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空模様

 あたりまえなことばかり 〈どうすれば癒されるのか〉

池田さんは、亡くなっているけれど
今の私にとっては、最大の師匠だ。

池田さんによって遺されたことばはからだに響いてくる。
池田さんがすぐ横にいるような気にさえなる。
すっと入ってきては、からだのなかをこねくり回される。
本当だ。
「死とは何か、さて死んだのは誰なのか」。
池田さん、死んでないね。





◉目次

・走りながら考える
・善悪を教えるよりも
・生命操作の時代
・プラトン、ロゴスの果て
・哲学と笑い

・考えるとはどういうことか
・生きているとはどういうことか

・幸福はどこにあるのか
・どうすれば癒されるのか
・孤独は苦しいものなのか
・本当の自分はどこにいるのか
・死ぬのは不幸なことなのか
・他者の死はなぜ悲しいか
・老いは個人の生を超え


毎度、抜き出したいことばが満載で
引用しまくっているうちに
まるまる一章抜き出してしまうことになりそう。

(結局、ほぼ書き出してしまった。ははは…。
読みたくない人はざーーーっと流して、最後までスクロールのこと。
赤字のところだけどうぞ。

学校の課題で【生育歴】を書き出して
自分自身の話をしていくというグループワークをおこなっている。
生育歴を語ることは、自分を物語ること。
自分を物語ると言うことは、客観的に自分を捉えるということだと思う)


池田さんの本を読むようになって、まだ半年ほどだが
くるしいとかつらいとか感じることがなくなってきた。
世を騒がせるニュースにこころ痛むことはあっても
悩むのではなく、考えるということに即つながるようになった。
今の私に悩みはない。

この本の中で、ひとまず一番にとりあげたいのは
私もずっとやってきた〈癒す〉についてである。
ずっとやってきた、と書いたが私は〈癒し〉ということばが嫌いなのであった。
というのも、マッサージをはじめた少し後に
折しも〈癒しブーム〉というものが起こっており、
人々は簡単に「癒されたい」「癒された」と言うようになったからだ。
この世知辛い世の中で、単純にホッとしたいだけちゃうんか、あんたらはと思ってきた。

「本当」の傷を負っている人には、実に不愉快な言い様だった。
本当の傷…。
では、私はその傷を負っているのか。
じつは、私は傷ついてきたのだと思う。
生きていくのって長いな、この先何年生きなくちゃいけないんだろう
と若い頃から思ってきた。
生きているとは死とはなんだと問いつづけてきたのは、そのためだ。
だから、まなび続けている。


〈P.145〉
「心はどこにあるのか」ではない。
「何が心であるのか」である。
「どこに」は、既にこの三次元空間内にそれが存在することを前提にしている。
脳も心臓もこの三次元空間内の物体である。
しかし、心の痛み、「痛みそのもの」は、目に見え手に触れるものでは決してない。
むろん、喜びも悲しみも、なべて感情というものそれ自体が、物理的な存在ではないのである。

「心的外傷」、すなわち心が外から受ける傷である。
しかし、心というものが、本来、物理的な存在ではない、
したがって明瞭な空間生を有しないものとしたなら、
その「外」、その「内」とは、どのような区分であり得るだろうか。
「心の外」とはどこのことを指すのだろうか。

「心」に外と内があるという、これも長いわれわれの錯誤は、
「私」が身体であるというもう一方の強力な錯誤と手を結んで、
「私の心は身体の内側に存在する」、それは主観である、
そしてそれは客観としての世界もしくは他者とは関係しないか対立する、
という錯誤の世界像として定着する。
したがって、「私の心に傷を与えるのは、世界もしくは他者である」。

トラウマ理論とは、あるいは、主客二元の世界観に典型的な、
短絡的解釈なのではなかろうか。
幼少期にいじめを受けたから性格がこうなった、という遠い原因から、
あなたにそう言われたから傷ついた、という近い原因まで、
そこに共通しているのは、「心の外」に「傷の原因」を求められると思う、
それ自体で一種病的な捉え方である。
なぜなら、「心」は身体の内に存在するのではないからである。
「私」もまたこの身体ではないからである。
すると傷ついているのは誰なのか。それは「誰の」傷なのか。

したがって、私は私であり、私の心は私の身体内に存在するという錯誤の世界像を
思い込んでいる人だけが、各種のグッズやセラピーによって「癒される」。
癒されたと思い込むことができる。
それらもまた、その傷は外からの癒しによって癒されるものだ
と思い込んでいるものだからである。

おそらくは「本当の」傷を負った人々は、そのような単純な主客二元の処方箋では
治療できず、「本当の」かの問いに直面することになるのではないだろうか。
すなわち傷ついているのは誰なのか。


