空模様

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Posted by チエ on  | 

これまでにないことをやってみる 其の六

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【これまでにないことをやってみる 其の一】
【これまでにないことをやってみる 其の二】
【これまでにないことをやってみる 其の三】
【これまでにないことをやってみる 其の四】
【これまでにないことをやってみる 其の五】
からの続き


文京区の「新たな公共プロジェクト」(其の一を参照ください)の一環にある
「文京社会起業アクション・ラーニング講座」の企画発表の場である社会起業フェスタにて、
発表してみないかとお誘いを受けて、やってみようという気持ちになり資料を作り始めたが
そこで、あらたに気づいたことがある。


やはり、私が「哲学対話の場」にひかれるその根底には
「これまで、話したいことが話せなかった」という気持ちがあるのだ。

私自身も、あらためて考えていることを話そうとすると
「むずかしそうなこと考えてるのね」と言われ、その先を話すことは適わなかった。
ひとりで考えているだけでいいと思うようになった。


哲学対話の活動をすすめている梶谷真司さんが

まず、「なんでも言っていい場」って、この世の中に本当にないんだよ。
「飲み会とか、お茶をしている時とか、気楽にしゃべってるかもしれないけど、
実は「言っちゃいけないこと」「聞いちゃいけないこと」ってすごくたくさんあるんだよね。
その場の空気を盛り下げるような発言なんて、絶対にできない。
それをやっちゃう人は、集団から排除されてしまうんだよ。

ということをおっしゃっていた。
この発言は、以下の記事に詳しい。

考える自由のない国―哲学対話を通して見える日本の課題
https://www.projectdesign.jp/201601/ningen/002667.php


梶谷さんは、哲学対話におけるルールを以下のように提示してくださっている。

①何を言ってもいい
 空気を読んでいわないという気遣いは不要
②人を否定したり、茶化したりしない
 発言が恥ずかしくなったり、わざと注目を浴びるために発言することを防ぐ
③発言せず、ただ聞いているだけでもいい
 話さない自由があって初めて、なんでも話す自由がある
④お互いに問いかけることが大切
 積極的に質問する場であることを確認し、お互い安心して問いかけられるように
⑤知識ではなく、自分の経験に即して話す
 経験の優劣なし 誰でも対等に話ができる
⑥話がまとまらなくても、意見が変わってもいい
 何かを決める場ではないので、問題なし
⑦わからなくなくってもいい
 わからなくなったのは理解が深まった証拠

(ファシリテーターは、場を安全に保つために交通整理の役割をつとめたりします)


文京社会起業フェスタ(今年の開催名は「文京社会起業アクション・ラーニング講座交流会」だった)
でのプレゼンテーション後、発表を聞いてくださった方からいただいたことばのなかで
ハッとしたのは、「それによってあなたがどう変わったのか」という問いかけだった。

役に立つとか、効果があるとか、そういうことではなく
「14歳からの哲学」を教科書とした読書と対話の会によって
私自身がどう変わったのか、は語らねばならないところだろう。

言い換えてみれば、私のこの変容の物語は
私自身のグリーフケアだったとも言える。

他の人には、そのままあてはまらないだろうし
そんな変容は起こらないと言われるかもしれない。
でも、私自身は「14歳からの哲学」から発せられている
「生きているってどういうこと?」という問いかけによって、
日々がwonderfulになったのだ。

そして、大学の実践研究発表会でも発表してみようという気になったのだから。
これって、私にとってはすごいことなのだ。
人前に立って発表するなど。

「話したいことは話せなかった」と最後の授業で言ってしまった私が
話したいことを話せるようになったと先生方にご報告できればと思っている。


20170312.png

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これまでにないことをやってみる 其の五

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【これまでにないことをやってみる 其の一】
【これまでにないことをやってみる 其の二】
【これまでにないことをやってみる 其の三】
【これまでにないことをやってみる 其の四】
からの続き。

グリーフケア研究所の講座でのグループワークは
おもに生育歴を語ること、
そして、実習先での会話記録をもとに感じたことを話し合っていった。


私はこれまで日記をつけてきており
さんざん自身とは向き合ってきた(つもりだ)。
20年になる。

はじめに自分が感じることを書き出した頃は
直視するのが辛かった。
自分はこんな人だって、認めるのはしんどい。
世間に褒められるようなことであればいいのだけれど
他人のことを責めるなんてできないぐらい、私はひどい人だった。

