空模様

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Posted by チエ on  | 

読書と対話の会

読書と対話の会、次回は
4月9日10時から富士見台にて。
参加費は500円。
お茶とおやつを用意しています。

「14歳からの哲学」第9章 心はどこにある
を読みます。

8回目になります。
毎回、さまざまな面々が集い
本当にいい場になっています。

「哲学」というと、むずかしそうとか近寄り難いというイメージがあるかもしれません。

私は幼い頃から、死ぬのってこわい、でも死ぬってどういうことだろう
というようなことを考えるのが好きでした。
長らく「死」について考えてきましたが
最近は「生きている」ということについて考えています。
気功をはじめてから、からだを動かすためのチカラや
躍動する細胞の感覚を追っていくうちに
生きていることの不思議、自分が存在するこの宇宙のことに
想いを馳せるようになりました。

からだに携わる仕事をしてきたし、まわりにも治療家やセラピスト、ボディワーカーが
たくさんいたので、「からだ」の話をする機会はありましたが
「生きる」そして「死ぬ」不思議についての話をすることはできずにいました。
私自身もまだそれについて語るためのことばをもちあわせていなかったからだと思います。

学校に通うようになり「考えを語ること」の必要を感じ、
探して見つけたのが「哲学対話」という場でした。
しかもご近所で。
http://msentalife.wix.com/entalife#!nerietsu/c1tv6

ブログを読んでくださっている方が、近所でいいもの見つけるよね
と話しかけてくださったことがありますが
基本的に私は、できるだけ徒歩圏で自分にとっていいものを見つけたいという気持ちがあります。
一度きりとかたまにならば遠出もありですが、継続したいことならばなおのこと。
ありがたいことに、ちゃんとあるんですよね。


池田晶子さんの本を読んだ時に感じたのは、
ああ堂々と「生きる」だの「死ぬ」だの「宇宙」だのの話をしている人がいる!
こんな話してもいいんだ!
こういう話ができることを哲学と言っていいんだ
ということでした。

私はこういう話を、だれかとしたかっだのだとようやく自分で自分がわかりました。

そして、場を開いてみて思ったのは
案外、同じように話したいと思っている人はたくさんいるんだなということ。
もちろん、たくさんといってもまるでメジャーではなく
私と同じように、話したくても話せないなぁと潜在的に感じていた人たち。

8回ひらいて、あと2回でひとまず一段落。


夏ぐらいから、この「14歳からの哲学」を使って
ケア対話の場を開いていこうと話し合っています。

そもそも対話とはなにか、ケアとはなにかという話からはじめて
集った方ひとりひとりが考えることを話ができて
存在を否定しない場を持っていきたいなと考えています。

門戸をたたくときは、少し緊張なさるかもしれませんが
無理に話すということは強要しませんし、
その場にいることをただ味わいに、ということでも構いませんので
ご興味があれば、是非一度ご参加くださいませ。
メッセージお待ちしています。

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仏教思想のゼロポイント



図書館で予約していたのがようやく手元に届いたというのに
この2週間はなんとなく本を読むことに着手できずにいた。
いよいよあさって返さねば!そしてこの本はこの後も予約がぴっちり入っているので延長できない!
ということで、あわててパラパラとページを繰った。

釈迦の言っていることと、仏教が指し示すことって
イコールじゃないな
(まぁ、それはキリスト教とて同じ…)
思ってきたけれど、そういう観点をまたあらたに指し示してくれる本。

仏教が輪廻転生を否定しているという説について。
私も大学で聞いて「そうだっけ」と思ったのだったけれど、
この本の中でも「『ゴーダマ・ブッダは輪廻を説かなかった』という結論は出しようがない」とあった。


仏教、とくに大乗と呼ばれるそれらあまたの教義はじつに多様なのだけれど
それについて明記してくれている本は、これまで読んだことがなかった。
(そこまで違うならなら「仏教」と名乗らなくてもいいのに、とニー仏さんは書いていた)
ゴーダマ・ブッダは「異性と目もあわせないニートになれ」と説いているのだが、
それがどうして人々に手を差し伸べるような教えへと転じたのという説明がわかりやすい。
仏教が世界宗教へとなるに至った由縁。


