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空模様

 【14歳からの哲学】 善悪とは。

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もう、20年ぐらい前のことだと思う。
友人と話していて、喧嘩になりそうになった。
私は「学校なんかなくてもいい。規則もいらない」というようなことを言った。
友人は「学校がなくなったら、こどもらの収拾がつかなくなる。
規則もなかったらみんな自分勝手なことばかりするやんけ」と返した。

そうなんだろうか。
規則や法律はなんのためにある?
本来ならば、私たちを快適にするものが
社会のルールってやつじゃないの?
規制を「守らなくちゃいけない」とか
学校も「行かなくちゃならない」とか
ずいぶんと窮屈な感じだ。
窮屈なところに押し込められちゃって
なんだか息苦しくてかわいそうな感じだ。

「人はある程度規制かけたり
縛っとかんと勝手なことするからな。
そんなんなったら(学校がなかったら)、めちゃめちゃやで、この世の中」。

その友人は、おそらくこんな話をしたことは
すっかり忘れているだろう。
ずいぶん疎遠になっているが、元気だろうか。

池田晶子さんの「14歳からの哲学」を読み返していて
この会話をふと思い出した。


P.152「善悪」のページに
「なぜ人を殺してはいけないのだろうか」
とある。

ここから、ほぼ書き抜きだ。
ここだと思うところだけを抜き出そうとしたが
この章の、ほぼすべてになってしまった。

私のための記録でもある。
言葉として理解したい。

それでも、ブログとするにはあまりに長いので
ここは!と感じた箇所を大きな文字にしてみた。
目がとまった箇所の、その前後をお読みいただけたらさいわい。




人を殺すのはいけないことだと法律によって決められているからいけない、
というのはどうだろう。
殺人は法律によって罪とされ、それに対する罰として死刑がある。
死刑になるのはイヤだから、だから人を殺さない。
つまり、これは規則が「いけない」と言うからそれに従っているだけで、
自分が「いけない」と思っているわけではないね。
だから、罰せられなければ殺してもいいし、
見つからなければもっといい。
でも見つかると困るから殺さない、これが人を殺したいけれど
殺さない人の、いちばん普通の理屈だろう。
規則だからいけないという理由が、人を殺してはいけない理由として、
どうやら一番強力のようだ。
いけないと決めている規則だって、どうしていけないのかわからないから、
規則で決めているにすぎないみたいだ。

ところで、これは本当にそうだろうか。
人を殺すのがいけないのは、規則だからいけないのか、
ここであらためて問い直してみよう。
それが規則であろうがなかろうが、人を殺すのはいけないことだ
と感じるものが、なお自分の内に、ないかどうかだ。


「いけない」という言い方は、それ自体が禁止という命令であり、
すでに規則を意味している。
法律や社会によってすでに決められていることに反するという意味だ。
だから、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いを、
法律や社会など外のものに従うことではなく、
自分の内側に問うために「なぜ人を殺すのは悪いのか」と言い換えることにしよう。
そして、「悪い」という言葉の意味について、考えることにしよう。

もし、罰せられることさえかまわないのであれば、してもかまわない。
してもいい。自分がよければそれでいい、ということになる。

ところで、ここで注意すべきなのは、「自分がよければそれでいい」というこの言い方だ。

人が何かをするということは、必ず、自分にとってよいと思われることをするもので
悪いと思われることをするはずはない。
殺人や売春をする人だって、そうすることが自分にとってよいと思われるからするのであって、
悪いと思っていたらするはずがない。
ところで、この時、その人にはそれがよいと思われることなのであって
それが本当によいことなのかどうかをその人は知らない。
その時の衝動や欲望に従って行為しているだけで、考える精神によって判断されたことではないからだ。
だから、その人はよいと思っているのだけれど、本当はそれはすごく悪いことかもしれないわけだ。
だとしたら、悪いことをすることが、どうして自分によいことであるはずがあるだろう。
つまり、その人は、悪いことを悪いことだと知らないということだ。
悪いことは、自分にとって悪いことだと知らないからこそ、悪いことをするわけだ。
それを食べれば病気になることを知っていて、わざわざ食べる人はいないように、
自分に悪いと知っているなら、わざわざする人はいないはずだ。
だから悪いことをする人は、それは本当は悪いことだと知らずに、
よいことだと間違えて悪いことをしているということなんだ。

いや、悪いと知っているからこそ、それをしてみたくなるのだと言う人もいるかもしれない。
しかし、悪いと本当に知っているなら、悪いことをするはずがない。
ちょっとワルぶってみたいというだけのことだろう。
やっぱりその人もそれを悪いと本当は知らないということなんだ。
本当には知らないことを知るためには、どうすればいいか。
もう言うまでもない。
精神によって、考えるんだね。


