空模様

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Posted by チエ on  | 

わからなさへの共感

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六車由実×里見喜久夫「介護民俗学入門~六車さんと『聞き書き』してみよう」
『コトノネ』20号刊行記念 @下北沢 本屋B&B

六車さんのお話はもちろんおもしろかったのだけれど、
じゃあ実際に聞き書きをやってみましょうということになり、
その聞かれ役となった医学書院編集者の方の話されたことが私にはずばぬけておもしろかった。
「ケアをひらく」シリーズは、この方がすべて一人で手がけているそうだ)


「思っているけれどうまく言えない、とか、わからなくて混沌としていること。
そのできなさ加減に照準をあわせることができたら、そこに賛同してくれる人がいるのでは?」
という点が、本をその人が作ろうと思う源だというようなことを仰っていた。
ここは、わたしが哲学対話にもとめたい点でもある。
賛同してくれる、または賛同したい人はそうそうあらわれないものだけれど、
だからこそ「あ、この話をしてもいいんだ」という人や場に出会えることが最上の喜びだ。

「エビデンスがどうのこうのと言っている人が、エビデンスなんてその程度だと思っている」
とも仰っていた。

こういう話の時によく思い出すのは、会社員時代に仕事としてしていたガスクロマトグラフィ測定のことだ。
気体や液体の成分分析機器なのだけれど、結果には、大きいピークとものすごく細かいピークとが表れる。
大きいピークは主要成分ではあるけれど、他にも細かいピークはおびただしくある。
わかりやすさというのは、このうちの大きいピーク。小さいピークは、わかんなさ。
今の世の中、わかりやすさが求められているようだけれど、
わかりやすいものってあっという間に流れてゆく。
わからないものはいつまでもひっかかりつづける。

こころから共感できることは、「わからなさ」なのかもしれない。
うちで開催している読書と対話の会は、
「わからない」を共有する場であり続けたいなぁとあらためて思う。
(「わからない」と言うことを、できるだけ避けながら)




精神障害者の就労支援をしている施設(施設の方が今日のお話を聞きに来ていた)が作ったカルタを買った。
(なんと、市原悦子さんの読み札音声CDと、かるたの製作風景を写したDVD付き)

話を聞いていて思う。精神障害の方の幻聴や妄想と、
いわゆるスピリチュアルな人たちの「みえないものがみえる、聞こえる」ってのは、
おなじもとにあるんじゃないかってこと。
どうやら他の人には見えないものが見えていたり、聞こえていたりするというところで。

わたしには、自分の見えているもの、聞こえているものが
他者と違っているのか、確かめようがないので
わからないのだけれど。

自分の見ているもの、聞いているものが
他者と同じだなんて、今はもう思えない。

そして、どうやら見えないものが見えるとか
聞こえないものが聞こえる
ってのは、その人の世界でのこと。
他者がそれを特別視して、過剰な装飾をつけているだけなのかもしれない。

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このあたりがおもしろい。
こういうのもブッククラブでやったりするとおもしろいんじゃないかな。


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Category : いつものこと
Posted by チエ on  | 0 comments 

お腹から、背中をみる

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昨日は、ひさしぶりに上智大学の講義に出席させてもらった。

私は練馬総合病院の漢方内科にて診察を受けているのだが、
その先生(ウチの相方が漢方をまなぶ上での師匠でもある)が
「祈りの人間学」という授業を一コマ受け持つというので、席に加えていただいたのだ。
主題は「みえないものをみる」。

先生の母上が間質性肺炎で入院、危篤状態となり
「もう打てる手は打ち尽くしました」と主治医に言われた時に、
それならばと漢方薬を処方させてもらえるようお願いし、
もうどうにも施しようがないと言われた状態から自力で起きて退院するまでの話は圧巻だった。


そのひとの状態を全体でみる(ここは、観る、だろう。単純な視覚ではない)には、
やはり自然な状態に自分の身を置き、嗅覚、聴覚、触覚、といわれるような感覚を磨くこと。
とっさの時に動けるようになるためには、それら感覚を研ぎ澄ませて、
直感といわれるようなひらめきをおろそかにしないことだろう。



先日は、文京区のファシリテーター講座にて「哲学カフェ」を主軸に対話の場を企画主催したが、
そのなかで大学で社会哲学について教鞭をとられている古市さんにお話を伺った。

たとえば「いじめ」や「死」もこどもにとっての限界状況であり、
「こどもの哲学」といえども「おとな」と違いはない。問題を共有し得る。
しかし、こどもの時分にはない「常識やルール」など社会規範を
おとなになるにしたがって身につけていく。
その暗黙のルールがあるからこその自由が社会にはあるが
時としてそれは人を不自由にもさせる。

「常識だと思い込んでいることを疑う」、「ルールに異議申し立てる」ことのできる点が
「おとなの哲学」なのではないかということを古市さんはおっしゃっていた。



漢方の根本は、すなわち東洋思想、東洋哲学そのものであり
全体を「陰陽」としてみている。
寒ければ暖め、冷たければ温め、乾いていれば潤す。足りなければ補う。
いたってシンプルである。

「おとなの哲学」でいうところの
「常識だと思い込んでいることを疑う」、「ルールに異議申し立てる」も、
このシンプルな自然の法則に従えば、問いがおのずとでてくるような気がしている。
おそらくこのことを「お腹から、背中をみる」と漢方医は言っているんじゃないかと私は思う。
(遠くだと思ったら近くだったとか。
宇宙のことを考えていたら、自分のことだったりとか。)



もうすぐ冬至である。
今年は12月21日。
一陽来復。
日短きこと至り(陰きわまる)、陽が生ずる。
ここからまた陽が長くなってくる。

冬至から、西洋の暦で一月一日を迎えて新年、
そして新月で旧暦の正月、節分、立春という
幕がじょじょにあがっていくかのような流れを感じて
これからが寒さは本番であるものの
冬至と聞くとささやかにからだが蠢く。
からだの内側からのダイナミズムを感じるのがたまらない。


これまで関心のあったことが
もぞもぞと動き出して、混沌としつつ
あたらしい宇宙がうみだされそうな。

たまらなくしあわせである。



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