まだざっくりとしか読めていないけれども、
おおと思ったところは抜粋しておく。


P.175
渇愛を滅尽し解脱に至った者たちは、存在することを「ただ楽しむ」のである。
それはもちろん、「欲望の対象を楽しみ、欲望の対象を喜ぶ」ような、
執著によって得られる「楽しみ」ではなく、
むしろそこからは完全に離れ、誰のものでもなくなった現象を観照することによってはじめて知られる、
「最高の楽(paramam sukham)」と言うべきものだ。
対象への執着がなく、利益が得られるわけでもなく、
必要が満たされるわけでもないが、「ただ楽しい」。
そのようなあり方のことを、「遊び」と呼ぶことは許されるだろう。
仏教では、何ものにもとらわれない自由闊達な仏の境地を「遊戯三昧」と形容するが、
ここで言う「三昧」は、「集中」というより、「まじりけがない」というほどの意味。
つまり、解脱者たちの生きる時間は、その本質として、純粋な「遊び」であるということだ。
したがって、彼らの一部が利他行への実践へと踏み出すのも、もちろん「遊び」ということになる。
彼らは「必要」だからそれをするわけではないし、「意味がある」からそれをするわけでもない。
ただ、眼前の「衆生」と呼ばれる現象は、それが本来「公共物」であることに気づかずに、
「それは私のものであり、それは私であって、それは私の我である」と考えて「世界」を形成し、
自縄自爆の苦しみに陥っている。
解脱者たちも、かつては凡夫であったがゆえに、それが彼らにとっては「事実」であり
「現実」の苦として作用していることをよく知っているから、それを「ただ助ける」ことにするのである。
「ただ助ける」というのは、解脱者たちには行為の対象である衆生に対する執着がなく、
「物語の世界」を実体視してもいないがゆえに、それは意味も利益も必要もなく、
「ただ行われる」ということ。
したがって、それは「遊び」である。

P.177
そして、解脱者たちの「遊戯三昧」は、子供の「遊び」よりももっとまじりけがない。
(略)彼らの生きる時間はその全てが純粋な「遊び」であり、
さらに巳自身も含めたあらゆる現象が「公共物」であることを徹見してもいる以上、
彼らは利他の実践のために、場合によっては自分の命も「芻狗(すうく・神前に供えるわら細工の犬)」
のように捨て去ることを決して厭いはしないのである。
彼らにそれができるのは慈悲の行為が彼らにとって「遊びではない」からではなく、
むしろそれが、「何かそれ以外の大切なもの」を別のどこかで確保しておくことの全くない、
純粋な「遊び」そのものであるからだ。





P.159
涅槃(nibbana)の原義は(煩悩の炎を)「消すこと」だとされるが、
まさに火が消えるように、その時には対象と観察、即ち、継起する現象の認知が消失してしまう。
現象の認知がないのに、「経験」があるというのは理解の難しいことだし、「推論の領域を超えた」ことだ。
だから、その「経験」の内実について、言葉で語ることは不可能である。
ただ言えることは、それが起こった時には、煩悩の炎が実際に消えてしまうということだけだ。



ゼロポイントとは、ここのことだ、と。
ゴーダマ・ブッダがこの経験をしたことが仏教の始点だ、と。


ゴーダマ・ブッダは「異性と目もあわせないニートになれ」と説いている。
それがどうして人々に手を差し伸べるような教えへと転じたのかという説明がわかりやすい。
仏教が世界宗教へとなるに至った由縁。

http://mainichi.jp/articles/20151215/dde/012/070/013000c



(インドの数学における「 0 (ゼロ)」をあらわすシューニャ、
そしてシューニャは「空」をあらわす。
唐突ですが、ばあちゃんちもひきつづき「空」という屋号にしようとおもって〼)

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いただいた沈丁花。あまいながらも、ほんのかすかに柑橘様の爽やかさのある香り。

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ただ、そこにあること 〜練馬・気功のひろばより〜

月に一度ずつ、練馬と杉並で「気功のひろば」と称して、
からだをゆるめる場をもっています。

昨日は、脊髄損傷のため車いすに乗った方がご参加くださいました。
友人のFB投稿を介して「気功のひろば」のことを知ってくださり、
なんとなく「できるかも」と思ってきてくださったとのこと。私は、その気持ちが本当にうれしくて。

