空模様

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Posted by チエ on  | 

久高島へ渡る

IMG_8356.jpg

沖縄の久高島を訪れてきた。

この島を訪れに至った話はここにおさめた。
久高オデッセイと地下水脈と私の課題

いつか行きたいと思っていたら、相方が学会発表で沖縄へ行くという。
それならば久高へいこうという話が、あっという間にまとまった。
あまりにもトントン拍子で、驚きつつも
扉開いたという気持ちもあった。



久高島で出会った人が「今はながれの変わるとき。
自分たちのいきている間にみることはなくても、あたらしいものがまたうまれくる。
今はそのはざまにいる。めばえはもうすでにある。それをただ見ているよ」と言っていた。
この話は、イザイホー(1978年を最後におこなわていない久高島の祭祀)の話からでてきたことだったけれど、
ここ数年でさらなる加速をともなって起こっていることとも同じ話だ。

今、また思い出すのは、内山節さんの
「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」。



この本で書かれていることについては、
2年ほど前、こちらに記した。




私自身のうまれながらにもった悲しみは、
自身の中にある地下水脈を掘り起こす術のなさを嘆く悲しみだったのかもしれない。
なぜ自分がかくも悲しみを感じるのか、よくわからなかったが
久高島を訪れて、やっとわかったような気がする。

おそらく、人のからだにふれること、人という存在について知ってゆくことは、
私自身にある地下水脈を掘り起こしたいという無意識のはたらきだった。
そして、まずは私の悲しみを肯定し、水脈を少しずつおもてに涌き上がらせてゆく過程だった。


予報では雨、よくて曇り。
私たちが訪れる前日までは雷を伴った土砂降りだったそうだ。
「島の美しいひかりを見せてください。お願いします」とこころの中でひそやかに祈った。
雨が美しいこともあろう。
私たちにとって適切であるならばと祈るだけだった。

R0011649.jpg

島の人が話してくださったことで私が受け取ったものについて、あらためて書きだしたいと思う。


スポンサーサイト
Category : 旅日記
Posted by チエ on  | 0 comments 

奇跡の人

赤さんをみていて思うのは、
自分でできないことを、人にやってもらうように仕向けるのがうまいな
ということ。
「この人はちゃんと構ってくれる」ということを見抜いている。

多分、ここでいちいち構わないという選択をおとながとらないと
泣いたり喚いたりすることで、他者は自分の言うことをきいてくれるんだ
って思い込んでゆくのだろう。


思い出すのは、へレン・ケラーとサリバン先生の激闘。

ヘレン・ケラーとサリヴァンの奇跡とは何か?
http://matome.naver.jp/odai/2137375074021312601?page=2

「奇跡の人」だったのは、サリバン先生のほうだったのかもしれない。
奇遇なことにサリバン先生の誕生日は、明日4月13日なのだそうだ。


ありのままに
というが、こどもを本能のまま、衝動のままにあらせるということが
大人にとっては、その実、こどもたちの衝動に立ち向かえない、向き合えない
逃げであるのかもしれない。

うちなる理性は内在されていて
その理性は、おとなの介添えによって、その子の表面にあらわれる。

本能と衝動だけでは、この世を生き抜くのは困難だ。
立ちはだかる困難にむかって、子は泣き叫ぶ。
感情的な衝動につきうごかされる。
そこを乗り切る知恵を与えるのが大人だろう。
躾と称しておこなわれることは、
本来、その子の自由を奪うものではないはずだ。
むしろ、自由に生きる選択をできるようにするものなのだと思う。


理性とは、後天的なものであるように思っていたが
実は、先天的に内在しているものじゃないかと思う。
理性的な人とは、感情を切り離して考えて行動を抑制する人
というような意味合いがあるかと思うが、その「理性的」とは違う。
本当は理性も知性も持ってこの世にいできたが
それはまだ内在しているだけで、あらわれてはいないものなのだろう。

(おそらく大部分の大人が知性や理性をいまだ内在させたままであるようだ。)

