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空模様

 悼む人



「悼む人」と目が合った。
今、ここであえるのは
ごくごく自然なことだったと読み終えて思う。
読めてよかったと思う。

荒唐無稽な話ではある。
読む人によっては、嫌悪されるだろう。
実際、Amazonのレビューにはなかなか手厳しい意見が散見される。


正直に言うと、
私は、「悼む人」になりたい。
とはいえ、小説で描かれていたように、あれだけ数多くの人の死を悼むことは私にはできない。

「悼ませていただきます」
は、小説の中にでてくることばだけれど
こういう使い方は、通常しない。
「悼む」は、「私」が「嘆き悲しむ」ことなのに、
これに「させていだきます」がつくことで
相手に許可を得ようとしているのだから、
なんとなく居心地の悪さを感じる表現だ。


私が悼みをおぼえるのは、現代にみられる死だけではない。
歴史の中に埋もれた人に対しても、悼む。
その時に、私もなにか祈りの言葉のようなものがあればなぁといつも思う。
宗教であれば、もっと簡単なのだけれど。
日本人は「宗教」に対してアレルギー持っている人が多いから
その覆いのようなものをとりはらった、祈り。
日本人に宗教性がないわけでは決してないのだけれども。
ただ、無自覚、無意識なだけで。
メタ宗教の祈りと経典みたいなもの、を見つけたい。
まぁ、どうあっても怪しまれるねぇ(笑)。

メタ宗教について、「現代霊性論」のなかで釈徹宗さんが鈴木大拙の霊性論から次のように説明している。

P.138
「大拙が考える霊性というのは要するに、誰もが持っている宗教心とか宗教性のことなんですね。
これは、仏教とかキリスト教とか神道とかは関係なく、脈々と人間に流れていますが、
それが花開くためには、地下水を吸い上げるための井戸みたいな装置、回路がいる。
宗教が井戸なら、霊性は地下水ということになります」。
(内田樹・釈徹宗『現代霊性論』講談社)。
鈴木大拙の霊性とは、「メタ宗教性」であり、宗教をつくるもの、宗教以前の宗教、それを霊性と名づけた、と。






この小説を読んで、もやもやしたり
嫌悪感を抱いたりするのも、自然なことだと思う。
実際、小説の中でもその疑問が何度も呈されている。

「あなたがなぜそのように生きるのか… 簡単に答えが出るものですか。
またそのように生きる理由を、人にわかったと言われて、平気ですか。
それこそ意味がなくはないですか?」
「或る人物の行動をあれこれ評価するより… 
その人との出会いで、私は何を得たか、何が残ったのか、ということが大切だろうと思うんです」

この節は、読者への問いかけでもあると思う。
あらゆる神からの問いかけと言いかえてもよいのではないかと思う。

「悼む人」がいることで変化していく人間を描くことのほうが大切なんじゃないだろうか。
現実に「悼む人」がいたとしたら、彼と出会うことによって
僕たちにどんな変化が起こるかのほうが本当は大事なんじゃないだろうか
と著者の天童さんもインタビューで答えている。
http://books.rakuten.co.jp/event/book/interview/tendou_a/


スピリチュアルケア
と名付けられた、定義づけのできないなにものかを学んでいる。
この「悼む人」という小説は、
そのスピリチュアルケア、そのものだなと思った。

それは、まるで具体的ではない、
なにがおこるのかわからない「場」である。
未知なのだから、人によっては、不安もあるし、恐れもある。
でも、それもこれもすべて「その人」が問われているにすぎない。
誰のせいでもない。
誰のためでもない。

池田晶子さんの言う「絶対的な存在である自分」を思い出す。

自分が絶対的であるというのは、考えているのは自分だし、見ているのも自分である、
自分でないものが考えたり見たりしているということはありえない、
そう言う意味で絶対的だということだ。


自分が存在しなければ、世界は存在しないんだ。
自分が存在するということが、世界が存在するということなんだ。
世界が存在するから自分が存在するんじゃない。
世界は、それを見て、それを考えている自分において存在しているんだ。
つまり、自分が、世界なんだ。





ケア
というと施すこと、他者に与えるもののように思われるけれど
実は、どんな場も、「私が見ている世界」なのだから
「私自身」というところにかえってくるのだなと
あらためて思う。


本を読んでいて、なんどか涙のでる描写があった。
湿の籠った状態が続いたので、ちょうどいい。
泣けるとちょっとらくになる。

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