「私の」意志を越えて立ち上がるこの感情の激しさは何か。
「私の」運命はなぜこのようでなければならないか。

人格の崩壊とは自我の崩壊のことなのか。
精神病理学の詳細は知らない。しかし、私は私である、
すなわち私は自我であるとは明らかな虚構であり、
しかも近代に特有の虚構である。
それなら、病理として現われるそのような崩壊現象こそ、
ある意味では、近代以前の本来的な心の有り様を示しているといえるのかもしれない。

古代の人々にとって、感情の自律性とは、それ自体で神の訪れだったようである。
怒りの神が、嫉妬の神が、憎しみの神が、到来する、私の心に、
このとき私の心の所有であるとは意味を成さないだろう。

感情がそれ自体で神々である、あるいは魂は複数の人格から成るという世界観は、
現代のわれわれの心的生活を、少なからず解放する。
ある強い感情に圧倒されるとき、しかしこれは「私の」感情ではない、
向こうからの訪れなのだと捉えることは、自己観察の距離を生む。
そして逆に、見慣れない感情、やっかいな感情をも迎え入れ、親しむ余裕すら生じるかもしれない。

じっさい、否定的な感情というのは厄介なものである。
主客が截然と分かたれた世界においては、
黒々とそこにあるそれは、目を逸らすにも抑圧するにも明瞭すぎ、
人は主観のうちに担い切れず、客観の側に犯人探しをしてその責めを負わせることに成る。
現代社会の構造が、人の感情を否定的にしていると思われがちだけれども、
あるいは話は逆であって、否定的感情の処理の仕方を知らない現代人が、
それを社会のせいにしている場合が多いのではなかろうか。
むろん共同体と個人とは、いずれにせよニワトリとタマゴである。
主観と客観の切羽のはざま、処理することができずに膨張する一方の否定的感情に追い詰められて、
自爆寸前の現代人にとって、「魂」という第三の存在を始点として共有することは、
したがって、それ自体で対立に風穴をあけることになるだろう。

それは視点、あくまでも視点である。
もしも魂をも、主観や客観が実体的に存在するかのように
実体的に存在すると思い込めば、同じことである。
感情は解放されることなく、再びそこへと固執するだろう。
主観と客観の対立が虚構であるように、魂もまたひとつの虚構である。
しかし、それ自体が謎であるところの世界と存在の謎を見抜こうとするまなざしにとって、
一切が虚構として見抜かれるとして何の不都合があるだろうか。

虚構は虚構として自覚されることによって、視点として有効になる。
魂は神々によぎられる場所であるか。むしろそれらの諸力それ自体である。
「心の傷」は、したがって誰の傷でもない。
誰に傷つけられたのでもない、世界におけるひとつの出来事(フィクション)なのだ、
そんなふうにみることができるのではなかろうか。

「自己治癒」とともに語られることが多い『自己肯定』が、
その本来の意味において非常に困難なのは、右のような理由によるものと思われる。
「自分のあるがままを肯定する」という、その「自分」がしかし一度は否定を経ていなければならない。
つまり死んでいなければならない、治癒すなわち再生は、そこからのみ可能だという存在の逆説である。
私は苦しい、心が痛い、私の心が傷ついている、そのようなたまらない感情に苛まれているさなか、
しかしそれを「私の心」と思い込まないということは、なるほど容易ではないかもしれない。
しかし、このとき、この視点の反転をへることなく、
犯人探しをするか癒し手を探しにゆくといったことは、問題の先送りにすぎない。
人は、その仕方によってはいつまでも癒されないだろう。
癒しは、おそらくは、自分の死を認めることによってのみ自ら起こるものなのだ。

人は、自分の人生に密着しすぎている。そんなふうに感じることがある。
別の言い方をすれば、人は自分の人生を生きるのは自分であると思い込んでいる。

奇妙に聞こえるだろうこの反転した物言いは、しかし、自分とは誰であるのかを問いながら
生きていれば自ずから漏れてくるところの、一種の感嘆である。
もしも「私」とは、どこまで追い詰めたとて何ものでもないのだとしたら、
「私の人生」とはそれ自体が完璧な虚構である。
フィクション、すなわち物語である。
激烈な感情も、黒々とした傷口も、すべてが物語(フィクション)である。
「私が」物語を生きているのではない。「私」は何ものでもないのだから、
生起する物語をこの何ものでもないものが見ているのである。
あるいは、「私は物語によって生きられる」。


運命論的な響きをもつこの逆転は、しかし決して決定論であるのではない。
生起する物語を見る、見ていると自覚することによってこそ、
人は正しくそこに関与することになるからである。
運命論とはひとつの逃避である。
しかし逃避は解決にならない。
といって、対決するという構えともやはり違う。
対決はすでに事柄がそのようであることを前提しているからである。