最近、気功教室の場には
赤さんも参加しており、私はその声に耳を傾けている。
見ないふりをしているが、実は全身で様子をうかがっている。

おとながこどもに教えられることもあるし
おとなの介助によって、こどもは理性や知性を発露させてゆく。

おとなもこどもも、互いに補完しあう関係なのだなぁとあらためて思う。

IMG_8157.jpg

友の孫。いつもいろんなことを教えてくれる。

「人が存在する」ということ自体が奇跡だ。

Category : いつものこと
Posted by チエ on  | 0 comments 

リリーのすべて

danishgirlposter.jpg

実話をもとにした映画。でも、事実とは少し異なる。

主演のふたりがとくにすばらしい。
またまわりのキャストもひとりひとりについて言及したいほど。
ひとときも目が離せず、涙がぼろぼろとあふれた。
映画についての批評を観賞後見たが、事実がどうであれ、私にはいいかな。
映画をこれからみるという人のために多くは書かないでおくが、合点がいかない点もある。

なにもかもがただただ美しい。
この世界は美しいのだとあらためて思う。
水滴がぽとぽととたれおち、できた波紋に心身をたゆたわせる映画だった。

本質でいきろ、という意味で、私にとっては「かぐや姫の物語」や「アナと雪の女王」にならぶ映画。

http://lili-movie.jp/

Category : 映画
Posted by チエ on  | 0 comments 

死と生きる 獄中哲学対話



池田晶子氏と、1998年死刑判決をうけた恩田真志氏との往復書簡集。
のちに何度も「易しくなかった」と池田さんはいろいろな書き物の中で
こぼしておられるが、まさしく真剣での斬りあいであり
身を、いのちを削って、ソクラテスとプラトンのごとく
「善く生きよ」と強く訴えかけている。
「良いと善いは違う」と。

陸田氏は、一審において死刑を受け入れ上告しないとしていた。
しかし池田さんが「控訴せよ」と伝えた。
単純な命乞いではない。
悪を悪とも思わずに、悪事を働いてきた陸田氏は
独房に入ってはじめて「自分がしたことは悪だった」と気づいた。
そして池田さんに手紙をしたためたのがはじまりだった。
池田さんは、陸田氏が獄中で知り得たことを、他人にも知らしめるべきだとして
もっと考えろ、魂を言葉にしろ、そのための時間をのはぜと訴えた。
そして、往復書簡が展開されていく。



いいもわるいもない
とよくいわれるが、
万人に同じ「良」がないだけで
ひとりひとりのなかに「その人にとっての良」があるはずだ。
そして、その良をなすことが「善」である。
ただし、「金銭的な良いと精神的な善いは違う」。

そのことを、「わかろうとしない者にはわからせる事はできない」と池田さんは斬る。
だから、反感も喰らう。
わかろうとしない大衆から。

P.28
「言ってもわからない」とわかっているのに、それでも私が書いているのは、
あなたのような人がひとりでも増えるよう、それ以外ではありません。
ほかに理由はありません。そうでなければ何もしないほうが、よほどましだからです。
私にとっての「善く生きる」とは、このこと以外ではないのです。

二千五百年後のあなたが、ソクラテスに共感することができたのは、
彼が、善く生きることを自ら示してみせたためだということ。
そして、プラトンという人が、そのことを書いて残したためだということ。
示し、書き、残さなければ、善く生きるということを、人に伝えることはできないのです。
そして、善く生きるということは、明らかに、そのことを「人に伝える」ということを含んでいるのです。





