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空模様

 14歳からの哲学

去年気功について一冊にまとめて本にできたけれど、
「書き出せた」ということで満足してしまって
私自身はそこで止まっている。

池田さんの「14歳からの哲学」は、
おこがましくも私が書き出したかったことがそのまんまで
でも「それ」について、ここまでことばにできているのが本当にすごい。
すり寄りたい。



P.36
言葉は自分の中にある、と君は思うだろうか。
なるほど、自分が話し、自分が書く限り、言葉は自分の中にあると言いたくなる。
でも、言葉の意味を決めたのは君じゃない、誰かわからない、しかも大昔からそうらしい。
だとしたら、言葉は自分の外にある。
言葉というものは、自分の中にあると同時に、
自分の外にある、そういう不思議な存在なんだ。
だとすると、この「自分」ってそもそもなんだろう。
それは、君がそう思っているほど、確かな存在なんだろうか。

しょせんは言葉、現実じゃないよ、という言い方をする大人を、
決して信用しちゃいけません。
そういう人は、言葉よりも先に現実というものがある、そして、
現実とは目に見える物のことである、とただ思い込んで、
言葉こそが現実を作っているという本当のことを知らない人です。
君にももうわかるはずだ。
目に見える物は、目に見えない意味がなければなく、
目に見えないこともまた、目に見えない意味がなければならない。
「犬」という言葉がなければ、犬はいないし、
「美しい」という言葉がなければ、美しい物なんかない。
それなら、言葉がなければ、どうして現実なんかあるものだろうか。
だからこそ、言葉を大事にするということが、自分を大切にするということなんだ。
もしも、「美しい」なんてしょせんは言葉だ、「正しい」なんてのもしょせんは言葉だ、
そんなふうにして生きると仮定してごらん。
その人は一生、美しい物も正しいことも、知ることはできないはずじゃないか。
そして、目に見える物だけが現実だと思い込んで一生を終えるなんて、
あんまり空しい人生だとは思わないか。



ことばなどなくても
相手が考えていることがわかる
テレパシーのようなやりとりができれば
と思ったことが、ちょうど10代の頃にあった。

しかし、私には
ことばがなければ、自分が考えていることも伝えられないし
相手が考えていることもわからない。
ことばがなければ他を知ることがない。
「私自身」も「私」を認識できない。

ことばのない世界がどうであるか、もう知ることはできない。
「ある」。「ない」といくら仮定してももう「ある」ことしかない。


P.67
自分が絶対的であるというのは、考えているのは自分だし、見ているのも自分である、
自分でないものが考えたり見たりしているということはありえない、
そう言う意味で絶対的だということだ。
この自分を「大きい方の自分」と呼ぶことにしよう。
中学三年生の君は、「小さい方の自分」だ。
これ以後の「自分」はすべて「大きい方の自分」の意味だ。
君は驚くと思うけれど、この意味で、「世界」つまりすべてのことは、
この大きい自分の存在に依っている。
自分が存在しなければ、世界は存在しないんだ。
自分が存在するということが、世界が存在するということなんだ。
世界が存在するから自分が存在するんじゃない。
世界は、それを見て、それを考えている自分において存在しているんだ。
つまり、自分が、世界なんだ。



P.67
自分が世界であり、世界は自分において存在しているのだから、
当然、他人というものの存在もそうだということになる。
世界にはたくさんの他人が存在していて、それぞれに生きているけれども、
それらはすべて、自分が見ているその光景だ。
もし自分が存在しなくて、自分が見ているのでなければ、
それらは一切存在しない。世界も他人も存在しない。
なぜなら、それらを見ている自分が存在しないからだ。
でも、「自分が存在しない」ということは「ない」。
だから、やっぱりすべては存在するんだ。
存在しないということはなくて、世界も他人も存在するんだ。
すべてが自分として存在するんだ。
なぜなら、自分でないものが存在するということはないからだ。