物語を生きているのだというこの自覚は、不可避であることによって
運命であったように思われる人生のさまざまな出来事(アクシデント)について、
逃避するのではなく対決するのでもない、微妙な距離感を与えてくれる。


人は多くの場合、たとえ漠然とにせよ、自分の人生について、このようでありたい、
このようであるだろうといった期待や予感を抱いてるものだ。
しかし、それらが、その意味では残酷といえるのかもしれないアクシデントその他で
失われることによって、自分は本来何ものでもなく、
人生も本来は何でもありのものだったと思い出すということは、
こちらの側からみるなら、ひとつの解放である。
なるほど、それを生きているのはやはり自分でしかないけれども、
生きている物語を自覚的に生きることで、人生は生成する物語それ自身と化す。

悲しみを悲しみ、喜びを喜ぶとは、
じつは人生の本来的なありようそのものではなかったろうか。

虚構と知ることによって真実を知るとは、これまたいかなるいたずらなのか。
しかし、人生とは世界とは、確かにそのようなありようをしている。

私の中に心があるのではない、心の中に私があるのだとは、
ユングも行き着いた壮大な逆説である。
それは宇宙を全体として包摂するものである。
「魂」という視点を所有することで、心であるところの人生、その複雑さに即しつつ、
それを宇宙論的な奥深さのうちに認めることが可能となる。


複雑なのは、難しいのは、心であるところの人生、
その複雑な動きをそれとして理解することだ。
おそらくは一流の心理学者であるほど、それは理解できないと知悉しているはずのそれを、
やはり理解できないと知ることは、それだけで十分な癒しとなるかもしれない。

通俗的な癒し願望は常に受け身であり、
またそれは主客二元が虚構であるゆえに不可能であることは先に述べた。
しかし、心それ自体には客観も不可能であると知ることによって
予想される心の自己治癒も、ある意味では、やはり受動形でしかあり得ないのだろう。
なぜなら、不可解であることを知るということは、
不可解であることを受け容れるということに他ならないからである。


自分を受け容れる、自分という心を受け容れるという行為が
何か広く遥かなものへの祈りに似てくるのはこの理由によるだろう。
自力と他力の接する接点、受け容れることで見透かしていけるようなあの領域である。


苦しみは恩寵であるとは、本来このような文脈にあったのではなかったか。
耐え忍ぶことを強いているのではない。
ひたすらな忍苦は、必ずや抑圧である。
そうではなくて、苦しみ、苦しいということの明らかな感情ですら、
自分にとっては不可解な訪れなのだと知ることで、
それがよってきたる遥かな方へと解き放たれてゆくといったことだ。
そのことによって、事実上の人生が何か変わるわけでもないかも知れない。
しかし人は、物語を楽しむように苦しみを楽しむ、
そんなふうに自分の人生を歩き始めるのではないだろうか。


われわれは、事柄を個人的に解釈することに慣れすぎているのだ。
出来事も感情も、人生それ自体も、いわんや魂などというものも、
なにひとつとして私のものなどではないのである。
だからこそ、そう知ることで展ける(ひらける)視界、
その向こうへと、思索は否応なく魅入られてゆくことになる。


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阪神大震災を経て、マッサージをしたいと思ったのは
身一つでできることをやっていきたいと思ったところからだった。
その頃の私は気づいていなかったけれど
深く傷ついた人々を癒すことができるのならば
という想いが根底にはあったと思う。


折よく、〈癒し系〉〈スピリチュアル系〉などとともに
ヒーリング、ボディワークということばが一般的になっていった。
私などは周知してもらうことに関してまるで努力なしだったが、
私のしていたエサレンマッサージも検索で調べて、
うちにきてくださるお客さんがいらしたのは
この流行もあってだと思っている。

けれども、年月を重ねていくうちに
マッサージじゃなくてもいい、というよりも
私がしたいのはマッサージではないのかも知れない

したいことの中にあるひとつがマッサージ=ひとに触れることだと思うようになった。
ふれることは、人との境界を縮めるなによりのおこないで
そこははじまりにすぎなかった。

東北の震災を経るとさらにそれは決定的になった。
私がしたかったのは、「肉体的なおこない」ではなかったのだ、と。
深く傷ついた人を、他者が癒すなんてできない。
「本当」の癒しは、傷ついた人自らのおこないのなかでしかない。
受け身によって、つまり他者からもたらされるものではないのだと知った。


「魂」については、前にも少し書いた。
私が感じていたこと、しかしことばに言い表せないでいたこと
とおなじような文脈で、池田さんは書いてくださっていた。

このあとも「魂」について考えていきたい。
「魂」としての「私」が突き動かされつづけていることについて。

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