空模様

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Posted by チエ on  | 

言葉にするということ

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先日18日の読書と対話の会。参加者は9名。

ファシリテーターと名乗る人がそこにいても、ただ存在するというだけで、
そこに集った人たちの中で対話がなりたつ、安心、安全にことばが行き交うというのが理想。

この日は「体の見方」の章を読んだ。
「自分を体と思うのは、間違っているんだ。と、君は『自分』の章で思ってしまっただろうか。
そう、この体であるところの自分とは何かを問うとしたなら、確かに自分はこの体じゃない」。

この章はこのような文で始まる。

私はずっとどこか乖離している私をずっと感じてきているので、この部分のことが今はとてもよくわかる。
今はというのは、乖離しながらもながらく自分で自分のからだなどを客観的に見つつ、批判的であったから。
今は、そうである自分をただ見ている。
切り離されているというのとも違う、そういう視点があるだけだ。
インサイトカメラのようなものだ。…いや、インサイトなんだろうか?
私が見ているもの、感じているものをみている眼だ。
この眼が受け取って、動いてみることも「考える」と言いたい。
スポーツするにも考えることが必要だというようなことを言ったのは誰だったか、
中田かカズか、イチローか。多分、みんな同じようなことを言ってる。

そして、考えたことは言葉にしてみることで、またからだに返ってくる。
私の感覚だと、おなかだ。ハラに帰ってくる。

ここでは、ずっと、本来「それ」としかいいようのないおおきなものの話をしている。
でも、「それ」ではなくて、そこで安住せずに、果敢に言葉に、私はしていきたい。
どうやっても、言葉にし得ないものがあるのはわかっている。
谷川俊太郎さんもそう言っている。
谷川さんでダメなんだから、無理? そうなんだろうか。

そうではなくて、自分でやってみなくちゃダメなのだ。
本当にその領域(それ)を体感できるのは、そこまでやってみた人にしかわからないんじゃないかと思う。
科学者たちも、突き詰めればどうやってもわからない、神の領域だとしか思えないところに行き当たるという。
どこまでいってもわからないから、どこまでもいってみなくては。
すると、するりと抜けたりするんではないだろうか。
おそらく、「わからないこと」が苦悩ではなくなる。

この日は前回の混沌を踏まえて、やってみたことがいくつかある。
「体の見方」ということもあって、呼吸に意識を向けるワークと、聴覚に意識を向ける「耳をすませる」こと。
あと、言いたいことは言わせてもらった。時には少し辛辣なことも言ったと思う。

それでも、9名も集まっていれば、言わんとしても話が流れていってしまうことがあった。
もうすこし細かに掬いあげていきたいものだ。


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これまでにないことをやってみる 其の七

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学校での発表が終わった。
言い足りなかったこと、こう言えばよかったということ。
終わった後にいただいた反応で湧いてくる。
発表してみたからわかること。
9月の学会発表をめざそうかな…と思ったりする。
(さて、私はその頃どうしているんだろうか)

発表した全員の話からみえたことは、
人と人がかかわることについて表面のアプローチは違っても通底しているということ。
キーワードはひたすら「対話」だった。

今回の発表でも使わせていただいたが、中島義道さんの「対話のない社会」にはひきこまれた。


「なぜ?」という疑問や、「そうではない」という反論。
地道な手探り、慎重な歩み寄り、念入りな違いの確認。
「わかった」と「わからない」の揺れ。
この揺らぎから「普遍的真理」をめざして語ること。



生半可なやさしいものではないのだ。
そして、これが真のやさしさなのかもしれないと思う。

グリーフケアと読書と対話の会がどうつながるのかと最初思ったけれど、
そういうことかとわかったと何人かの方から声をかけていただいた。

あと、クラスメイトたちから
「あなたがすすもうとしている道がみえた」「刺激を受けた」「気持ち動かされた」ということばももらった。

あらためて、大好きな池田さんの話を150名ほどの前で
できたことが何よりうれしくて、自分でも「よかったなぁ、私」としみじみ思っている。



池田晶子さんは、「生きているってどういうことだ?」と、のこした言葉から執拗に問うてくる。
若松英輔さんはこの本の中でこう書いている。


会ったこともなければ、遠くから見かけたことすらない。生前には、どんな声かも知らなかった。ある期間、確かに同時代に生きたのだが、その言葉は、彼方の世界からやってくる、そんな感覚をぬぐいさることができなかった。それは彼女が亡くなった今でも変わらない。池田晶子の言葉、誤解を恐れずにいえば、言葉である池田晶子は、今も語ることを止めない。


本当に、そうだ。
ずっと語りかけてくるの、本から池田さんが。

池田さんは、「言葉はそれ自体が価値である」と書いているが、
彼女のいう「言葉」とは、通常、人が使う言語の領域をはるかに超えていて、
ときには、色であり、音であり、また芳香、あるいは形でもあるような、
姿を定めずに私たちの前に顕れるものであり、それらは「コトバ」として言い表すとしている。

そして
「死の床にある人、絶望の底にある人を救うことができるのは、
医療ではなくて言葉である。宗教でもなくて、言葉である」と。
これは、いうまでもなくコトバのことである。

私は池田さんのコトバに触発され、「生きているとはどういうことか?」を問いたくて、
読書と対話の会を続けている。
そして、からだからもそれをいま味わっている。

池田さん曰く。
言葉それ自身を追求してゆくと、当然言葉の向こう側へ出てしまう。
「言葉」とはすなわち「意味」であり、「言葉の不思議」とは、「意味の不思議」。

私たちは「うつくしい」という感覚を、誰からも教わらないまま、
それをうつくしいというと幼い頃から知っている。
うつくしい、そのもとにあるものはどこからきているのだろう。


「言葉の意味というものは、目に見えて手でさわれるこの現実の世界には、
存在しないということなんだ。意味というのは、別の世界に存在するものなんだ」


ああ、すてきだ。
このことばだけで、ご飯三杯。



さて、「これまでにないことをやってみる」はここでひと段落。

あらたな「これまでにないことをやってみる」が始まっています。
それはまた違うかたちでご報告します。

読んでくださってありがとう。


【これまでにないことをやってみる 其の一】
【これまでにないことをやってみる 其の二】
【これまでにないことをやってみる 其の三】
【これまでにないことをやってみる 其の四】
【これまでにないことをやってみる 其の五】
【これまでにないことをやってみる 其の六】






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