空模様

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Posted by チエ on  | 

死をどう考えるか

「読書と対話の会」とは別に、春まで通っていた大学のクラスでいっしょだった友人たちと
「14歳からの哲学」を、やはり1章ずつ読みながら話す会を続けている。

昨日は、「死をどう考えるか」。自分自身の体験をまじえながら、
「私はこう考えるんだけどね」などなど、枝葉にわかれつつ話が続く。
私が考える死のイメージは、「イワン・イリッチの死」にある描写の通り。


『ところで死は?どこにいるのだ?』
古くから馴染みになっている死の恐怖をさがしたが、
見つからなかった。
いったいどこにいるのだ?
死とはなんだ?
恐怖はまるでなかった。
なぜなら、死がなかったからである。
死の代わりに光があった。
「ああ、そうだったのか!」彼は声にたてて言った。
「なんという喜びだろう!」


COMAさんの点描画は、事故にあった際に見えたというひかりを
あらわしているというようなことをおっしゃっていた。
失われる記憶を、絵にとどめることで
「昨日があった」ということを思うために。


ひかりに迎えられて、包まれて、そして溶けてゆく
そのひかりと一体になるというのであれば
私個人の死は、怖くはない。

死について私が考えるのは、遺す、遺される時のこと。
それも、まだ生きている、今ここの話。
死についてと言いながら、実際、考えるのは「生きている」話。

ずっと、こんな話が誰かとできるといいなと思ってきたけれど、
それができる上に、おおやけにしてもいい日がくるとは思ってもなかった。

話しながら、したい話をしたいようにできることがなんともしあわせだと思った。
そして、かつての私のように「話したいけれど、話せない」と感じている人と、
この先、出会っていけるといいなと思っている。


IMG_0512.jpg
GOMAさんが描かれた絵
9/14から9/26まで高島屋新宿店10階 美術画廊にて、グループ展が開催されているそうだ。
プリントやネット画像ではない、直の絵を見ていただければと思う。




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Category : いつものこと
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【14歳からの哲学】10月8日

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「読書と対話の会」ご案内

■日時:10月 8日(土)10時~13時(予定)
■場所: 練馬区富士見台 
(西武池袋線・富士見台駅より徒歩7分)
(ご参加される方へ、直接お伝えします)
  
次回は、第5章  言葉(2)(P31~)
​*途中章からでもご参加いただけます。
読んでなくちゃ参加できないということもありません。
ただし、「14歳からの哲学」はご持参くださいませ。


○会費:500円(お茶とおやつあり〼)
○定員:8名 (残り2席です) 




ひとの目にうつるものに「名前」がつけられること。
そして、その「名前」になってゆくこと。
でも、名前をつけられるその前からあること。


池田晶子著「14歳からの哲学」言葉(2)より
P.36

「しょせんは言葉、現実じゃないよ」という言い方をする大人を、決して信用しちゃいけません。そういう人は、言葉よりも先に現実というものがある、そして、現実とは目に見えるもののことである、とただ思い込んで、言葉こそが現実を作っているという本当のことを知らない人です。




【若松英輔さんの著作「悲しみの秘義」より】

哲学者の井筒俊彦(1914-1993)は晩年、「言葉」とだけでなく
「コトバ」と記すようになった。
コトバと書くことによって彼は、文字の彼方に息づいている豊穣な意味のうごめきを
浮かび上がらせようとした。
井筒が考えるコトバには無数の姿がある。
画家にとっては色と線が、音楽家には旋律が、
彫刻家には形が、宗教者には沈黙がもっとも雄弁なコトバになる。
苦しむ友人のそばで黙って寄り添う、こうした沈黙の行為もまたコトバである。

『荘子』には「地籟」「天籟」という表現が出てくる。
「籟」は、ひびきを意味する。
天地の場合、ひびきがコトバになるというのである。
「天籟」にふれ、井筒はこう書いている。


【人間の耳にこそ聞えないけれども、ある不思議な声が
声ならざる声、音なき声が、虚空を吹き渡り、宇宙を貫流している。
この宇宙的声、あるいは宇宙的コトバのエネルギーは
確かに生き生きと躍動してそこにあるのに、
それが人間の耳には聞えない
/「言語哲学としての真言」】

ひびきという無音の「声」は、耳には聞こえない。
だが胸には届く。
胸が痛む、あるいは胸が張り裂ける、と私たちはいう。
あるいは心の琴線にふれる、ともいう。
コトバが心に届くとき、人は何かに抱きしめられたように感じる。
誰の人生にも幾度かは必ず、こうした出来事が訪れる。
そしてその感触は忘れられることはあっても、生涯消えることはないのである。





ひとの目にうつるものに「名前」がつけられること。
そして、その「名前」になってゆくこと。
でも、名前をつけられるその前からあること。
それ以前からある、その意味、その本質、その響き。


言葉を大切にするということが、自分を大事にするということ。

言葉を大切にする、とは、
書くこと、話すことが文法に沿ってなければならない、ということではない。
また敬語をきちんと使わなくてはいけない、ということでもない。


それがその名前や言葉になる前から存在しているそのもの、その本質は、
「私」が知覚する以前からある。
けれども、「私」がその存在を知覚することで「私」の世界は成立する。
私の世界は、私の用いている「言葉」によってできている。

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君の名は。

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ひとの目にうつるものに、「名前」がつけられること。
そして、その「名前」になってゆくこと。
でも、名前をつけられる前からあること。


「お前は誰か」と「私」に問うのはいったい誰なのだろう。


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意識と記憶と名前と、時空。

ここはなんだかよく知っている、でも初めてきたのに。
そう感じる地や瞬間のその感じ。
(私にとって、長崎や東京がそうだ)

