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空模様

 死者の存在

「slow death cafe」なるものに参加した。

開催される二日前に、デスカフェの記事を読んだ。
http://news.kaigonohonne.com/article/454

それをfacebookにシェアしたら、友人が
三鷹で「slow death cafe」というものがあるよと教えてくれた。
http://yukkuri-web.com/cat/smallschool/sss-schedule
http://yukkuri-web.com/sd-cafe
あまりにもタイムリーだし、ちょうどからだもあいているので参加することにした。

ファシリテーターは辻信一さん。
「スローライフ」を提唱し、「100万人のキャンドルナイト」呼びかけ人。
私は気功をする場を「スローボディのススメ」と称していたことがあったのだけれど、
あれは辻さんの「スロー・イズ・ビューティフル」という本からいただいたのだった。
ひさしぶりにそんなことを思い出す。

そして山口でエンゼルメイク(死化粧)を通じて
遺族をサポートするお仕事をされている上野宗則さん。


私もずっと、「死」について語れる場があればと思ってきた。
今までもないわけではなかったけれど、
私自身に語りたいことばはあまりなかった。

やっとだなぁと思う。
誰かと話せるようになってきた。
私は、自分としか対話してこなかったから。
(ブログは、私自身との対話ログだ)

「死」について、考えることが好きだった。
人は、いつか死ぬのだから
「死」について考えなくては、と思ってきた。


一人称の死は「私」の死である。
二人称の死は、身近にいる関係性の深い人の死。
私はこちらのほうがこわい。
遺されたくないと、思ってきた。
自分の死はそれほどこわくない、今は。
こわいのは、痛いのはいやだなぁと思うところからだけだ。

数年前、身近な人の死を経験した。
死は、この世にその人がいなくなることだった。
肉体を持たない人には、触れられない。
「その人は、あなたのすぐそばにいるよ」と言われても
「ならば、姿を見せてよ」と思った。
励まされたくなかった。

でも、いつしか「いる」と感じるようになった。

「死者」はいる。

このように、明確に言えるようになったのは
いま通っているグリーフケア研究所に入ってからだ。
学校での授業ももちろんだが、
そこから派生して出会えたことばの数々によってということのほうが大きい。
わたしがなんとなく感じていたことが
そこでは、ことばになっていた。


slow death cafeでは
まずは、長田弘さんの「花を持って、会いにゆく」という詩が紹介された。
はじめましての人たちと、4名一組になり「死別体験」「今まででいちばん悲しかったこと」
についてもシェアしあった。



あらためて「死」とはなにか、だ。
私の大好きな、「ひらがなでよめばわかる日本語」から抜き出す。

生命が終わることを「しぬ」といいます。人にも植物にも、生命の軌跡とか循環がありますが
どちらの命も、いきなり絶えて「しぬ」のではありません。
本当の死までにはさまざまな段階があります。
ふつう、人間の生命活動が終わることを「しぬ」といいます。
しかし、植物には、これに対応する者として、「しなゆ」ということばがあります。
これは「しな」+「ゆ」で、萎れる(しおれる)こと。
具体的には、水分がなくなることです。
「ゆ」は自然にそうなることを示しますから、
人間でいうと「しぬ」ような状態になることが「しなゆ」です。
つまり、人間の死も、萎れる状態と考えたのですね。
ここからがおもしろいのですが、人間も植物も「しぬ」「しなゆ」が生命の最終段階ではありません。
水分が少なくなっただけ。
みずみずしさのなくなったのが死だったのです。
植物は萎れてもまだ死んではいない。
最後に「かれる」というプロセスが控えています。

じつは、人のからだから魂が離れることを「かる」といい、「離る」と書きます。
王朝文学には「あくがる」ということばがよくでてきますが、これは、
魂がふらふらと体から抜け出てさまようことをいいます。
人の肉体から魂が離れて失われ、草木からは水分が完全に失われる。
それを、古代の日本人はともに「かる」とよび、生命のサイクルの最終段階に位置づけました。

そうして、残された体が「なきがら(亡骸)」です。
これこそ生命の死だと古代人は考えたのではないでしょうか。
ひらがなでよめばわかる日本語/中西進著



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という漢字は

歹 ガツ 
死者の骨
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歹 の甲骨文字
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 ↓
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いっぽう、こっちは人をあらわす。
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そのもとになる甲骨文字。
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「死」という象形があらわしているのは

