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空模様

 魂を考える

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池田晶子さんのことは、若松英輔さんを通して知った。
先日、図書館で「魂を考える」と目が合い、借りた。
借りて、一気に読んだ。

最近、書きたいことが浮かばなかったのは
若松英輔さんの講座に参加して、
私が書いたものを読んでいただいたのだが
「よいです。でも、もう一度書いてみてください。
感じることの、もう一歩先の地平を見るような心地です」
と返信をいただき、
なんとなく自分自身のすべてを言い表されたような気がして
考え込んでしまったからだ。

考えるばかりで、私はそれをおもてに取り出せない。
誰かの悲しみについても、
表面をなでるばかりで、踏み込めないんじゃないか
という恐れを感じてしまった。

4月に入って、学校が新たにはじまったが
しょっぱなから授業が荒れるという事件もあったりして
なんとなく耳が利かないという感覚だった。
離人症という病があるが、これはちょっと近いんじゃないか
と思ったりしていた。
一年目はあれだけ楽しかった授業だったけれど、
今、先生が話す声は遠く、私の耳に入ってこない。


5月に入り、太陽が顔をのぞかせはじめ
気温も上がった頃から、少しずつ「私」が戻ってきた。


私は私だけれど、私が私というところの私とはいったい誰?

P.26
「哲学ブーム」の背景としての「私探し」「生き方探し」とは、さんざん聞いた。
現代社会の空虚な自我たちが、根拠を求めて一度は縋ったオカルトの夢が破れ、
次は「ソフィー(の世界)」だと。
私は思うのだが、そのような仕方で〈私〉を探そうとする、探せると思うそのことが、
根本的に、誤っている。
したがって、そのような仕方で人々が「私探し」をし得ているものと思い、
ブームを後押しするマスコミと識者の皆さんは、二重に誤っているということになる。



P.26
さて、ソフィーもまた「私は誰?」と問う。しかし、この問い方が、すでに誤っている。
これは明らかだ。
なぜならば「私は誰?」と問いつつ、彼女はそのままその答えを、
哲学者たちの学説の中へ求めにゆくからだ。
哲学は「お勉強」することでなく自分で考えることだと、著者は繰り返す。
まさに、その通りだ。哲学は「お勉強」になった刹那に、哲学でなくなると言っていい。
しかし、「自分とは何か」という自分にとって最も「切美な」はずの問いを、
自分で考えるより先に他人の考えの中へ答えを求めにゆこうとするソフィーの態度を、
「お勉強」と呼ばずに何と呼ぶべきか。

P.28
おそらく、人が、哲学はわからない、哲学をわかりたいと言うとき、
わかっていないのは本当は「哲学」ではなくて、「自分で考える」ことの方だ。
人生や自分について、自分で考えるその仕方をわからない、と言っているのだ。

しかし、敢えて私は言うけれども、「私探し」と人が言うとき、
その〈私〉は、実は、考えられるべき〈私〉ではない。
思い悩まれ、やがて癒されるべきものとしての〈私〉なのだ。
この〈私〉は、哲学思考の対象としての〈私〉ではない。
なぜなら、思い悩まれ、やがて癒されるべものとしての〈私〉は、
そのような〈私〉として、すでに「答え」だからだ。
存在する全ての人間が、自分のことを同じ語〈私〉と呼ぶものだから、
話は甚だ混乱するのだが、右のような〈私〉を「社会的な〈私〉」と私は呼びたい。
「私とは何か」と問うて、性格や帰属や来歴や、せいぜいDNAが答えになり得るような〈私〉だ。
人はそれを喪失したと思い、どこかへ探しにゆかなければと思う。
対して、性格や帰属や来歴や、その他一切の属性とは無関係の〈私〉、
したがって、喪失のしようもなく常にここに在る〈私〉、これを
「形而上的な〈私〉」と私は呼んでいる。
哲学的な思考が対象とするのは、こちらである。