今は開き直るでもなく、ことさらにへりくだるでもなくいる。
誰かに対しての、特別な怒りも、悲しみも憎しみもない。
てばなせずにいる感情はなきにしもあらずだけれど
これはムリに引張がせないなぁと思ってる。


そんなふうに、ずっとすごしてきたから
人に語りたい、聞いて欲しいような生育歴は、私にはない。
話したくないというわけでもないが
口からことばがあふれるものでもなかった。

もしかしたら、場が変わると話したくなる時もあるのかもしれないが
学校ではそうではなかった。

こういうことは、無理に話すものでもないだろう。
何度も書くが、決して話したくないというわけではない。
ただ、本当に話したければ、地下を掘り起こすと水が湧くように
自然にことばにのってくるものだと思っている。
これは、私が私だと思っている意識が為すことではない。

学校だから、というわけでもないかもしれない。
どこへいっても、わざわざ語りたいことではないかもしれない。
私がどう捉えているか、だもの。過去の記憶は。

それらは話したい時に、話ができて
そして、また捉え直しができればいい。


学校が修了してからは
そんなことを思ったりしていたが
「14歳からの哲学」について話をするようになったら、そんな考えも吹っ飛んだ。

この本は、「自分とは誰か」の章が核だと思う。
そして「死」などないと言われ
「からだ」は私ではないと言われ
「こころ」はどこにあるのかと聞かれ
他者のこと、ただの他人と思ってるでしょとからかわれる。
すべて、「私」が「私」だと思っている「私」をさらにみているその眼で。


これらについて話すことがとても楽しくなった。
そして、「私」についての認識が変わった。
私がみている人、その見え方が変わった。
これまでの私が見ていたのは、その人そのものではなかった。
私が見たいように見ていただけだった。
今ももちろんみたいように見ているだけなのだが
見たいように見ている私を見ている眼のことを感じている。
…え、それは誰なの?


どこまでもどこまでも、ずっとずっと
もうこれ以上噛み砕くことができない粒子、
素数のようなことば、そのもと。

私は、それについて話したい。
これ以外のことは、もう案外どうでもいいのだ。
そして、この本は、それについて「考え続けよ」と言ってくれている。

「生きていることって、どういうこと?」
自分が生きていることがあたりまえのように
なんの不思議もなく生きているけれど、
これ以上の不思議はない。
世の中に不思議はたくさんあるように思うかもしれないけれど
それらはすべて、不思議だって思っている自分がいてはじめて不思議になる。
そう思って生きている「私」とは?


という、「何言ってんの?」と人から言われるようなことを
考えたり話したりしていたい。
それが、私のなにより「話したいこと」であり
なんでも話していいといわれたのならば、そんなことだけを話していたい。


「14歳からの哲学」の著者、池田さんは「悩むな、考えろ」と言った。
私に悩みは、もはやない。
ただ、ずっとずっと考え続けている。

おそらく、考え続けていたら
宗教家たちの言う「神」のようななにものか、なにか
それは、先ほど「噛み砕くことができない粒子、
素数のようなことば、そのもと」と書いたが
裏返せば、すべてを包み込んでしまうほど大きいとも言えるなにかに
ゆきあたるような気がしている。

そこは、
宗教なくとも、「神」といいたいようななにかじゃないか。
わからないけれど、なんていっていいのかまだわからないけれど
そこが源だとなんとなく感じられたならば
信じられたのならば、宗教者の持つ強さが
宗教のないものにも持てるのではないかと思う。

現に、私はこの一年でずいぶんと強くなり
人前でこんなことを発表しようとしているのだから。
(まじかー。まじだよー。)
(このまんまというわけにはいかないか。推敲必要。
とりあえず思うままに書いて書いて書くのだ。)