けれども、考えると、面白いことに、さらにこれを逆から考えることもできるんだ。
「なぜ悪い」「どこが悪い」と問う人は、本当は、
それが悪いことなんだということを知っているのではないだろうか。
知っているからこそ、問うのではないだろうか。
なぜなら、自分が知らないことについて、問うことはできないからだ。
「なぜ悪い」「どこが悪い」と問う人は、その限り、
それは悪いことだとどこかで知っているんだ。
しかし、知っているなら、なぜ悪いことをするものだろうか。
いや、それよりも、なぜ人は悪いことは悪いことだと知っているのか。
この方がよほど不思議じゃないだろうか。


なるほど、今の日本の社会ではもっとも悪いこととされている殺人という行為ですら、
ほんの六十年前の戦争の時代においては、必ずしも悪いことばではなかったし、
また、同じ今の時代でも、現に戦争している国々においては、それはやはり悪いことではない。
「悪い」ということは、だから、時代や状況によって適当に変わるようなもので、
いついかなる時でも人にとって絶対に悪いということなどないように思われる。

絶対に悪いということなどないと言うことができる限り、
人は、絶対に悪いということがあると、じつは知っているんだ。
むろん逆に、絶対によいということなどないと言うことができる限り、
絶対によいということが「ある」ということもだ。
どうして人は、それがあることを知っているのだろうか。
いやそんなものは知らない、だって実際に時代や状況によって悪いことなど変わるじゃないか、
いついかなる場合でも絶対に悪いことなどどこにもないじゃないか、
もし知っているのなら、それをそれとして示してみてほしいと、世のほとんどの人は言うはずだ。

まさにここで人は間違えるんだ。
「悪い」あるいは「よい」ということを、殺人や泥棒や売春などの、
悪いとされているあれこれの事柄を示すように示すことができるものだと思っているんだ。
でも、そうやって示すことができるような事柄こそが、まさに時代や状況によって変わるような
悪いことなのだから、もし時代や状況によって変わらないような悪いことを示すことができたなら
それは時代や状況によって変わるような悪いこととと同じ仕方で悪いことであることになってしまう。
それならどうして、それが絶対に変わらない悪いことであるはずがあるだろう。
あれこれの相対ではないからこそ、絶対なんだ。

人は、「よい悪い」という言葉によって、あれこれ具体的な事柄をどうしても思い浮かべてしまう。
あれこれのよいと思われることや悪いと思われること、
でも、それらは具体的なのだから相対的だ。
だから「よい悪い」は相対的なもので、絶対的なものではないのだと、
深く人は思い込んでいるんだ。
でも、違う。
それらのよいと思われることや、悪いと思われることを
そのように思われるようにしているものは、
そこにある「よい悪い」というまさにその意味以外のものではない。
これは絶対だ。これは動かない。
だって、いいかい、君は「よい」という言葉によって「悪い」の意味を、
「悪い」という言葉によって「よい」の意味を、思うことがはたしてできるだろうか。
絶対に、できない。
だから人は、「よい」とは絶対に「よい」であり、
「悪い」とは絶対に「悪い」であるということを、やはり知っているんだ。
「よい」と「悪い」という言葉がある限り、人は「よい」と「悪い」とを明らかに知っているんだ。

それでも人は、その「よい悪い」という言葉によって、あれこれ相対的な事柄を思い浮かべてしまう。
それが普通には、道徳や慣習がよいとしている「よい」であり、
法律や社会が悪いとしている「悪い」だ。
でも、道徳や法律なんてものは、まさしく時代や国によって違う相対的なものなのだから、
それらにおける「よい悪い」が相対的であるのは当然のことじゃないだろうか。
なのに人は、絶対的な「よい悪い」も、相対的な「よい悪い」のような、
道徳や法律のような具体的な形であるのだと思っている。
でも、道徳や法律は、自分の外にあるもの、
時代や国によって変わるものなのだから、どうしてそんなものが絶対であるはずがあるだろう。

善悪の基準を自分の外に求めるという思い込みの根は、とにかく深い。
まさにその思い込みのために、人類において、
道徳や法律は時代や国によって相対的となっているのであって
本当は話がまったくあべこべなのだけれど、ここ数千年、人類はそのことに気づいていない。

でも、君はこれからの人、新しい時代の人なのだから、きっとわかるはずだ。
自分の外側にある道徳や法律がよいとし、また悪いとすることが
よいことや悪いことなのでは決してない。
よいと悪いとを判断する基準は、自分の内にしかない。


だからと言って、それは、人によって違う相対的なものでは決してない。
なぜなら、「よい」という言葉があり、「悪い」という言葉がある。
そしてそれらの意味をすべての人が知っているということは、
絶対的なことだからだ。


わかりました、善悪は自分で判断すればいいんですね、
で、実際にはどうすればいいんですかって、
君は聞きたいんだろ。
それが、ダメなんだ。
自分で判断する以外に善悪なんかないんだから、
そんなこと他人に聞いてちゃダメなんだ。
他人にこうするべし、こうするべからずなんて言われることは一切無視して、
君がよいと判断したことを為し、悪いと判断したことを為さないだけだ。
君はそれができるんだ。
なぜなら、「よい」と「悪い」という絶対的な価値の言葉を、君は、
自分の内に、確実に所有しているからだ。