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人が死者を見て悼んでいる姿だった。


「死」というかたち
があらわすのは、一人称の死ではなく、二人称の死ということになる。



つぎは池田晶子さんの「14歳からの哲学/死をどう考えるか」から。

生死の不思議とは、実は「ある」と「ない」の不思議なんだ。
人は「死」という言い方で、「無」ということを言いたいんだ。
でも、これは本当におかしなことなんだ。
「無」ということは、「ない」ということだね。
「無」とは「ない」ということだね。
無は、ないから、無なんだね。
それなら、死は「ある」のだろうか。
「ない」が「ある」のだろうか。
死は、どこに、あるのだろうか。
死とはいったい何なのだろうか。




若松英輔さんの「死者との対話」にある一節。

死者は、私たちの眼には見えず、ふれることもできないけれど、確かに存在している。
そして、生者は死者と、彼らが肉体を共に生きていたころよりも、
ずっと深い関係を切り結ぶことができる


死者は実在する、だが、死を経験した生者はいない。


私たちが切実な体験として、自らの言葉で語りうるものは「死」ではありません。
死者との日々です。
もっというと、私たちは死について語ることに、もう少し慎み深くなくてはならない。


死者とは、信じる対象ではなく、「感じる」隣人である。




私は、生きている間に「死」を知ることはないのだ。
いなくなったと思った生者が死者となっており、その死者の存在を感じるだけなのだ。


おお、悲みよ。吾れ等にふりかかりし寂しさよ、今にして私はその意味を解き得たのである。おお、悲みよ、汝がなかったら、こうも私は妹を想わないであろう。愛を想い、生命を想わないであろう。悲みに於いて妹に逢い得るならば、せめても私は悲みを傍らに近く呼ぼう。悲みこそ愛の絆である。おお、死の悲哀よ、汝よりより強く生命の愛を吾に燃やすものが何処にあろう。悲みのみが悲しみを慰めてくれる。淋しさのみが淋しさを癒してくれる。涙よ,尊き涙よ、吾をして妹に再び逢わしむるものは御身の力である。(「妹の死」/柳宗悦)



彼は、涙を「御身」と呼ぶ。自分の肉体から湧き出るものだけれど、それに隣人のように向きあう。
涙よ、自分を死者に会わせてくれるのはお前の力だ、というのです。
死者との対話/若松英輔著




死者について語られずに
ただ生き残った者への礼賛、そして励ましがつづく東北大震災。
豊かだった地が、人の立ち入られない場所になってしまったのに
それをどれほどの人が覚えているのか。
戦争で亡くなった方々に対しても
彼らを讃えるのではなく、彼らの死に対して
その死を悼むことの方が、私には必要。

私たちが暮らしている、この地には、おびただしい悲しみがつまっている。

「人間の本質はかなしみとさみしさです」といったのは帯津良一さんだった。



愛する人を亡くして、あるいは亡くしてから愛していたことに気づいて悲しむ人に
悲しむのをやめなさいということほど、残酷なことはありません。
遺族となった人に悲しむのをやめなさいという前に、むしろ私は
励ますのをやめろと言いたい。
励ますことが何か尊いことであるかのように思って、それをし続けるのをやめろ、と言いたい。
皆さんは、本当につらいときに、がんばってねと言われて、力を得たと思えますか。

そもそも、私たちは試練にある人々に励ましの声をかけなくてはならないのでしょうか。
どうしてそう思い込んでしまったのでしょうか。
黙って傍らにいることはできないのでしょうか。
死者との対話/若松英輔著





かなしみのなみだが流れるのは、その人との日々がしあわせだったことの証だ。
こんなに悲しくて、私たちは出会わない方がよかった?
いいえ、私はあなたと出会えてしあわせだった。


死別を経験した人も、していない人も
いまも悲しんでいる人も、もう悲しむだけではなくなった人も
すこし立ち止まって、私と死者、だれかと死者の間でかわされている言葉に、あらためて耳を傾ける。



いまの私ののぞみは、そんな場をつくっていくことである。





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