「私がしたい」「私がそうする」ということについて、あらためて思い出したことがあります。
京都に住んでいる頃、通っていた気功講座にがん末期の方が、看護師さんやご主人の付き添いのもと、
移動ベッドに乗ってこられました。
「寝ているだけで、みんなと同じ動きができるわけではない。なんにもできない」
というように他者の目からはみえます。
でも、その人は全力で「その場にいきたい」と望んだのでした。
そしてその人が「そこにいてくださる」ことは、
その講座の場に集った人たちにとっても、ありがたく尊いことでした。
その方は、それからほどなく亡くなられましたが、
その方の想いを知ることで「そこにいる」ことの大きさ、
かけがえのなさを感じられたことが、なによりのまなびでした。

幼い頃から優劣をつけられ、評価されたりしたりすることに慣れてしまった人は
「できないこと」にばかり目を向け「私には無理だ」「私ってダメなの」と無意識に口にしてしまうけども、
(また、自分にだけではなく、他者にもそういう評価を与えてしまうようになります)
「できること」「すでにあること」に目を向けるように意識をあらためて持っていきたいものです。



なにより大切なのは、だれに遠慮することもない「私がそうしたい」という想い。
昨日の気功のひろばは、
ハイハイをはじめた一歳児はみんなの輪の中を動き回り、
約90歳は「耳が遠くて、聞こえないんだよね」と終わり間際で言い、
車いすに乗った方も「最近あまりねむれてなかったのですが、
はじめうとうとと寝てしまったみたい」とのこと。
みんなしたいようにすごしてくれてなによりでした。

「ただ、そこにいること」が「できること」の究極なんだと思います。
「そこにあること」を喜びあえること。
ひとりひとりが「場」なんだなぁとあらためて感じた次第です。


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練馬・杉並 気功のひろば
http://slowbodyqoo.blog110.fc2.com/


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素粒子の心 細胞の心 アリの心 其の二



昨日、書き出したこの本からの引用の部分。
http://soramoyo.blog43.fc2.com/blog-entry-782.html

わかりやすく書くとこんな感じになるかな。

人間は、時々パッと頭上に電球が灯るがごとく新しい閃きを得て、
そして今までにないなにかあたらしいものをうみだしてきたけれど
きっと生命も、宇宙にあるこころの閃きからうみださてきたんじゃないかな。
そう考えると、5億年前に起こった「カンブリア紀の大爆発」と古生物学者から呼ばれるような
それまでの生態系からは考えられない、ダーウィンの進化論では説明できない
まったく異次元の生物の誕生も腑に落ちるよね。

まぁ、そういうのってまったく荒唐無稽に聞こえるかも知んないけど
人の、あの電球がパッと灯るかのような閃きだって、だれにも説明できないことだ。
なんであんなことが思い浮かんだのかなんて、それこそだれにもわかんないことだ。

ってことから、

宇宙がそうであるから、人間の営みだってそうなっている
といったほうが正しいのかもしれない。




なんにもないところから、うまれる。

もっかい書くけど
老子はこう言ったそうだ。

そのはたらきは時間空間を超越して止むことがない。これが天地の母である。
この物は、限定できないから、名づけられない。かりに名づけて「道」と呼ぶ。
「道」は天地に満ち満ちていて、四方八方くまなく行きわたっている。
万物は、「道」のあらわれとして生ずる。






この本はフィクションとなっているけれど、今あらためて読むと
「素粒子の心 細胞の心 アリの心」と同じようなことが書かれているように思えて、おもしろい。

P.298
生命の発生をハプニングとしてとらえるあなた方のその生命観は、
生命の重みを宇宙に求めることを不可能にさせている。
宇宙の中にたまたま存在した物質が偶然に結びついて生命を生じたとするその認識は
一個の生命発生と成長しか知らない者が、そのブログラム(遺伝子)を無視し、
個体の成長のすべての課程を偶然のハプニングと見なしているに等しい。
空間とは最初から別種である物質と物質が結びついた偶然の結果として生命が生じる…
空間と物質とを切り離すあなた方の宇宙観は、宇宙の生命不能な現象に対し、
最終的には偶然という神を持ち出すしかない。
しかし、真実は、そこに偶然というものを挟み込む余地はないのだ。
秩序という秩序のすべては、最初から空間というこの宇宙の本質に秘められているのだ。



