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空模様

 低きに立つ神

本との出会いは、おもしろいものだ。
本屋でも「今日はなにか呼びかけられている」と感じる日は
まさにその一冊に出会えるし
図書館でも、数多くの本の中から「ここですよー」と
みずから存在をアピールしてくる本がある。

遠藤周作さんの「深い河」は、どうして手にとって読もうと思ったのか
まるで覚えていない。
大学を卒業して会社員になって、3年目ぐらいだったと思う。

宗教はいらないけれど、信仰はもっているほうがいい
そういうことを言うようになったきっかけの本だ。
今ならば、それを「私自身のスピリチュアリティを掘り起こすためのはじまり」
と言えるが、キリスト教的には「目覚め」、そのはじまりと言えるだろうか。

遠藤周作氏の小説の中のイエス・キリストは
「まことに、我々の病を背負い」
「醜く威厳もない」人だ。
世間から見捨てられたような人々に
救いの手を差し伸べる人だ。
イエス自身も、人々から蔑まれ
弟子にすら見捨てられ、死へと追いやられる。
特別であったり、神秘的な存在ではない。

新約聖書のなかに出てくるというスプランクニゾマイのことは
能楽師の安田さんに教えていただいた。
日本語で「憐れみ」と訳されるこのことばは
古典ギリシャ語のなかでも特別な語句で
新約聖書のなかでのみ使われるものだそうだ。
言葉のニュアンスとしては「内臓が動く」という意味で、
英語では「compassion」。
「com」(ともにある)+「passion」(感情)で
感情の同期を指す。
その感情の同期は、内臓でなされる
ととらえられていたようだ。
「passion」は「Passion」でキリストの苦難、受難を指す。
(詳しくは、「あわいの力 / 安田登著 ミシマ社」)

キリスト教と、イエス・キリストは
ちがうものと私は思っている。
かの人を思うに、なにかに属さなくてよい。
誰かの言ったことがすばらしい、だけで終わるのならば
そんなものは私の血肉にはならない。

私の言ったことを聞いたあなたは、ではどうするのか。
あなたが考えて行動しなさいとイエス・キリストは言っているのではないか。

キリスト教に属していない、属したこともないあなたに
なにがわかるのか、わからないだろう
これは受洗しなければわからないことだ
と信徒には言われそうである。
そんなことを言われそうだと思うから
さらに属したくなくなる。
聖書を読んで、自分で考えるだけで十分だ。
属してなければ救われないというような、
人の観念だけが渦巻くような場はごめんだ。
(ここでいう「観念」は、心理学用語で
「こうあるべき」という考え方、思いのこと。
宗教用語ではまた違ってくる。)

誰の中にも、みずから動ける「ちから」を備えている。
そのことに気づけていないひとりひとりの意識へ
「あるよ」とうながすのが、
教師であったり司祭である先達の役割ではないだろうか。
あとは、人が本来持っている「ちから」にまかせる。
それなのに、教師であること、司祭であることを特権とみなし
誇示するならば、それは教育ではなく暴力である。
イエス・キリストとキリスト教が違うといったのはここにある。
キリスト教が世界宗教となった歴史は、暴力の歴史だからだ。


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http://www.kyobunkwan.co.jp/xbook/archives/9298

大学の図書館で目があった本。
山谷、水俣、筑豊、釜ヶ崎、寿町におけるキリスト教宣教の記録。
改宗者獲得、信徒拡大増加を目的とせず、
イエスならばどうしたかを常に問い続けた、6名のキリスト者による実践。

P.282 解説より/
そもそも神について語るとはどのようなことであろうか。
我々は神についてどのように語りえるだろうか。
「〈神〉という言葉それ自体、また〈女神〉も全く同じように、
それ自体では何も決定的なことは語らないということを明確にしておくことは重要である。
どのような内容が伝えられるかを知るためには、文脈が必要なのだ(『神を考える』)」
と語ったドロテー・ゼレの言葉をここで想起しておこう。
ゼレはこのアイデアに導かれて次のように語っている。
「しばしば尋ねられる『あなたは神を信じているのか』という問いは、
ほとんどの場合表面的であるように思える。
それが、頭の中に神が座している特別の引き出しがあることを意味するならば、
神は決してあなたの生を変える出来事とはならない。
私たちは、本当は『あなたは神を生きているか』と問わねばならない」。
ゼレが語るのは、抽象的な神学用語や告白の文言においてではなく、
私たちが時代と社会の文脈に身をおいて出会う神であり、
そこでの実践において知る神であり、出会ったものの生を変える神である。


P.61 水俣/苦海に座す神
今日の世界は混迷の中にある。
人は神から遠く離れ、さまよい続けている。
神の祝福の招き、呼びかけの言葉を聞くこともないゆえに、
もはや神の望みと私たち人間の望みが一致することはないのであろうか。
足尾鉱毒事件に終生関わり続けた田中正造翁が、百年以上も前に預言した
『亡国に至るをしらざればこれ即ち亡国』の言葉は、
近代以降これを支え続けている私たち自身の在り方をも問うている。
真に病んでいるのは公害被害者たちではなく、
その予防責任、管理責任、救済責任を怠り放棄した側にある。
チッソの製品を日常的に使い快適に暮らしている者もその責任から逃れられまい。
今の時代にチッソ主導型消費生活の生を完全に拒否することなど困難であるし、
またそのことが正しいとも思わない。
ただ、そのような矛盾の中にあってなお現実の世界から目を背けず、自らの足元を見つめ直し、
今与えられている課題を一人ひとりが担うことでしかないのではないか。

もはや加害者、被害者の枠を超え、ベクトルは異なれど、
問われている問題の本質、課題への責任は全ての人に向けられている。
水俣病問題に第三者的立場はない。
いまなお被害者を救済するどころか放置し続けているこの国の
対応を見るにつけ、このまま終わらせるために
最後の患者が死に絶えるのを待っているかのようである。
今の日本は滅びに向かっているかのように思われる。




私自身は、「神」ということばではなく
そこには「自然」ということばをおきたい。
おのずから、みずからのジネンである。

この国は、いつもなにごとの責任をとらずにきた国だった。
人びとは、あっという間に忘れてゆく。
何度も何度も同じことを繰り返し
もう大部分が滅んでしまっているようだ。
ジネンのはたらきにあずけて
かどが落ち、まるくなるのを待っている。

あとどれぐらい待つだろうか。
もう間近のような気もしている。

それは、決して裁きなどではない。
自然のはたらきである。


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