空模様

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Posted by チエ on  | 

沈黙の声 - 遠藤周作 その人生と『沈黙』の真実 -




学校の図書館で借りた本。

はじまりは、20代前半。
就職して間もない頃に読んだ「深い河」だった。
私自身にある水脈をたどる旅のはじまり。

この人が生きて、私の眼前にいたならば
きっと受洗していたのではないかと思う。
キリスト教遠藤周作派において。


キリスト教伝来の歴史に、血が騒ぐ。
2年前、合格の知らせを受け取って
長崎にまたいかなくちゃと、小説の舞台を歩いた。
http://soramoyo.blog43.fc2.com/blog-entry-672.html

あの時の気持ちにまた戻る。
私が戻ってくるのはここだなと思う。

311の震災で「神も仏もない」と言った誰かのことば。
神がいるのならば、なぜ黙っているのか。
私自身も、そう切実に感じたところからの学びだった。


同じところに戻ってきたようで、でもまるで違う。
「沈黙の声」を、私もこの2年間で実際に聴いたのである。

P_337
ロドリゴは、小説の展開とともに神の沈黙とキリストのユダへの言葉という信仰上の二つの疑問に対する切実な想いをつのらせ、最後に踏絵に足をあげた痛みのなかで、踏絵のキリストの眼差しが訴える「私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう」という思いの込められた「踏むがいい」という言葉を聞く体験をする。そしてロドリゴはその踏絵体験を噛みしめつづけ、五年の歳月を費やして、「やっとわかった」とその言葉の真意を悟るようになるのである。すなわち、踏絵のなかのキリストの眼差しが訴えた「踏むがいい」という言葉は、神が沈黙していたのではなく、いつもともに苦しんでいたのであり、キリストのユダへの言葉は、人間の弱さゆえにもうそうするしかどうしようもないといったぎりぎりの状況に陥ったユダの苦しみをともに苦しんでいるがゆえに発せられた愛からの言葉であったのだということを心の底から納得し、キリストが愛そのものであったことへの信頼を確かなものにするのである。そして、ロドリゴ自身がその母のように人間の苦しみを共にするキリストの愛と許しの眼差しを、今度は自分をユダと同じ裏切り者、転び者として苦しんでいる者に、とりわけその代表であるキチジローに伝えてゆく使命を、この国の「最後の切支丹司祭」として自覚のもとに担ってゆくのである。



P.377
作家遠藤が死と向き合う病床における信仰体験によって、そうした人間の苦しみを共にする母性的な神の愛の顕れである地上の事物もまた人間の苦しみを共にしてると実感し、それを感じる新たな眼を得て書いた「沈黙」は、父性的な神の義の顕れを地上の事物に求めることで地上の事物の沈黙とそれに重なる神の沈黙に苦しんだロドリゴが、踏絵のキリストの眼を通して人間と共に苦しむ母性的な神の愛に出会ってゆき、最後にはその神の愛の顕れである地上の事物も共に苦しみ、〈沈黙の声〉で囁いていることを知ってゆく物語であるともいえるだろう。そして、それはこの日本の汎神論的風土においてキリスト教作家であろうとする遠藤が西欧の作家とは違う方法で、すなわち日本の汎神論的自然の背後にキリストの共感のまなざしを重ねるという自らの病床体験で得た独自の方法で日本の自然とキリスト教的世界を結びつけようとした試みの一つの結実であったということができるのである。

(ここでいう「日本の汎神論的自然の背後にキリストの共感のまなざしを重ねる」という日本的感性に根ざした遠藤のキリスト教的感覚は、神と自然との絶対的断絶を強調する西欧キリスト教の一神教的自然観とは隔たりがあろうが、自然(被造物)を神性の現れとする意識の強いロシア正教など東方キリスト教のパンエンティズム(汎在神論)的自然観とは通ずるものである。ちなみにパンエンティズムとは、自然そのものをそれを超えるものと区別しないまま神と見なすパンティズムとは違い、すべてが神のふところのなかに生き、動き、存在しており、なにものも神から離れては存在しえないとパウロがいう(「使徒言行録」十七章二七、二八節)ような神と被造物の捉え方である。)