P.301
意識とは、偶然に突如として発生したものではなく、物質が空間そのものであるように
宇宙とは意識そのものの存在であり、我々は最初からその中にいるのだ。


P.306
人間の意識は、その本源に出会い、触れ合うたびに豊かさを増すのだ。
その奥には、あなた方の想像も及ばない至福の領域がひろがっている。


P.316
人間は、真の本質に繋がらない限り、才能も自信も生まれはしない。
確かに褒められて自信がついたり、逆にけなされて自信を失ったり、
外界に左右される不安定な自信は、宇宙から切り離された自尊心にすぎない。
しかし、巨大な愛から生じるそれは、ゆるぐことのない宇宙の意識そのものだ。
真実の自信と、その自信から生まれる信念は、
必ずこの宇宙にあらたな世界を誕生させるだろう。



池田さんの「14歳からの哲学」から問われていることともつながってくる。
「思うこと」のその先、「考える」「感じる」。

どこまでも「私」が「考えていること」をずっとずっと追っていきなさい。
すぐにだって、いつだって宇宙を旅できるわよ
と池田さんも書いていた。


ユングのいう、意識と潜在意識と集合意識。
宇宙までつながっている
というか、いつだって宇宙の意識からはなれたことないし
宇宙の意識そのものですよ
ってことだな。


気功も、そのことにあらためて気づくためのツールなんだと思う。
いやー、今までやってきたことと読んできたものが
そういうことかと全部つながった。
そのヒントをくださったのは、Cさんだったなぁ。

いや、とはいえ
やはり私も知っていたのだ。
だって、学びとは、もともと知っていることを思い出すことなのだから。



まだまだ続きます。

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どーしよー、ヤバいよー!オカザえもん〜!
だいじょうぶ、ヤバいのはキミの方だろ(笑)


昨日は、「this is it」だったけれど
今日のテーマソングは「Starman」よ。






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素粒子の心 細胞の心 アリの心



5億年前、カンブリア紀に地球上のさまざまないきものが一斉に誕生したことを
「カンブリア紀の爆発」と古生物学者は呼ぶそうだ。
果たして、生命は一直線上に進化してきたものなのだろうか。
「素粒子の心 細胞の心 アリの心」という本の中では、
「カンブリア紀の爆発」の史実をもって、ダーウィンの進化論に疑問が呈されていた。
本の中身を数行でまとめるとすると、
 空間の壁を越えて、人類が一斉に現生人へと変化する、
 その生命の進化、生物の進化は、統合力の進化におっている。
 宇宙は生命体であり、時空を超えた世界に存在する統合力の働きを有しているゆえに。
という感じであろうか。

この本の著者は、KDD(現在はKDDI)で光ファイバーの研究をおこなっていた人だ。
科学者による本ではあるが、科学的な話とはほど遠く思えるかもしれない。

みかんの入っていたネットをくるくるまわしてりんごをかたちづくる。
mikan.jpg
そう、これこれ。

おもてだと思っていた部分がくるりと裏返しになる。
科学も、こんなふうにどこかでくるりと転位するものだろうと思う。


人間の創造性は、ある時は自然の営みをヒントに得、ある時は、必要性から、様々なものを創りだしてきた。
何かのきっかけで車輪を作り出し、ボールベアリングを作り出し、
蒸気機関を生み出し、こうしたものを基にして、車や汽車を作りだしてきた。
そうした部品を基にして、新たな車、新たな機械、新たな道具が次々に生み出されることになった。
そして、新たなイメージが生まれてくると、そのイメージを基にして、
既存の部品を組み合わせて、新たなものを生み出すというのが人間の創造活動である。(P.266)

先に述べた統合力の進化による新たな生物の誕生は、上で述べた人間の創造の営みと
基本的には同じことをしているのではないだろうか。いや、逆に自然の営みがそうであるから、
人間の創造の営みがそうなっているといったほうが正しいのかもしれない。(P.267)