P.141
なるほど最終的には、真理は言語を越え、「あるがまま」ではありますが
理知には理知ゆえの使命があり、それが他でもない、我々がしているところの、
この「言語による真理の表現」です。
音楽も絵画も、それが本物であるならば、必ず同じ「それ」を表現しようとして
為されていますが、しかし、言葉には、音楽と絵画とは決定的に違うところがあります。
それは、思想を人に伝え得る、というこのことです。
音楽や絵画は、人に感動は伝え得ますが、思想を伝えることはできません。
あれらが、直接に人の行動を左右されることがあるかのように見えても、
それは必ず一度、言語化の過程を経ているはずであって、
ベートーベンの音楽によって戦争が起こった、ピカソの絵によって革命が起こった、
ということは絶対にない。人を行動へと駆り立て、戦争や革命を起こすことができるのは、
必ず、「思想」、すなわち「言葉になった考え」だけなのです。
それは一行のスローガンであることもあり、たった一語の単語である場合さえあります。
生かすも殺すも言葉のみ、音楽や絵画によって、人は生きたり死んだりしません。
だから、言葉を大切に扱うことを、くれぐれも心がけて下さい。
せんだって、いわゆる「批評家」という人たちについて、あなたも指摘していましたが
じっさい、あの手のものは、ちゃちな自己顕示欲である場合がほとんどで、
ああいうところに本物はいません。
「愛」なしに批評なんてものが、可能であるわけがない。
他人を叩くくらいの目的で、大事な言葉を使うなど、
言葉を愛していないことのまぎれもない証拠だからです。
なんでそれで「言論人」なんでしょうか。
あなたにもまだ、若干ですが、その傾向が残っています。
「被害者の生命とともに書く」という覚悟なら、最終的に人に届くことができるのは、
愛のある言葉だけだということを、しっかり肝に銘じておいて下さい。




引用が長いが、この引用は
のちのち読み返す時のため。
そしてまた、私自身に届けられている言葉だとも感じるためだ。
とくに以下の部分。


P.142
「愛が大事」と申しましても、あなたも言うような、そのへんのディスカウントショップで
投げ売りしているようなものでなければ、あなたの居る「独房」で
いかにしてこれを維持し得ましょうか。
ただでさえ極端に頭の人なのに、いかにして情理のバランスを保ち得ましょうか。
あるいは、動植物との交感とか、自然への畏敬といった古い感情を思い出すことなど。
あなたが自覚的にそのように努めるという、そこに全てはかかっています。
達磨禅師や荒野のキリストという例もあります。立派すぎるということはありません。
先人に可能だったことは、必ず我々にも可能です。
がんばって下さい。
やり遂げましょう。





「生かすも殺すも言葉のみ、音楽や絵画によって、人は生きたり死んだりしません」
という一文に反感を覚える人もいることかと思う。
私もはじめはかすかに抵抗を感じた。

けれども、こういう時に思い出すのはいつも「46年目の光」というノンフィクションのこと。



マイク・メイは3歳で視力を失った。
46歳のとき、幹細胞移植という手術を受け、視力を取り戻すことができた。
けれども、彼には何も見えなかった。
網膜に刺激が届いている。
実際には、目には映っている。
けれども、それらを認識できない。
彼がみるものは、光が散乱する混沌とした世界だった。
光の散乱、ノイズ。
それをカタチとして認識できるのは、これまでの脳の学習あってこそ。
学習により、あらかじめ予期しているから。
「こういうものだ」という脳の認識=信念が、
目に映るものをカタチとして私たちにみせている。

脳の認識をいい換えると「言語化」となるように思う。
「からだを経る」とはこのことでもあろう。

IMG_8243.jpg


池田さんは2007年に腎臓がんで亡くなっている。
陸田氏は2008年に刑が執行された。
刑を受けるに際して「池田さんのところに行けるのはこの上もない幸せです」
という言葉を残したそうである。

ことばについてあらためてかんがえるきっかけになった。
お二人のやりとりに深謝するばかりである。


考えるということは、精査をあげること。
無意識を意識にのぼらせてゆく。
無意識のその深層こそ、私の源である魂なのだから
言葉も魂なのである。
そう気づけば、適当な(思ってもいない)ことは言えない。

(何度も何度も考えて、本能のままに書き出していって、精査をあげるんだよ。
「思っている」だけでは、あがらない…)

Category :
Posted by チエ on  | 0 comments 
該当の記事は見つかりませんでした。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。