だから、それぞれの人によって全部が違う相対的な状況において、
絶対的な善悪を実現してゆくことができるんだ。

善悪は自分で判断するといっても、人は善悪と快苦を間違いやすい。
「善悪」とは「快苦」のことだと思うんだ。
快いことがよいことで、苦しいことが悪いことだと思うんだ。
でも、これは必ずしもそうじゃない。
病気の治療は痛くて苦しいものだけれど
それは、自分がよくなるためにはよいことで、決して悪いことではないね。
逆に、からだに悪い食べ物は、おいしくて快いものでも、
それを食べるのは自分に悪いことだとわかるね。
快楽を求めて苦痛を避けるのは、動物の生存の基本だけれども、
善悪の判断は人間にしかできないことだ。
なぜかって、人間は言葉を所有する動物、
「善悪」という言葉を知ってしまった動物だからだ。
知ってしまった限り、人は、よいことしか為すことはできない。
悪いことを為す人は、それを悪いことだと知らない。

悪いと知らずに悪いものを食べる人のようにね。

人を殺すのが悪いことなのかどうかという、最初の問いに戻って考えよう。

人を殺すというのは、一つの具体的な事柄なのだから、
それが絶対に悪いことなのかどうかを言うことはできない。
でも、戦争の時には人は人を殺すことを躊躇しないけれども、
平和の時には、それがもっとも悪いことだと人は感じる。
法律がいけないとしなくても、人はそれをそう感じるのはなぜだろう。

原則を思い出そう。
人は、自分にとってよいと思われることをして、
悪いと思われることはしないのだったね。
すると、もしここで「死ぬ」ということがよいこと、
自分にとってよいことと思われるのなら、人は、他人を死に至らしめる、
つまり「殺す」よりも先に、自分が死んでいるはずじゃないだろうか。
でも、殺す人は自分は死なずに生きているのだから、
殺す人も、人にとっては生きているのがよいことで、
死ぬのは悪いことだと、やはり知っているのじゃないだろうか。
そして、自分と他人は深いところで分けられない、自分とはすべての他人なのだから、
他人を殺すというのは、じつは、自分を殺すということなのかもしれない。
それが自分にとって悪いことだとどこかで知っているから、
人は、他人を殺すのを悪いことだと感じるのかもしれない。
考えられるところまで、考えてみてごらん。
これは本当に深くて底が知れない問いだから。

にもかかわらず、ヒトラーみたいな大悪人を殺すのは悪いことではないかどうか、
もしも君がそういう極限的な状況に置かれたとしたなら、
あらゆる可能性を考えぬいて、判断するんだ。そして、賭けるんだ。
君の善悪、君の全人生を、そのひとつの行為に賭けるんだ。
善悪の判定は「神」のみぞ知る。
このとき、来世への存在への問いは、避けられないとわかるだろう。
極限的な場面ばかりじゃない。
君の行為のひとつひとつ、心の中のあらゆる思いが、
そういうことなのだとわかるだろう。

もしも君が、
善悪は外にはなくて内にあるという事実にはっきりと気がついたなら、
よいことは、「しなければならないこと」ではなくて、
よいことでなければしたくない、よいことだけが「したいこと」、
そういうふうに変わるはずだ。
この時になって初めて、「善悪」と「快苦」は一致する。
本当によいことって、すごく気持ちのいいものなんだよ。




絶対的な善悪について考えるとき、
相対的な善悪が、思考の邪魔する。
はじめて、こういう問いにふれた時には
禅問答のように頭の中がぐるぐるになる。
一通り読んでくださった方も、わかったようなわからないような
複雑な気持ちになる、というのがまずはじめだと思う。

わからない、なんだかもやもやする
と感じた時が「考える」第一歩だ。
それを本当は知りたいと知覚するから、もやもやする。
もやもやを「不必要な感覚」だとして流してしまうと
自分の中の絶対的善悪を解せなくなる。


私のなかの絶対的な善悪は、
相対的な善悪に侵されないように
ここでそのまま書き出してみたことを、
私ならばどういう言葉で語るかを考えようと思う。

自分のもっている言葉で語らなければ
「絶対」とはならないからだ。

この絶対的な善悪を自分の内に感じている限り、
「私を縛る苦しいもの」はなくなり
そこにおいて、私はかぎりなく自由である。

絶対的善悪を問うことがなにより必要なことなのであって
学校に行かなければこどもの統制がとれないということも
規制がなければ人はわがまま放題で好き勝手をする
ということもないのである。

おとな自身の「善悪」への思い込みが解けないとね…。


そして、善悪を判断している「自分」の
その「自分」とはなんなのか、誰なのかを問う必要も。
考えるのと同時に感じている、その「私」のすべてが
「よい」と声をあげること。

感じながら、考えることが大切である、
その理由がここにある。


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