ただ、人間の創造的営みを自然に置き換えようとすると、多くの人は、
自然が人間のような創造活動をしているであろうかと、疑いの目を向けるであろう。
でも、その人間の行っている創造的営みを少し深く掘り下げて考えてみるならば、
そこには、理屈では解明できない、突然の閃きと、
その閃きが全体で一なるイメージとして現れてきていることがわかるであろう。
人間は、そのイメージを概念世界に描き出し、それを意識と結びつけることができるから、
道具や機械を生み出すことができるのであって、イメージそのものの創出に関しては、
自然の内に秘められた創造性に任せるしかない。
すなわち、そうしたイメージの創出は、人間の意志の関与できない世界にあるということだ。
そして、人間に創造的営みができるということ自体が、この宇宙の根源に、
創造性を生み出す基盤が秘められていることの証しでもある。(P.268)



そして、以下のことは極めて重要なことであるが、
そのように新たな統合力が、統合力を内に秘めた素材を全体で一つのものに自律的に統合させているから、
そして、そうした統合力は生命体の意志と直接関わるものであるから、先に見たように、
一つの意志によって、体中のすべての細胞が一斉に
その思いを実行させるように調和的に動くことができるのである。(P.269)




「立つ」ことも動きであるが
あたりまえに立てているから、なかなか気づけない。
「立つ」という動き(一見、なんの動きもおもてにはみえないが)も
望月さんのことばを使うと「統合力」のなせるわざである。
目をつむって立ってみるとよくわかる。
うちがわで、バランスをとりつづけているからだのことが。
細胞たちが一斉に、「立つよー」とチカラを出し合っている図が浮かんで
立っているだけでも感動的な気持ちになる。


人間が自然の営みを分析し、その真理に近づけるということは、
自然の法則そのものが、すべて人間の心の深層に書き込まれているからなのだ。(P.293)



数学を表すmathematicsの語源μαθηματα(マテーマタ)には
「すでに知っていることを学ぶ」という意味があると聞いた。


成功するためのセミナーも、みなだいたい同じようなことを言っている。
「こたえは自分の内側にある」。


老子はかく言う。

そのはたらきは時間空間を超越して止むことがない。これが天地の母である。この物は、限定できないから、名づけられない。かりに名づけて「道」と呼ぶ。


「道」は天地に満ち満ちていて、四方八方くまなく行きわたっている。
万物は、「道」のあらわれとして生ずる。




望月さんは、「統合力」ということばを使っていたが
これをこそ、本来「愛」と呼ぶ。
(エロスではなく、アガペー)
しかし、「愛」ということばは、その源からはなれやすいので
私も「それ」としか言いようがない。



えっと、この話は一回では書き出しきれないので次回へと続きます。


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路上より

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友人に声をかけてもらい、ひとさじの会に参加した。
路上で暮らす人たちへ、おにぎりと救援物資を手渡す、そのお手伝いに。
http://hitosaji.jp/muscat1b/categories/94194/

学校からの実習をきっかけに、山谷へ赴くようになった。
山谷は、大阪でいうと西成のような地だと書けば関西の人たちにも伝わるだろうか。
高度経済成長期にはここを拠点に労働者たちが集った。
かつての労働者たちは年をとり、生活保護を受けながら通称ドヤとよばれる簡易宿泊所に暮らす。
こぎれいに改装されたドヤは、最近では海外からのバックパッカーたちに人気らしい。

山谷は、歴史的に興味をひかれる地だ。
最寄りの南千住駅界隈は、江戸時代には刑場だった。
受刑者を弔うために建立されたという首切り地蔵も
駅からほど近い寺院に残されている。
このあたりを掘りかえすと今でも人骨が出て来るそうだ。
そして、南側は吉原、遊郭跡地。
山谷は、死と性にはさまれた街だ。
こういう場所に私は魅かれる。

おにぎりをつくったのは光照院(ちなみに山友会のお墓がある寺院でもある)。
最近、法然さんのことをしらべる機会もあって、光照院が浄土宗であることにあらためて縁を感じる。