ああ、もう一回かかるな。

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これまでにないことをやってみる 其の四

【これまでにないことをやってみる 其の一】
【これまでにないことをやってみる 其の二】
【これまでにないことをやってみる 其の三】
からの続き。


文京区のファシリテーター講座で、
「どうしてそれが必要だと思うの?」
「あなたはそれがあってどうしてよかったと思うの?」
という広石さんからの問いと
私が学校の授業で
「話したいことは話せなかった」と言ってしまってからの
「じゃあ、私は何が話したかったんだろう?」
というみずからへの問い。

ファシリテーション講座で対話の場を実践してみて
(これです→http://bunkyo-sip.jp/?p=4330
ようやくここが重なった。

この対話の場は一回やっただけでは、その場しのぎにすぎないと思っている。
何度も何度も重ねていくことで、自分自身が推敲されるのではないか。


レヴィ=ストロースはかく語る。

「私のなかには画家と細工師がおり、たがいに仕事を引き継ぐのです。カンバスに向うまえにデッサンをする画家のように最初の段階では、まず書物全体の草稿をざっと書くことからはじめます。そのさい自分に課する唯一の規律は決して中断しないことです。同じことを繰り返したり、中途半端な文章があったり、なんの意味もない文章がまじっていたりしてもかまいません。大事なのはただひとつ、とにかくひとつの原稿を産み出すこと。もしかしたらそれは化物のようなものかもしれませんが、とにかく終わりまで書かれていることが大切なのです。そうしておいてはじめて私は執筆にとりかかることができます。そしてそれは一種の細工に近い作業なのです。事実、問題は不出来な文章をきちんと書き直すことではなく、あらゆる種類の抑制が事物の流れを遮らなかったら、最初から自分が言っていたはずのことを見つけることなのです(心中ひそかに私が参照するのはシャトーブリアンとジャン=ジャック・ルソーです)」


「山のような著作や辞書に囲まれて(辞書を手元においておくのは、未知の単語を発見する楽しみだけということもありますが)、私はまず手はじめに初稿のあちこちを抹殺し、あるいはさまざまなサインペンや色鉛筆を使って行間に加筆したりします(そのために初稿は行間を広くあけてタイプで打つことにしています)。あらかじめ色を選ぶようなことは決してしません。それはなにか取消しのきかないことになるはずですから」


「原稿が解読不能な状態になると、不要な部分を白く塗りたくり、さらに加筆訂正できるようにします。この操作も不可能になると、切り取って原稿に貼りつける小さな紙切れを使って、書き直すべき部分を書き直せるようにします。ようするに仕事が仕上がった時には、紙切れが三枚も四枚も重ね貼りされていて、ほとんどある種の画家たちのコラージュに似たものになっているのです」



ジャン=ルイ・ド・ランビュール「作家の仕事場--どのように書くか 〔R.バルト,M.ビュトール,H.シクスス,J.グラック,ル・クレジオ,M.レーリス,C.レヴィ=ストロースに聞く〕」『海』1978年11月号、中央公論社
(こちらから引用させていただきました<(_ _)>↓
書きなぐれ、そのあとレヴィ=ストロースのように推敲しよう/書き物をしていて煮詰まっている人へ
本も読んでみようと思います。…と書いてびっくり。Amazonで50000円…。
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/412000872X/readingmonkey-22/ref=nosim/




この、とにかく中断することなく書いてみる
ということが、哲学なんじゃないか。

そして、対話が推敲となる。
哲学対話は、レヴィ=ストロースのいうブリコラージュじゃないか。

※フランスの文化人類学者・クロード・レヴィ=ストロースは、著書 『野生の思考』(1962年)などで、世界各地に見られる、端切れや余り物を使って、その本来の用途とは関係なく、当面の必要性に役立つ道具を作ることを紹介し、「ブリコラージュ」と呼んだ。彼は人類が古くから持っていた知のあり方、「野生の思考」をブリコラージュによるものづくりに例え、これを近代以降のエンジニアリングの思考、「栽培された思考」と対比させ、ブリコラージュを近代社会にも適用されている普遍的な知のあり方と考えた。
また彼は世界各地の呪術や神話における思考の特徴的なパターンも「ブリコラージュ」と呼んだ。たとえば神話体系は様々な神々や英雄が織り成しているものであるが、全体としては個々のエピソードの集まりであり、きれいに一続きにはなっておらず神々の系図も複雑になっている。これは、先行する民族や隣接する民族の神話を引用したり、各地方の神話を一まとめにしたりしながら神話が形成されてきたために、神話体系が寄せ集めの状態(ブリコラージュされた状態)となっているからである。wikipedia




