Welcome to my blog

空模様

 生きよ

2013年、宮崎駿監督の「風立ちぬ」をみた。

8b459bc9.jpg


風立ちぬ、いざ生きめやも

と訳されたポール・ヴァレリーの詩『海辺の墓地』の一節
「Le vent se lève, il faut tenter de vivre」。
直訳は「生きることを試みなければならない」だそうだ。
堀辰雄が訳したものは誤訳だと言われている。

「生きめやも」は
「生きようか、いやそんなことはない」になる。
これだけでは生に対して消極的な訳だ。

堀辰雄自身の病、そして彼の恋人の病。
「死」を予測しながらの「生きめやも」は
「生きねば」であると同時に
「生き続けることは出来ないだろう」
という儚さのあらわれ。
しかし「いざ」がつくことで
「さあ」という意のある語感となり
「生きようじゃないか」と含意される。



それからほどなくして見た「かぐや姫の物語」。

450a2386.png

かぐや姫が月から地球に降ろされる話は、
キリスト教いうところの「原罪」をあらわしているように私は感じた。

キリスト教で説かれる「原罪」は、
日本語で受けとめられる「罪」とは意が異なる。
アダムが善悪を知る知識の木の実を採って食べたことが神に逆らった罪となる。
そしてその罪が全人類に与えた影響のことを指す。

その実を食べるまで、人は楽園にいた。
なんの苦しみも悲しみもなかった。死もなかった。
けれども、食べてはいけないと神から言われていた実を食べてしまい
「分別(これは仏教用語。いわゆる「聞き分けのよい」という意味ではない)」
を知ってしまった。
知恵をつけてしまった。
善悪を知ってしまった。
そして楽園を追われることになる。(これがホントの「失楽園」なり)

仏教でも、それらは同じように説かれている。
経験に基づく知識にとらわれないあり方が「無分別」である。

人の苦しみは「病老死苦」。その苦しみのないところが「極楽」。
苦しみを味わうことがかぐや姫の「罰」として描かれている。


月からおろされたかぐや姫は
人間世界で実に楽しく過ごしていたのだけれど
大きくなるにつれ、じじから縁組をすすめられ(おとなになるよう迫られて)絶望していく。
そして無意識に月にむかい「ここにいたくない」と助けを求めたために
月に帰る命がくだされてしまった。
しかしその後、この地球に生まれてきたのは
この世を謳歌するためだったと気づき「帰りたくない」と泣き伏す。
月に戻れば心が乱れることもなく、地上の穢れも消えるという天人の女官に、
姫は地上は穢れてなどいないと抗弁するがその途中で羽衣を着せかけられる。
その途端、姫は表情を失くす。
天に向かうその途上、地球を振り向いた姫は
無表情ながらも、目に涙を浮かべた。



どちらの映画からも「生きよ」と目に見えぬものから
強くささやかれた気がした。
泣いた。



生きよとここに差し出され
人はここにいる。
この世にうみだされるということは、自分の意思だけでかなうものではない。

それは、いのちを大切に
という言葉だけでは伝わらない。

「人」が、他者の生死を決定してはいけないのだ。
それを決められるのは、「人を超えたもの」だけだ。


戦地に人を送るな。
人を殺めるな。誰も殺すな。
お前も死んではならない。

生きて生きて生きて
生きてこの罪を享受せよ。


かぐや姫が月に帰る時の「天人の音楽」が本当にすばらしかった。
涙がとまらなかった。
平等院にみた雲中供養菩薩たちが奏でてくれていた。


「天人の音楽」は11分18秒あたりから。




映画、ラストシーン。。。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm25222293

0 Comments

Add your comment