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見つめる

昨年7月に亡くなった大重監督の「光りの島」と「久高オデッセイ第三部風章」を見に行ってきた。
去年、学校で上映会が行われた時に、
http://soramoyo.blog43.fc2.com/blog-entry-757.html
シスターが「光りの島」の話をされたのを聞いて、これはみなければと思っていた。

学校で上映会が開催された後、東京自由大学で
第一部結章、第二部生章の他に
比嘉康雄さんの遺言を残した記録映画「原郷ニライカナイへ 比嘉康雄の魂」、
大重さんのことばをのこした「友よ!大重潤一郎 魂の旅」
が上映された。

はじめは
一日に二本映画をみるのはちょっとしんどいかも
とか、久高オデッセイだけでいいかも
などと思っていたが、実際、ことさらに胸に響いたのは
久高オデッセイではなくて、いずれも同時上映されたほうの作品だった。
すべて通してみてから、また第三部にあらためて戻ってこられて
私としてはなによりな出会い方だった。

シュハリのホーキさんのご縁で
上映会後の飲みの場にも参加させていただき
映画製作に携わってきた方々のお話も伺えたこともありがたかった。

カメラマンである堀田さんの話がまたよかった。
「見つめること、見つめつづけること」。
その場にあるみえないもの、きこえないものが映像に映り込む、
そこに必要なことはと問われた堀田さんから出てきたことば。
五感とともに、「見つめる」。


「たちのぼってくるんだ、魂みたいなものが」

堀田さんがおっしゃったことばなのか
それとも大重監督がおっしゃったことばなのか
それとも、大重さんに感応した誰かのことばだったか。


折しも、その前日は読書と対話の会で
「自分とは誰か」という章を読んで話し合った。

まわりにいる他者によって、浮き上がる「自分」とは
ホログラムのようだなと私は感じていたのだけれど
さらに映画をみてみなさんの話を伺った後は
映像も、それぞれ「私」が「私だと思っているなにものか」とも似ているなぁ、
いや同じだと言ってもいいかもね、とにんまりしていた。


ホログラム、こんな感じ。



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東京自由大学のある神田に向かう電車のなかでみた中吊りにこんなことばが。

いのちを考えること、その源泉について考えることは私にとって普遍的なテーマ。
最近はことさらに、みるものきくものすべてから
同じことをいわれつづけているように感じている。






Category : spirituality
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嫌われる勇気、とは。



さて、今日のブログタイトルはこの本から。

よく本屋で見かけてはいたけれど、自己啓発本だと思って敬遠していた。
前回のブログに書いたアドラーの個人心理学をとりあげた本である。


「アドラーの個人心理学は
自分と徹底的に向き合い、自分の頭で考え、
自分の足で前に進む『精神的マッチョ』を目指すものであろう」
と書いている人がいた。たちどまってしばし考えてみる。

「弱さ」や「繊細さ」みたいなのを重視し、
それこそを大事にしたいと感じている人には受け入れがたいものがある、とも。
http://b.hatena.ne.jp/entry/tyoshiki.hatenadiary.com/entry/2014/07/08/180324




まだアドラーのことはよく知らないけれど
私はおそらくアドラーが言わんとすることを実践してきた。

自分で自分をみる
ということは、ものすごくつらい。
私ってひどい
ってことをあらためて知った時の途方もなさをよく覚えている。
いい人だと思いたかったけれど、
人のことをどうこう言えないぐらい、ひどい。
できれば見たくなかった。
反吐が出そうだった。
けれども、精神的サディズム、マゾヒズムを
私は持ち合わせているらしく
日記にぐりぐりと自分のことを書き出していくことに
たのしみ、おもしろみを覚えるようになった。
今は、自分のことをユニークな存在だと感じている。
私は私であることをたのしんでいる。

