空模様

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Posted by チエ on  | 

読書と対話の会

「14歳からの哲学」を輪読しながら、
考えたことをとつとつと語る「読書と対話の会」。




一通り読んだだけではみえなかったことが
ポロポロと出てくるし、
なにより、来てくださった方の考えや
そう考えるに至った背景のようなものを伺えることがおもしろい。

誰かから答えをもらってスッキリすると
「ああ、いい話聴けたなぁ」と思ったりするけど
そのスッキリはその場限りのものだ。
覚えているのですか?
その「すっきりとわかりやすかった」話のことを。

もやもやは、なんとなくそわそわと落ち着かないし
なんとなく苦しくもあったりするけれど
そのもやもやこそが、「考える」とはどういうことか
を提示してくれているんだと思う。
腹が立つことも、ムカムカすることも、
飲み込めないからこそ、もっと咀嚼せよと言われているようなものだ。
考えるとは、細かく砕くこと。
数学でいうと、素数にまで分解してみせよという問題なんだと思う。
そうして考えたことって、自分のなかにずっと残りつづける。

「14歳からの哲学」は
生きていることの中にある素数が問いかけとなっている。

目次は

14歳からの哲学[A]

1 考える[1]
2 考える[2]
3 考える[3]
4 言葉[1]
5 言葉[2]
6 自分とは誰か
7 死をどう考えるか
8 体の見方
9 心はどこにある
10 他人とは何か

 14歳からの哲学[B]

11 家族
12 社会
13 規則
14 理想と現実
15 友情と愛情
16 恋愛と性
17 仕事と生活
18 品格と名誉
19 本物と偽物
20 メディアと書物

 17歳からの哲学

21 宇宙と科学
22 歴史と人類
23 善悪[1]
24 善悪[2]
25 自由
26 宗教
27 人生の意味[1]
28 人生の意味[2]
29 存在の謎[1]
30 存在の謎[2]



今、「死をどう考えるか」まで対話を続けて
感じるのは、この【A】で問いかけられていることが
メビウスの輪のように、ぐるぐるとつながっていて
永遠のループであること。
そして、おのずと自在に【A】の章の中を飛びまくらざるを得ないこと。

【A】に関しては、この対話を終わらすことはないなぁと感じている。
続けていこうと思う。


なによりうれしく、気持ちが落ち着いていられるのは
やっとこういうことを話せるようになったことだ。
そして、私だけではなくて
こういうことを話したいと思っている人が
自分以外にもいたんだなとわかったことだ。


きっと、そういう人は潜在的にたくさんいるんだろうなと思う。
「本当はさー」って話したい人。
で、その本当はさーの「本当」をもっと突き詰めてみたいと思っている人。

「14歳からの哲学」の目次をみて、
この題目について話したいと感じる方。
まずは本を手に入れて読んでみるということが条件ですが
ぜひお話しましょう。

あと、いっしょに「読書と対話の会」をひらいてくれている
齊藤さんが主宰する「えんたらいふ」という場もあります。
http://msentalife.wix.com/entalife




ハッブル宇宙望遠鏡がとらえた宇宙の画像
5ba9109633bc32a94ff43d1bc2dbe84b.jpg
http://blog.goo.ne.jp/jiten4u/e/ec3c1483b9059c03f798a33db51983b1

132105469695413223275_4607668118_80935e6207_o.jpg
http://matome.naver.jp/odai/2145261718083360901


なんとなく点在していて、あいまいだったものが
ある時、ぐぐっと距離を縮めて
一気にカタチをあらわす
ということがある。

きっと、そういう経験をした人は多いと思う。
ダイナミズム。

あの、一気にカタチをあらわす時って
なにがどのようにはたらいてるんでしょうか。

ま、知らなくてもいいけれど
「タイミング」ということばで言い表されたりするよね、そういうの。

学校に通うようになって、図書館に出入りしていたら
池田晶子さんの本とばっちり目があったあの瞬間のことを
とてもよく覚えている。

本とも出会いだと思っている。
多分、カードを繰るのと同じような感じ。
さーて、今日の一枚は? ならぬ、今日の一冊は?
本が並ぶ棚をざっと見渡して、
「今日はあるな」と思う。
本がじっとこちらをみているような気配。


その前から、若松英輔さんのテキストを読んだりする中で
池田さんのお名前はよく拝見していた。
若松さんのことは、能楽師でロルファーの安田登さんをツイッターでフォローしているのだけれど
安田さんのツイートの中に若松さんのお名前が時々出てきていた。




学校に通っていなくても、出会っていたかも知れないけれど
今のこの絶妙なタイミング。
なんですかね。
去年公開された映画「インターステラー」みたいに
本棚の向こうで、なにものかが主張しているのかもなーなんて思うぐらい。



学校に入って、直接得られたものもあるし
学校での学びが枝葉となり、またあらたな関心が呼び寄せられたこと。
受け身ではなく、探しにいくこと。探しつづけること。
私にとって、「学校に通うこと」で得られたものは
とてつもなく大きいことだった。


(宇宙の画像、きれいだけれど、正直言うとこれも「本当なの、これ」と
どこが穿ってみている私がいる。
でもまぁ、きっときれいであることには間違いはないんだろうなとも。)

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魂を洗う涙

DSCF7026.jpg


「3次元」はわたしたちが住む世界のことをいうけれど、
きっとわたしたちに見えているものも、3次元の世界とはいえ
表面でしかないんだろうな。

昨日書き出した「イワン・イリッチの死」。

(文字の大きさでいえば、光文社古典新訳文庫から出ているものの方が読みやすい。
けれども訳でいうと、私は岩波かなぁ…。)