p.68
自分は自分でしかないことによってすべてである。
矛盾しているように聞こえるけれども、
これも自分というものの存在の真実だ。
矛盾というのはそれ自体が真実であるということも、
ちょっと覚えておくと役に立つでしょう。
自分はすべてなんだから、すべては自分である、
これは矛盾でないからわかるね。
「すべて」というのは、文字通り、すべてのことだ。
他人も、他人の体も、他人の心も、全世界、全生物、全宇宙、
つまり森羅万象だ。
大きい方の自分の、いちばん深いところでは、自分はすべてであり、
また事実全てとつながっているということだ。
他人の痛みはわからない、他人の心もわからないのは、
それは小さい方の自分からしか見てないからだ。
小さい自分は、それぞれ別々の人間だからね。
でも、他人が痛がっているのを見て、痛そうだなと思う、
悲しんでいるのを見て、一緒に悲しくなる、
これだけでもずいぶん不思議なことじゃないだろうか。
そのとき、人はどこかで、その人は自分だと知っているんだ。
大きい自分で小さい他人同士はつながっているからだ。
大きい自分のうーんと深いところまで到達しているような人、
たとえばお釈迦様とかキリストとか、そういう人なら、
他人の痛みも他人の心も、自分の痛み自分の心として、
きっと一瞬でわかってしまうに違いない。
「メビウスの輪」を知っているね。
内側を辿って行ったら、そこは外側だったというあれだ。
君は「自分の内側」と言った時、体や心の内側のことを思うね。
でも、その内側が、外側の自然法則や快感原則によって動いているのなら、
その内側って、実は外側のことじゃないだろうか。
内って、外なんじゃないだろうか。
「自分の内」「自分の外」なんて、よく考えれば、
決して言うことはできないことなんだ。
すべてである自分には、内も外もないからだ。




「考えるため」の教科書。
得られるものは「答え」ではなく、「問い」つづけること。

わかんないと思うことを知りたかったのだ、ずっと。
わかったわけではないけれど、ちょっとわかったことが今はある。
悩まなくていいことと、ずっと考え問い続けていくことのちがいみたいなもの。



ここのところ、池田さんの本をつづけて読んで、
なんだかいろいろすっきりしている。
そうか、それでいいんだよなって。
「あなた、変わってるんだから、誰かに迎合せずにわが道いきなさいよ」
って、何年か前にいわれた時に
「えー、私はみんなとおんなじがいいんです」って思ったのは、
味方が誰もいないってことがこわかったから。
こどもの頃からこんなことを考え続けてきたけれど、
それを共有できる人がいなかったから。
みんなと同じがいいなんて、今は思わない。
誰でもいいはずはないし。


考えるな、感じろ。

Don't think feel.
It's like a finger pointing away to the moon.
Don't concentrate on the finger,
or you will miss all the heavenly glory.

ブルース・リーの言っていることは結構、多くの人が目標としたいところであるし
私もそうありたいと思ってきたのだけれど
でも、やっぱり立ち止まって、
ゆっくり動いてみて、動きの詳細を理解して、からだになじませていく
ということも必要なんだな。

というのも、最近はじめたシステマでのこと。
初めての動作がでてくると、混乱して
どう動いていいかわからなくなるのだけれど
「からだで覚えるには、まずはゆっくりゆっくり動いてみることで
そこではたらくべき筋肉が、その動きを理解するから。
はやく動いてしまうと、見た目だけが同じ、表面だけのものになってしまう」
というようなことを北川さんがおっしゃったこともあったので。

考える
とは「脳」だけのはたらきではないんだろうね。

単純に、誰かの言うことを鵜呑みにするな
ということもあるね。
ゆっくり咀嚼しろ、と。


池田さんは、今の私の年で、8年前に亡くなっている。
彼女が死していても、こうして言葉として遺していただけているから
私は池田さんと出会うことができている。
ありがたいことである。
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かんがへるわたくし。

そして、私の本。

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