散々、自分のことばかりを見ていたら
人のことを到底悪く言えなくなった。
対人関係における多少の愚痴はあるが
根底には、私もおんなじぐらいひどいんだよね
という気持ちもある。
そして、弱いんだよねとも思う。
フラットに。


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などといわれるとキツイ。

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なんていわれたら、
まるで寄り添ってもらえてない、ついていけない、いっしょにいたくない
と思うかもしれない。


画像はここから引用。
アドラーにゃん
https://store.line.me/stickershop/product/1088970/ja
LINEやらないけれど、これは欲しいなぁ…。



そうできたらいいなと頭では思う、
でもこんなの、ムリだよ、自分にはできない
だから自分はダメなんだ、ああダメさ、そうさダメさ、悪かったな、キーーーーッ
となりそうなところを
いや、まぁこれが自分さ、できないしー
とあっさり認めてはどうかね、
ああ、そうだよねと淡々と言えたらラクだよ、と。
それが、アドラーが言わんとしてることじゃないかなと私は思う。

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日本語で「勇気」というと、奮い立たせるといいかえられるような
ゼロかマイナスからのエネルギーを
ないところからがんばって出さなくてはならないようなそんなイメージ。

でも、きっとここでいう「勇気」は
もともとその人にはそれができるはずなのに
本人の意識はそれに気づいていない、
また他者にも認められていない
けれども、本来もともとそういうチカラを持っている
その気づいていない、認められていない部分にひかりをあてるようなことを言うんじゃないか
と私は思う。
encourageではなく、empower。




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これは、私もよく思っている。
あっさり言ってしまうとものすごく冷たい、突き放した言葉のように聞こえる。
でも、言い換えてみると
他者の問題を解決することは私にはできないのだ、
それはあなた自身でしか解決できないことなのだ
そして、解決とはうまくいく結果だけを言うのではない
ということだと思う。

見放しているのではない、手を出せずにこころの裡で身をよじっている。
(ここは、遠藤さんの「沈黙」、最後のシーンが浮かんだ。)


私の場合は、自己完結してしまうことが多いので
他者に対して
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よりも

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を、意識していきたいところ。

言っていることを理解することよりも
実践しつづけること。



また、個人心理学に対する批判にも目を通してみた。
「嫌われる勇気」というタイトルゆえに、
なにか強者の理論のように感じられるのも一因なのではないかと思う。
(このタイトルだから目を引かれるし、注目を集める分の反発もあるなぁ…)

そこも「それらもすべてあなたの問題なのだ」とアドラーなら言うんだろうな。
そして、「勝ちも負けもない、ただ平等で、あなたは仲間だ」と。

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アドラーの言葉は、すべておのれを問うものであり
他者を裁くためのものではない。
他者に強要するものでもない。

批判する他者の言葉さえも、「そう思うんだね」とまずは認め
そのうえで「もっと君のことを聴いてもいいかい?」とにじり寄って来る。
(他者と関わりたくない人は、もうこの時点でお手上げだな…)
そして、その人が見逃しているものに対してエンパワメントをおくる。
ここは松岡修造が浮かぶね。

人を鼓舞する修造のことばには批判はなくて、
あるのは共感なんだろうなぁと思う。
修造とアドラー、ちょっと似ているかも。

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問う先は、自分自身にしかない。
私の世界は、私がつくっている。

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世界が複雑なのではない、「あなた」が世界を複雑にしている
アルフレッド・アドラー



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どうしよう。
画像、めっちゃ使わせてもらったよ…。
こうなったらLINE登録してスタンプ購入するしかないか
いやしかしLINEはやりたくない
すみません、すみません。
アドラーの言葉が気に入った方は、私の代わりにここから購入してください。
https://store.line.me/stickershop/product/1088970/ja