三升のお米を6釜分炊き、味を付けて小分けして、みんなでいっせいにラップでくるんでいく。
毎回、200個以上つくっているそうだ。
ベトナムからきた留学生たちは揚げ春巻きをつくっていた。
この日は海外からの留学生たちがたくさん集い、活気に満ちていた。
しかし、数人しか集まらず、人手がまったく足りない日もあるそうだ。
靴下やカイロ、風邪薬などを仕分けしたのち、念仏を唱える時間を持った。
その後、グループにわかれて、隅田川沿い、上野、浅草界隈を歩き、
路上に暮らすひとりひとりへ手渡していった。

ブルーシートと木材でりっぱな小屋をつくって住んでいる人から、
段ボールを解体して小屋にしている人、手荷物一つでただベンチに座る人。
得体の知れない、どこか不気味に思っていた人たちが、
ただ力なくうずくまる人たちとしか映らなくなった。
ごくごく普通の人たちだった。

最終的な集合は、浅草の吾妻橋。
余ったから持って帰ってと受け取ったおにぎりを、池袋の地下にいた人にあげられたらと思った。
今までどちらかというと避けるようにしてきた人たちだったが、
もはや話しかけるのは、むずかしいことではなかった。
横になってた人はおきあがって「いいんですか」と受け取ってくださった。
その人は、ラップにくるまれたおにぎりを開いてにおいを何度も嗅いでいた。
あやしいものじゃないかの確認か、まずはにおいから味わっているのか。


震災が起こった頃は、だれかの悲しみにふれるたびにどうにもできない無力を感じてつらかった。
今は、違う。だれかの悲しみをわたしがどうにかすることはできない。
その人にしか、引き受けられないもの。
人が自由であることは苦しみを伴う。
神は手を貸したり、指図もしない。
人が自由に生きるとは、そういうことなのだろう。
生きることは、その人自身にしかできない。

物理的にではなく、精神的に
横に、もしくはその人にはみえないところで、ずっとその人のそばにあって支えている。
わたしの存在は知らないままでいい。
かなしむ私と、そこにただともにいるだけの私とがある。
ずいぶんと胆力がついた。



そこへいきたいという私の魂に気づくきっかけになったのは、
遠藤周作さんの「深い河」と「沈黙」だったが
2年の課程を終える時、やはり大切にしたいのはここだと再確認させてくれたのは
遠藤さんが「戦友だ」と言い合っていた井上洋治神父の本と、
遠藤さんと井上さんとも交流のあった山根道公さんの本だった。

  「主よ。あなたがいつも沈黙していられるのを恨んでいました」
  「わたしは沈黙していたのではない、一緒に苦しんでいたのに」
  「しかし、あなたはユダに去れとおっしゃった。去って、なすことをなせと言われた。
   ユダはどうなるのですか」
  「私はそう言わなかった。今、お前に踏絵を踏むがいいといっているように
   ユダにもなすがいいと言ったのだ。お前の足が痛むようにユダの心も痛んだのだから」

ここではじめてロドリゴは、長年の疑問であったキリストのユダへの言葉の真意をキリストから明かされて悟るのである。すなわち、キリストのユダへの言葉が決して憤怒や軽蔑からのものでなく、人間の弱さゆえにもうそうするしかどうしようもないといった状況に陥ったユダの苦しみに対して、その痛さと苦しみをともに分かちあう愛から出た言葉であり、決してユダを突き放すような「去れ」という意味ではなかったのだということを悟ったのである。(P.334)

聖書において生前のキリストが何故に美しさも価値もない色あせた襤褸のような人たちを探し求めてその友となったのか、まったく無理解だった弟子たちが命惜しさにキリストを見捨てて見殺しにする体験を通して自らの弱さや惨めさを痛いほどに知らされ、自らも弱い惨めな人間であり、生前のキリストのまわりにいた色あせた人たちと同じであることに気づくことで、はじめて生前のキリストの行いや言葉の真意を理解するようになってゆく課程と重なろう。(P.336)

遠藤周作 その人生と『沈黙』の真実/山根道公著


 

昨日の夜は、雨上がりでなまあたたかく、しっとりとしたもやが街を覆っていた。
スカイツリーは夜の闇の中でぼんやりと浮かんでいた。
夜の街を歩くとしみじみ自由だなぁと思う。

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Category : いつものこと
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