上前だけれど
当時、考えをあらためるきっかけとなった本)

感情に振り回される自分に驚く、もうひとりの自己の存在を
自分の中に発見する冷静な目
と本には書かれている。

感情的であること

感情をみること
は、まったくべつものである。

そんな「感情をみる」練習が、グループワークの中では
常に試されていた。

病院で出逢う患者さんは、
どうして自分がこんな病気にならないといけないのかと苦しんでいる方、
このままどうなるのかと不安に思っている方、
自身の死期を悟られている方、
自分のことのみならず家族のことを憂う方、
などなど、さまざまに想いを抱えている。
どうしようもなく重い話もある。
受けとめきれないような話もある。

けれども
話を聴く側が感情的になってしまうと、自分だけではなく
患者さんをも振り回してしまうことになる。

(とはいえ、今のところ、ううムリだと感じるような話は私にはない。
ドーンとこいや、ちょっとやそっとじゃ驚かんよという感じ。
ホント、人の話ではそうそう驚かない…)

だからといって、感情をまるで出さないのも
人として向き合ったことにはならない。

私のすべてでもって、その人と向き合う。
時には、厳しいことも言う。
泣いたりもする。
冗談いって、笑ったりする。
一緒に悩んだりする。
躊躇なく、あなたと向き合いたいのだ。


そのためには。
自分の感情の細部を、繊細に見つめていく必要がある。
感情的にならないよう
ただ、自分の感情を見つめるためだけに。
私にはこんな感情があるのだと知るために。
その感情の細部に、誰かと波長が合うものがあるのだ。
そうそう、そうだよ、私もだよといっしょに
笑う。
泣く。
悲しむ。


震災以降、「寄り添う」ということばが
とてもたやすく使われる。
また
人の話を聴くだけなら
私にもできる
という人がいる。

どちらも、容易なことではないよ。
むしろ、「待つ」とか「耐える」と言い替えてもいいぐらい。

人がはなすことの多くは、理不尽なのだから。
だいたい、生も死も理不尽なのだから。

それでも、人っておもしろいなと私は思うのよね。

「人間」の「間」とか、「human being」の「being」とか。
そこに含まれているのは、なんだろう。
そう考え出すと、人というものに興味が尽きない。

人と人の間に、自然とおこること
ということもあって
私は屋号に「空」と名付けたんだったな。



あっ。
病院実習の話をちょっと書こうと思っていたのに
また違う方向へ話がいっちゃった。
これは、これで。
実習での話は、また。
一旦、区切ることにする。

IMG_7374.jpg


ブログ長い、って言われたけれど
これぐらい書かないと「書いた」って気がしないもの。
書きたいことあふれてるので、書き出していく!
ひとまず思いつくままに。編集は後からいかようにも。

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