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空模様

 死の欲動 

後期の授業にあった「対人援助論」。

犯罪被害者、母親、青少年、高齢者、自死遺族、自殺念虜。
さまざまな悲嘆があり、アプローチされるべき方向はある。

どの先生のお話も、吸い込まれるようにうかがったが
一番気になったのは、精神科医の熊倉先生だった。

授業は、正直言うと何について語られているのか
はじめはよくわからなかった。

先生は落ち着かない様子で
てもとにある資料をなんどもぱらぱらとめくったり束ねたりしていた。
のらりくらりと、要領を得ない話し方でもあったが
核心を突かない、その先生の間合いというか余白のようなものに
先生と話すことで落ち着く患者さんは結構いらっしゃるだろうなと感じた。

先生の授業を聞いただけでは、とてもレポートは書けそうにない。
先生のお話しされたことをもう少し理解したく
先生の著作を図書館で借りてきた。

死の欲動―臨床人間学ノート死の欲動―臨床人間学ノート
(2000/05)
熊倉 伸宏

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先生はちょっとへらっと笑いながら話すのでゆるい雰囲気だなぁと感じていたが、
書き出す文章はとても繊細ながら凛々しい輪郭があった。
そして、情緒にあふれていた。


人間は清廉な存在ではなく
むしろひどく欲深く、残酷で非情だ。
このところのニュースを見ていてあらためて思う。
自分を棚には上げていない。
私自身もそうだ。

知ってしまうと、世界は絶望に満ちあふれていて、なかなかにヘビーである。

知らなければ知らないですむ世界だけれど、
でも私は「知る」ことを選んだんだなとこれもまたあらためて思う。
光よりも闇にひきつけられるのは、
闇の中でちらりと見えるひかりがとてもうつくしいことを、
私も知ってしまったからだと思う。

先生の著書の中の一節を引用する。
「絶望。人は闇をおそれる。闇の中で目を閉ざそうとする。
しかし、闇の中で、無力に留まるとき、
そして、そこで目を開くとき、絶望という漆黒の闇、破壊衝動、
そのもっとも深いところに、微かな光のうごめきを見る。
必要なことは、闇の中で目を開くこと。
やがて、その闇こそが、「重々たる」光のハーモニーの舞台であると知る。
闇こそが生であると知る。
いつか、その光に心を奪われ、『きれいだね』と口にする。
絶望こそが、生の彩り、生の証であったことに気づく。
その時、人は自我の微小を知る」。

「闇の中で目を開くこと、それさえできれば良い。
『共感』と『癒し』を支えるのは、『見ること』、
そのための一寸した勇気だけでよい。
治療者に出来ることは『患者と一緒に見ること』しかない」。
肯定の心理学/熊倉伸宏



ここ数日、SEKAI NO OWARI「Dragon Night 」があたまからはなれない。
http://www.dailymotion.com/video/x28fznq_sekai-no-owari-dragon-night-2014-10-13_music
http://www.nicovideo.jp/watch/sm25439891

彼らは、世界の終わりと自分たちのグルーブを名付けているけれど、
それは終わりを望んでいるからではなく、
終わりからはじめようということだと語っていた。
今の時代をあらわす人たちだなぁと思う。


熊倉先生は、臨床の中で
多くの自殺念虜をもつ人々に出会って来た。
彼らの言う「死にたい」は「生きたい」に聞こえると仰っていた。
治療者の役割は、ことばの裏に隠れたものを言語化することを助けるのである、と。

対人援助の中にもいろいろあるのに、
このテーマに向かうのは、先生の人柄からだったのか。
意識にはのぼってなかったけれど、結局ここ。
「死の欲動」、私もそこに親和的自我を持っているからなのだろうと思う。
(もうすぐ命日だなー)

IMG_6748.jpg

図書館で借りた本なので、線を引く代わりに付箋をはりまくり。
手元に置いておきたい本であるが、絶版でもう在庫もない。
古本で探すしかない。
早く手に入れて、線を引きまくり何度も読み返したい。


以下(「read more」のリンク先)はレポートの草稿。
興味のある方のみどうぞ。

人が「死にたい」という時、そこに内在するのは本人の意志のみであろうか。
しばしばその「死」は、本人の意志を超えた突発的な衝動としてあらわれる。
「死にたい」という訴えを「死の願望」と呼ぶならば、
「死の欲動」は人をして「死にたい」といわしめるもの、
つまり「死の願望」の実態であると熊倉伸宏氏は述べている。
「死の欲動」とは「死にたい気持ちに駆られる」心的現象、
「死に取り憑かれてしまった自我」とも言える。

自殺念虜のある者が「死ぬ権利」を主張することがある。
医療現場においては「死ぬ権利」とは「患者の自己決定権を根拠とし、
何らかの死に関わる医療行為」を狭義に指し、
また「自殺する権利」とは「自己決定による『死の選択権』を保障するものではなく、
自殺予防を理由とした過剰な自由剥奪を制限したもの」と定式化する。
死に直面することによって新しい意味を発見する主体の自由を否定しない、
これを「自殺する権利」と呼ぶならばそれを認めることに大きく異論が説かれることはないだろう。
しかし、「死」の選択は自律的判断ではなく、「死の願望に支配された自我」からの反応である。
その「願望」は「病理」によるものであり、
自殺念虜を持つ者は、「死」に相反した「生」を奥底に隠している。
受けとめる側はこのことを忘れてはならない。 

「死にたい」という言葉にいかに答えるか。
このように面と向かって告げられた人は、どのような態度をとるだろうか。
多くの人が「そのようなことを言うべきではない。死んではいけない」と叱責したり、
その人がいなくなってしまう悲嘆を投げかけたりするだろう。
いつかは死ぬとわかっていても、それがどういう経験なのか、
死んだ後にどうなるかを知っている者はいない。
死は究極の謎である。
しかし、「死にたい」というその裏には「なぜ生きなければならないのか」という問いが含まれている。
「生きよという絶対的命令があるらしいということこそ究極の謎だ」とは熊倉氏の言葉であるが、
「なぜ死にたいのか」という「謎」はそのまま「なぜ生きるのか」への謎でもある。
自殺念虜のある者はすでに「謎」の存在を強く認知しているが、
「謎」は直視するにはあまりにも大きすぎる。
しかし「謎」と認めることも一つの確信であって、認識である。
何に対する「謎」なのかがが認知できると、不安、恐怖は平静となる。
逆に、「死に憑かれた自我」では、生が「謎」であることを予感しながら、
謎の上に生きる恐怖を避けようとする。
どこかに絶対的な答えがあると考え、永久に答えをもとめるが、その答えはないのである。
そして「死にたい」という思考は反復強迫し、消えることがない。
この状況で、積極的に問題解決に向かえば、自殺念虜のある者は死へと追い込まれる。
謎を謎として率直に認識することが困難なのは、単に自殺念虜のある者だけではなく、
相談を受けた側にとっても同じだからである。
「死にたい」と打ち明けられた者に要求されるのは、生への謎、感性、耐性ということになる。
日常的会話の中で、どこまで生死についての問いかけを肯定し、受けとめられるか。
彼らに向き合う者の役割は、その人とともに起きている変化を観察し、
言葉裡に隠れているものを言語化することを助けることである。

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