ここにいたんじゃないだろうか、
でもそれはいつのことなんだろう。

あなたはかつて、愛したひとなんじゃないだろうか。
どういう姿であっていたのかは、まるで覚えていないのだけれど
私はずっとあなたにあえるのを待っていた気がする。

そんなふうに感じるのは
どういうことなんだろう。

私は誰なの。
そして、私はこの映画を見て、どうしてあんなに涙が出たの。
いったい、なにがなににふれたのだろうか。


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見た後に、この映画のベースに
古今和歌集で小野小町の詠んだ
思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを
があると知った。やはりそうかと唸った。
この映画の世界観は、そうだろうって。
そしてまたこの映画を57577の文字数であらわせるこころが
私がいま生きる地の源泉にあるだろうって。

高校時代に古典の先生を好きになって、
やたらとがんばって古典ばかり勉強した時期があったけれど
あの先生が例えば数学の先生だったら、私は先生を好きにならなかっただろう。
先生の教えてくれる古典が好きだったのだ。

私の中で大切にしたい映画の一本となった。

http://www.kiminona.com/index.html




新宿や四ツ谷の風景がでてきてうれしい。
シン・ゴジラを見た後も感じたけれど、私、ホント東京が好きなんだなぁ…。





Category : 映画
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「哲学」とは、「私は好きにした、君らも好きにしろ」じゃないかな。

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「14歳からの哲学」を題材にした「読書と対話の会」、
初回三人での顔合わせが7月12日で
あいだ二度ほど抜けて、数えてみたら昨日で12回目だった。

1 考える[1]
2 考える[2]
3 考える[3]
4 言葉[1]
5 言葉[2]
6 自分とは誰か
7 死をどう考えるか
8 体の見方
9 心はどこにある
10 他人とは何か

毎回、1章ずつを読み合わせて
感じたこと、考えたこと、
ぱっと思いついたこと、思い出したことを話してゆく。
いま、二巡目。
「考える」は3章、「言葉」は2章にわかれているけれど
一巡目の時は、それぞれ「考える」3章で一回、「言葉」2章で一回とし、あわせて読んだ。
二巡目は丁寧に、わかれた章ごとで話すようにしてみた。
一巡目の時は、なんてあっさりと終わっていたことか。

三人で話すと、まとまりよくおさまってしまう。
それはそれで心地のよい時間だった。
けれども、バランスがよすぎて対話に動きがない。
私たち三人の間に、考えの大きな差がなかったからだろう。

動きが始まるのは、均衡が崩れた時。
対話では、自分ひとりでは思いもよらなかった問いが投げかけられた時。

三人での対話から、6人へ。
そして、8名へと席数を増やした今回は
バトンがとてもいいタイミングで渡されてゆく場になったように思う。

沈黙の時間がほとんどなく
かといって、なにか急くような体感もなく
(まるで口を挟む隙ないほど行き交う言葉が過剰な場では、
長縄跳びのリズムにのれなかった時の事を思い出す。
私にはちょっとしんどい感じ。)
3時間、ずっと8人のままで話をしつづけられる場であったことが
なにより私にはうれしいことだった。

先の記事にも書いたが
哲学「philosophy」とは、知、智を愛すること。
「士希賢」(士は賢をこいねがう)という文言から希哲学と訳し、希が略され「哲学」に。
「哲」は
賢い : 物事の筋道が通っていること
賢い人 : 道理をわきまえている人
を指す。

「それってどういうことだろう」と考える、そのことがすでに哲学であり
その「考える」人の姿を私は愛している。



ところで。
5月から文京区主催のファシリテーター講座に通っているが
講座の中で、文京ミライカフェなる対話の場を一コマ企画する課題がある。
私はここでも「哲学カフェ」やら「哲学対話」を軸とするようなプランをあげてみた。
いくつもプランが上がった中で「キーワード : 哲学」に同意してくださった方がいて、
数名でプランニングしてゆくこととなったが
そのプランニングの場がまさに哲学対話になった。
題して、「そもそもなんやねん、哲学って」。

「哲学」という名前がイヤなんだという、
すでに哲学カフェを運営している方からの声があったり
「対話する事に何の意味があるの ?」という意見があったり。

私は単純に、すでに「哲学対話」や「哲学カフェ」などの場を持っている人たちを
つなぐような場になればなどと考えていたけれど
「哲学」という、なんだかとっつきにくい感じのすることばを軸に
あーだこーだ話せるといいんじゃないということになりそう。

先日の哲学プラクティス連絡会の中でも幾度となく
「哲学対話」と「対話」の違いは?
みたいなことが論議にあがっていたけれど
どこにでも「あの人のやっていることは本物じゃないわよ」
みたいな話があるのだなぁと思って聞いていた。

浴衣を着ていたら知らんオバはんに「あなたの着付けは間違っている」と
正されるような感じにも似ている。
確かにだらしない浴衣の着付けを見ると私も思わず顔をしかめそうになるが
私にとっての正しさを他者に求めると、窮屈なのは実は私だ。
着物離れが進む中、着物を着る楽しさを見出している人がいるということに
「いいね !」と言い合えるといいな。

この「着物」の部分を
「哲学」に置き換えてもいいと、私は思っている。
(さすがにひどい着崩れをおこしていたら、お直しの手伝いはするがな)


みんな、自分の好きなことをやったらいい。
自分のしたいようにすればいい。
(これは、あれですよ。
「私は好きにした、君らも好きにしろ」ですよ。
シンゴジラを見た人にしかわかんないネタだけど <(_ _)>)

そうしていれば、間違いを指摘することはどうでもよくなる。
「あなたもしたいようにやってるのね」
それでいいじゃないか。
「私はこうしてます」という人の姿をみていたい。


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