このように考えた時に、「なんでも話せる場」の重要性を思った。


あともう一回ぐらいかな。

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ばあちゃんちのブリコラージュ。
椅子の寄せ集め。





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これまでにないことをやってみる 其の参

【これまでにないことをやってみる 其の一】
【これまでにないことをやってみる 其の二】
からの続き。


上智大学のグリーフケア人材養成講座に通っていた頃、
グループワークが毎回行われて、
自分自身が感じたことを話してゆく時間があった。

そこでも、私は自分が本当に思っていることは、口にできなかったと
最後の授業の日に言ってしまった。
そう言うと、クラスの人たちはすこし残念そうな顔をした。
いやいや、あなたたちのせいではない
と言いたかった。
しかし、それを含めても、私には口からことばがだせなかった。

自分が感じていることはたくさんある。
そして、私が頭で考えていることもたくさんある。

けれども、それをどう言っていいのか、わからなかった。
口には出せない、しかし、こうして文字にはできる。

もしかしたら、これは障害と言ってもいいのかもしれない。
ただし、病院にかかったところで、おそらく問題のない正常な人だ、私は。
病名はつかなくても、人が気軽にやっているようなことが私にはできない。
人に言えば「そんなこと、たいしたことないよ」ということばだったり、
こうしたら、ああしたらいいんじゃない?という反応が返ってくる。

哲学カフェというものがあると知ったのは、
こういう葛藤の日々の最中だった。

もともと、「死ぬってどういうことだろう」ということに興味があるから
グリーフケアの講座へも通うようになった。

哲学カフェでは、話したいと感じることが話せるのだろうか。
行ってみたけれど、やはり思うようには話せなかった。

大学の図書館で目があったのは、池田晶子さんの本だった。
池田晶子さんの書いたことを読んでいると、
「哲学」とは、「問い、考えること」とあった。
「14歳からの哲学」は、私にとって聖書だ。
副題にある通り、まさしく考えるための教科書となった。

「14歳からの哲学」を輪読して、考えたことを話し聴きあう
読書と対話の会は、Aというブロックにある章、
「考える→考える→考える→言葉→言葉→自分とは誰か→
死をどう考えるか→体の見方→心はどこにある→他人とは何か」
を繰りかえし読んでいる。今、二巡目。
「自分とは誰か」については三回読んだ。
先に進みかけて、一度戻ったのだった。

頭で考えることと、それを口に出してみることはまるで異なる作業で、
口に出してみてあらためて、考えがかたちとなった。


小さな問いからはじめて考える。
それを、人にわかる言葉にする。
言葉にしないと、考えははっきりしない。
それから、「なんで?」「どうして?」と聞くことで、もっと考えを深めていく。



私の場合は、まず、ネットにアクセスしだした20年前に
ネットの中で日記をつけてみて、自分の考えていることがあらためてわかる
ということがあった。本当にびっくりしたものだった。
私ってこんなことを考えているのか、と。

そして、今こうして、人と向き合って話をしてみる場に身を置いて
「私はこう考える」と口からの言葉として話せるようになった。
読書と対話の会を繰り返し続けていくのは、「人は変わる」と感じたからだ。


え、もともとちゃんと考えを口にできる人だったじゃないの?
と思う人もいるかもしれないが
自分では言えていないと思うことがよくあった。
あるのは漠然とした「思う」だけだった。


「本当のことを知っているということは、それ自体が自由なことなんだ。
本当のことを知らないから、人は人に対して自分の自由を主張することになるんだ」


と池田さんは、「14歳からの哲学」の中で書いている。

ああ、本当に。

私は、この一年でずいぶんと自由になった。

(え、もともと自由なんじゃないのと人は言うかもしれない。
そう、たしかに本来、人は自由なのだ。
自由がどういうことなのかがわかれば。
そういう意味では、これまでの私は不自由だった。
人に自由をすすめながらも、私自身は不自由だったのだな。)


