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空模様

 【魂を考える】次のキーワードは「残酷」

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池田晶子さんの「魂を考える」のなかで
何度も読み返してしまう箇所を書き出してみる。



「少年Aとは何者か」と題された
神戸連続児童殺傷事件、少年Aに関する論考である。


P.114
「少なくとも、現代という特殊な時代にに至る前の人間の世には、人間ならざるもの、
すなわち異界の魑魅魍魎もまた生きていたということを、
ある深い納得とともに思い出すことはできるのだ。
理屈で理解できないものは「存在しない」とすることによって、
理屈で理解できないものへの感受性を失ったことをも忘れているのが、現代人であろう。
しかし、理屈で理解できないということなら、「自分が存在する」ということの事実の
畏るべき神秘、これをいかに理解するか。
自分が存在するというこの事実の神秘を理解しようとして、「宇宙について」、
考え始めれば、神が出てくるし魂も出てくる。神界魔界の魑魅魍魎もまた、
当然出てこざるを得なくなるのだ。「存在する」、宇宙が存在するということは、
要するに、そういうことなのである。
論理的思考の裂け目から広がり開ける宇宙のほうは、確かにそういう姿をしている。
古代の人々は、こういった事柄を、
こういったこざかしい理屈によるのでなしに、直感的に理解していた。
自分が座っている隣に粗霊が座っている。
部屋の隅には座敷童が立っている。
河の淵には河童が住み、村の社には神様が住んでいる。
隣村に鬼が出たぞ、子供の首を取って食ったそうだ。
ああ、恐ろしや、祓いたまえ清めたまえ—。
民俗学の方面に明るい知人の言では、
「ああいったことは珍しくない」
のだそうだ。「珍しくない」というのはむろん、民俗学の視点からみれば、という意味である。
「それなら、なぜ民俗学者はそう言わないのか。
同時代評論家に言わせたままでいいのか」
と言ったら
「とても言えない」
のだそうだ。ああいったことは、人の世では古くからたびたび起こってきたのだ、
などということは、とても言えない。

普通のことを普通に言えないのが、現代と言う時代の特殊なのだと。
またも逆説になってしまう。あのような出来事を「事件」、「現代的な事件」
と解するまさにそのことが現代的だということだ。
しかし、昔話やお伽話のもつあの独特な非人情、残酷さとは
人が不可解な出来事に出合って驚くときの、裸形の感触に他ならない。
しかし、「人権」「平和」「みんな仲良く」の観念で着ぶくれした現代人には、
もはやあの感触がわからない。あのような出来事は
「あるまじき」「あってはならぬ」出来事なのだ。

けれども、本来、出来事というものはつねに、
「あるまじき」「あってはならぬ」というかたちで生起し、
人を乗り越えてゆくものなのではなかろうか。
自分が生まれ、自分が死ぬという出来事自体が、他ならぬそのことだからである。
人は驚き、畏怖し、そして理解するのだ、「自分」などというものは、
さして確たるものではないと。
「近代的個人」という人工的な観念の脆弱さが、少年Aを巡る出来事において、
見事に破綻するのを私は見る。あの少年は「何者」か、
あの少年の「自我」と思われるものは那辺にあるのか、
我々は皆目把握することができない。
しかし、十四歳の子供は、普通、理由なく人を殺さないというのは、
我々の側の先入見であって、「彼」は、我々に見えているところの彼ではないのだ。
「彼」は、十四歳の某という子供ではないのだ。
A=Aではない苦痛を述べようとしたものだ。
「俺は—」と言って、「誰だ」と問わざるを得ないその苦痛を「深淵」と、
そう彼は明言しているのである。最後のほう、引用しておこう。

今まで生きてきた中で、“敵”とはほぼ当たり前の存在のように思える。
良き敵、悪い敵、愉快な敵、破滅させられそうになった敵。
しかし最近、このような敵はどれもとるに足りぬちっぽけな存在であることに気づいた。
そしてひとつの「答え」が俺の脳裏を駆けめぐった。
「人生において、最大の敵とは、自分自身なのである。」
魔物(自分)と戦う者は、その過程で自分自身も魔物になることがないよう、
気をつけねばならない。
深淵をのぞき込むとき、その深淵もこちらを見つめているのである。
「人の世の旅路の半ば、ふと気づくと、俺は真っ直ぐな道を見失い、暗い森に迷い込んでいた」


「彼」、もしくは彼に憑いた「魔物」は、おそらく、数千年の年古りたる魔物であろう。
「自分」を見出すために、文字通り地獄の戦いを続けてきたのでもあろう。
私は、この理解の仕方が「おかしい」というふうには思わない。
どころか、これ以上「理に叶った」理解の仕方はないはずだと思っている。
ただし「理」とは、狭義の「合理」を意味しない。
森羅万象、宇宙の理(ことわり)である。



P.124
ところで、善とも悪とも無縁のために、「堕落した」というのとも違う奇態な魂が、
この宇宙には時折出現する。それは、善なる魂、悪なる魂、渾然とうごめいているそこへ、
こつ然と現われて、そのさなかを横断し、衝突し、深い傷を与え、また忽然と姿を消す。
善とも悪とも無縁のために、善と悪との深淵を、自身に求めて
永劫の時間さまよわなければならないあの少年のような魂は、私にはとても哀れに見える。





人は、清廉な存在ではない
とどこか思ってきた。
そして、私は人のそんな部分に
どうしても気がついてしまう。
「清廉潔白」の対義語は「佞悪醜穢(ねいあくしゅうわい)」だそうだ。
どちらかというわけではなく、どちらも渾然とある。
「なんでもないような人」にも。
自分の中にあるからこそ、みえる。


ただ、それは、泥を搔き出すようにいきなりひっくりかえすように
ひらいてはいけないものだとも思う。
あるもんだと思えたら、それをどうにかしようとも思わなくなる。

「澄んだ水のその底に泥がある。
水を上から注ぎ入れると、一時的に泥が舞い上がる。
泥が浮かぶあいだは見えなくなることもあるし、苦しく感じることもある。
けれども、水を注ぎ続けて、泥をうつわから流していくのだ」。

「うつわをひっくり返して一気に泥を洗い流したいと思うかも知れない。
でも、それはできない。やったら死ぬ」。

この、「水を注ぎ続ける」というおこないが
宗教によってになわれる部分であると私は思う。






先日、このツイートを見かけた。
最近、畑中さんは、「『日本残酷物語』を読む」を刊行されたそうだ。
次、読む本にする。
池田晶子さんの「魂を考える」から私が得たキーワードは「残酷」。













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