Category : いつものこと
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もやもやはれる

誕生日を迎え、つづけて旧正月を迎えた。

毎年、節分、立春、新月のあいだに自身の誕生日がはさまれることもあり
この時期は心身ともにあらたまる。
本当の年明けはここで、さて、春を迎えようという心地になる。

学校が終わっての一週間、
いろいろ考え続けていた。



通うのが楽しいと思っていた学校だけれど
最後の数ヶ月はうんざりすることが多かった。

「お金払っているのに」ということばを何度も聞いた。
なにをどう役立てるかは自分だと思う。
「自分の納得するものが得られない」と感じるということは
もうすでに得たいものはわかっている、
決まっているということなんじゃないかしら。
それならば学校に来る必要はないんじゃないかとまで思う。

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自分がどう受けとめるかだけだと私は思う。
どんな場からだって、学ぶことがあった。
このもやもやした気持ちからも。


このもやもやは、学校にいかなければ得られないものだった。
授業以外の場でも、それはあった。
人と接したからこそ、今までにない私が立ち現れた。
思いがけない賜物であった。
私はこういうところでこんな反応をするんだなぁとあらためて知った。
人間は、人と人とのあいだであぶりだされるものだ。



授業にあったグループワークで
生育歴を話したが、あれらは私の話したかったことなのかどうか
についても考えている。

自分の話をしてきて今思うのは、
やっぱりこれは話したくないということがあったなということ。

話したいことよりも話したくないことのほうが、多かった。
話したい気持ちにならなかった。

もちろん、話したくないことは話さなくてもいいのだけれど
それを話したくないと感じるのは、どういうことか。
あらためて自身に問いたい。
そこは私にとっての鍵だと思う。
私にとって大事なのは、過去の出来事ではなくて
今そうである、自分のその動きだ。


それも、何度か話してみてわかったことだ。
課程を得ないとでてこないことだった。
何が話したいのか、あらためて問われるとわからない。
話したいことなんて何もないとも言える。
はなせる場でないと、はなせない。
「はなす」ということも、自分の意識をコントロールしてでできるものではない。

自己開示はがんばってするものではない。
おのずとひらく、その時はある。

無意識に押し込めていたことが、少しずつ浮き上がってきている。
これからまたはじまる。


一週間の間に、テレビでみた番組に大きな影響を受けている。
NHKの番組「100分de名著」、今月はアドラーの「人生の意味の心理学」をとりあげている。
http://www.nhk.or.jp/meicho/



テキストには
「心理学はもともと哲学から発したもの。
心理学は英語でpsychologyというが、
これはプシュケー(psyche)とロゴス(logos)というギリシャ語の組み合わせで、
「魂の理論」という意味。
ソクラテスはこの魂をできるだけすぐれたものにすることを『魂の世話』と言っている。
英語のサイコセラピー(psychoyherapy、心理療法)は
ギリシャ語の「魂(psyche)の世話(therapeis)に由来している」
とある。

他者から与えられる意味なんていらないと思ってきた。
意味とは、みずから得ていくものだと。
もともと意味なんてないのだ。
それをその人がどう受けとめるかだけなのだ。
そう思ってきた。

「決めるのは、あなたです。
何が与えられたかではない、それをどう使うかだ」

まさしく、これだ。

もやもやした時こそ、その機会。
考えつづけていく。
それが私にとっての魂の世話。


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Category : いつものこと
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修了

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2年間通った学校の全課程を終えた。
終わってみれば、あっという間である。
そして、もうすっかり過去である。


私には、目の前にあることしかない。
そして、自在に旅している。宇宙へだって。
とどまらない。






ふーっと、息はいて。
さて、もう次へ。
かなしみを抱えているからこそしあわせへとつながる場を。


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図書館は最高の学び舎だった。
最後の日、大好きな8階からみた夕景。


また、もう少し落ち着いたら
あらためて考えることを書き出す。

Category : いつものこと
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