おっ、まだ続きそうです。
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これまでにないことをやってみる 其の二

【これまでにないことをやってみる 其の一】からの続き。

はじめに、対話の場へ「哲学カフェ」や「哲学対話」ということばを
持ち出そうとした時、やはり「哲学かぁ、むずかしそう」というような声を
ちらほら聞いた。

なんせ公共事業であるので、「オープン、ひらかれている」ことが大事だ。
誰からしても、アクセスを拒まれないこと。

なので、「哲学」ということばはかなりクローズドなのである。
「哲学」ということばをそのまま出しても、ひとは集まらない。
(かわいそうな哲学… ( ノД`))

まちの人々にとって、どうしてそれが必要だと思うの?
あなたはどうしてそれをいいと思ったの?
それを何て言えばいい?
ということは、講師の広石さんから何度も問われた。

他のひとにどうして必要か、なんて考えたこともなかった。
私にとって大切だったということしかなかった。

オープンであるとは、
私と他者の間がつながっていると感じられることか。
自分だけにわかることばじゃ、バトンにならない。
ことばは、橋でもある。
そして、こちらからさしだす手のひらでもある。


これって、哲学カフェや哲学対話でかわされる対話、そのものについてを言ってるな。

ここに気づけたことは、とても大きなことだった。

こうして書き出してみるとなんてことはないように感じられるが
問われた瞬間は、目からウロコが落ちる思いだった。


もうちょっと続きます。。。

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これまでにないことをやってみる

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文京区が主催する活動支援コーディネーター養成講座とファシリテーション講座
に参加している。
http://bunkyo-sip.jp/?p=3818

春まで通っていた学校でのグループワークを通して、
そして、実際に「読書と対話の会」などの場を持つようになって
ファシリテーターの勉強がしたいなと思っていたところ
たまたまfacebookで講座の案内を見かけた。
しかも費用は破格値の4000円だった。
全7回。
一回ごとの参加費かと何度も確認したが
全7回分のお値段だった。
びっくり。

はじめは、ファシリテーター講座だけでいいやと思っていたのだけれど
講師の広石さんの話がおもしろくて、続けてコーディネーター講座にも通うことにした。



文京区では、対話等を通じて地域の多様な主体が関わり合いながら、
地域課題の解決を図る担い手を創出していく取組を「新たな公共プロジェクト」と称して
より豊かな地域社会の実現を図っていこうと取り組んできたそう。

活動支援コーディネーターとファシリテーション養成講座は
そのプロジェクトの一環として開催。

文京区民だけが参加できるのかと思いきや、
他区民もウェルカムとのことで、文京区はえらく太っ腹である。


ファシリテーション講座の中で、対話の場を企画運営するという実践があり
そこでは「哲学対話」を題材にすることにした。
はじめは、文京区といえば坂道だし、坂道大好きだし、坂道を取り上げたい
と思ったのだけれど、実際、この坂道については自分が参加者として知りたいことであり、
企画してゆくにはハードルが高いと感じてもいた。

それならばと今の私にとって最も関心のある「哲学」を題材にしてみたらどうだろう
と取り上げたところ、それに賛同してくれる人がいたおかげで企画をスタートさせることができた。

P1140596.jpg



これはなりゆきで、ともいってしまうが
本当は、今自分が住んでいる練馬で開催できるのが何よりなのではあるけれども
ひとまず縁があって、なんとなく「そうなってゆく」ことが
私にとってはいいような気がしている。
(私が自分の自我で推し進めると、どうもパワーバランスが悪いようでうまくいかない)

というわけで、なりゆきで
「新たな公共プロジェクト」内にある別講座、「文京社会起業アクション・ラーニング講座」
の交流発表会にて、企画を発表してみないかという声をさらにいただいて
「まじかー、人前でしゃべるのきらいなのにー」という気持ちとは裏腹に
やったことのないことはやってみたいという好奇心もあって、発表に臨んだ。


テーマは、「『哲学カフェ』を通してなんでも話せる場をつくろう」である。



長くなるので、一旦ここでおきます。
次回へ続く。。。




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