池田さんの本を一通り読んだ後にあったのは
うつわに水を注がれて、底にたまっていた澱が舞い浮かぶような感覚。
からだのなかが動いた。


私は、例えば、「愛」ということばはもうあまり使いたくない。
もうというよりは、もともと使いたくないと思っていたし
どうしても使わざるを得ないという時のみ使い、
多用しないようにしていた。
私にとって「愛」と言い表されるなにものかは
ことばを尽くして説明できないものであり
もう「それ」としかいいようがないものだったからだ。

それでも、「それ」から「なるようになるべくしてある」ことばへと
池田さんは彫りだしていったのだなと思った。

夏目漱石の「夢十夜」第六話にある、運慶が仁王像を掘り起こす描写。
「木の中にすでに存在しており、仏師はそれのなりたい形を取り出すだけである」
というようなことがそこには書かれている。



P.67
ウィトゲンシュタインは、どこかの断章で言っていた。
〈犬の振舞を見ていると、その〈魂〉を見ているのだ、と言いたくなる〉
振舞うものに対するとは、その〈魂〉に対するということだ。
振舞そのものが、〈魂〉なのだ。
それが、ある人がその人であるというまさにその意味だ。
そうでなければ、その人はそのように振舞うが、
その〈魂〉は実は別であるという議論が成り立つことになる。
しかし、他人は欺けても、自分を欺くことだけはどうしてもできない、
ということの真の意味が、おそらくこれである。
〈魂〉は、どのように振舞ったとて、全一的に「その人」である。



P.166
犬とは、犬の服を着た魂である。そして、人間とは、人間の服を着た魂である。




抜き出したい箇所はたくさんあるが、それではほぼ一冊を書き出すような行為に近い。

私は池田さんの書かれていることを、知っている。
池田さんも、はじめてヘーゲルを読んだ時の端的な印象は
「あ、私はこれを知っていた」といったものだったと書かれていたが
これ、すごくわかる。
私もそれ知ってるってよく思う。
かつて学んだことがあるとしかいいようのない、それ。

知っているだけで、こんなふうに書き表せないけれど
知っているならば、何度も何度も書き表してみることを
試みなければとあらためて思う。


若松さんが「生きる哲学」の冒頭に書かれていた
「ときに人は、たった一つの言葉を見つけるために、
人生のある時期を費やさなければならないことがある。
しかし、その言葉と出会うことができたなら、けっして徒労だったとは思わないだろう。
一つであっても言葉は、人生を根本から変えることがある。
むしろ、言葉だけが、そうした力をもっている」。

私たちは多くの言葉を知っている。
だが、知ることと生きることは違う。
知ることはしばしば対象の周辺をなぞることに終わる。
しかし、生きるとき、人はそれと深く交わらざるを得ない。
ある仕事について知る、ということと、ある仕事を生きることは大きく異なる。
仕事の労苦をもって感じている者だけが、そこに潜んでいる喜びを見いだすことができる。
それは、言葉でも同じだ。ある言葉と、本当の意味で交わることができれば、
困難は困難のままでも人はそれを生きぬくことができるように思われる。
私の場合はそうだった。だが、やはり私もそうだったように、
人はしばしば、自分の出会うべきものが言葉であることを
見失っていることがあるかもしれない。




書いても書いても、
まだそれが「なりたいかたち」には届いていない。
まだ「書く」ことにさえ至れていなかったと気づく。

またあたらしくはじめよう。
書くのだ、私の魂よ。
そこにたどりつきたいと、心から欲するのだ。

よく書けるようになりたいなら、よく読むことだ。
よく読めるようになりたければ、必死に書くしかない。
よく読むとは多く読むことではない。
むしろ一節のコトバに存在の深みへの通路を見出すことである。
必死に書くとは、これが最後の一文だと思って書くことにほかならない。
たとえば、もうこの世では会えない人に、今日書いた言葉だけは届くに違いない、
そう思って「書く」。本気でそう思えたら、文章は必ず変わる。
心からそう感じることができれば「読む」態度も一変する。
「書く」とは、単なる自己表現の手段ではなく、
永遠にふれようとする試みとなり、
「読む」とは、それを書いたものと出会うことになるだろう。
そこに見出すコトバは、時空を超えてやってきた、
自分に送られた手紙であることを知るだろう。











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