この最後の描写で、イワン・イリッチはどこにいたのだろう?
3次元じゃなくて。


『ところで死は?どこにいるのだ?』
 古くから馴染みになっている死の恐怖をさがしたが、見つからなかった。
いったいどこにいるのだ?死とはなんだ?
恐怖はまるでなかった。なぜなら、死がなかったからである。
死の代わりに光があった。
「ああ、そうだったのか!」彼は声にたてて言った。「なんという喜びだろう!」
 これらはすべて彼にとって、ほんの一瞬の出来事であったが、
この一瞬間の意味はもはや変わることがなかった。
しかし、そばにいる人にとっては、彼の臨終の苦悶はなお二時間続いた。
彼の胸の中でなにかことこと鳴った。衰えきった体がぴくぴくとふるえた。
やがて、そのことこと鳴る音もしわがれた呼吸も、しだいに間遠になって行った。
 「いよいよお終いだ!」誰かが頭の上で言った。
 彼はこのことばを聞いて、それを心の中で繰り返した。
『もう死はおしまいだ』と彼は自分で自分に言い聞かした。『もう死はなくなったのだ。』
 彼は息を吸い込んだが、それらも中途で消えて、
ぐっと身を伸ばしたかと思うと、そのまま死んでしまった。




生きている人にとっては
複雑で壮絶で残酷にみえる世界も
魂からみると、そうではなかったりするんだろうな
と思う今日この頃。

魂は「経験したくて」この世にうまれでた
と「私」は思っている。
表面的には、はかなくみえるいのちであっても。
生きている時間が短かろうが、長かろうが。




この「私」は生きている人。
だから、他者のかなしみにふれるたびに、「私」自身もかなしみを感じている。

でもそのかなしみは、愛しみだったりもする。
かなしみのなみだが流れるのは、その人との日々がしあわせだったことの証。

こんなに悲しくて、私たちは出会わない方がよかった?
いいえ。
私はあなたと出会えてしあわせだった。
流れるのは決してつらいだけの涙ではない。

そして、この流した涙が、魂を洗い磨いてゆくものなのかも知れないと思う。
だからこそ。
誰かの流すつらい涙が、人をいとおしむ涙にいつしか変わることをいつも考えている。
これは祈りである。


解き放て いのちで笑え 満月の夕

Category : spirituality
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死をどう考えるか

「読書と対話の会」。
池田晶子さんの「14歳からの哲学」を輪読して、
考えたことをとつとつと語る会。
5回目の今日は6人で対話。
キャンセル待ちもあったり、また今日はじめてきてくださった方の話から、
こういう話をする場を求めている人はきっともっと多いんだろうなと感じる。
(えんたらいふの斉藤さんがとりまとめてくださってます。ありがたし。
http://msentalife.wix.com/entalife#!blank/c5w0



今日読む章は、はじめて読んだ時に
書いてあることがすんなりと飲み込めず、
しばしうーんと唸った「死をどう考えるか」。




「死とは何か」の一般的な答えとしては、無になること。そこで納得する。しかし、ここも非常に大事なところなんですけど、無というものは無いから無なわけです。無が在ったら無ではない。無は存在しない。存在しか存在しない。したがって、「死ぬということは無になることである」という言い方によって、そこで言われている無というものは無い、すなわち、死は無い、ということになります。にもかかわらず、なぜ無い死を在ると思って人は生きているのか。その視点を手に入れると、死が存在すると思って生きているこの世の光景が可笑しく見えてくる。無いものを在ると思ってるんですから。思い込みですね。世の中のすべてが錯覚の上で動いている。これはおもしろい。
 ですから、死が存在しないと気づきますと、「人生」という言葉の意味するところがまるっきり変わってきます。やがて死ぬ、どうせ死ぬと言えなくなっちゃう。なぜなら死は無いから。人生の意味ががらっと変わる。
 論理的に考えれば確かにそうなります。でも現実に人は死ぬではないか、と反論されるでしょう。確かに毎日、人が死んでいます。でも、死ぬのは常に他人なんですね。だれも自分が死んだことは無い。死は他人の死としてしか経験することができない。やっぱりそれこそが現実なわけです。これ、気がつくと非常に不思議なことなんです。



池田さんは、「死はない」とここでも書いている。
このことが、まるでわからなかった。

  でも、死ぬのは常に他人なんですね。
  だれも自分が死んだことは無い。
  死は他人の死としてしか経験することができない。



そう、確かにそう。
でも、「死はない?」。



この間の授業で、「イワン・イリッチの死」がとりあげられたのだけれど
久しぶりに読み返して、ピカーンと閃光が脳内に走ったのよ。





『ところで死は?どこにいるのだ?』
古くから馴染みになっている死の恐怖をさがしたが、見つからなかった。
いったいどこにいるのだ?
死とはなんだ?
恐怖はまるでなかった。
なぜなら、死がなかったからである。
死の代わりに光があった。
「ああ、そうだったのか!」彼は声にたてて言った。
「なんという喜びだろう!」



(この小説の、ラストの描写は本当にすばらしいので
よかったら図書館ででも借りて読んで欲しい)


ここをあらためて読み返した時に思い出したのは、「46年目の光」。


実話である。
マイク・メイは3歳で視力を失った。
46歳のとき、幹細胞移植という手術を受け
視力を取り戻すことができた。
その、「はじめて目でとらえた」瞬間の描写である。


P.193
ズドーン!ドッカーーーーン!
白い光の洪水がメイの目に、肌に、神経に、細胞に、どっと流れ込んできた。
光はいたるところにある。
光は自分のまわりにも、自分の内側にもある。
髪の毛の中にもある。
吐く息の上にもある。
隣の部屋にもある。隣のビルにもある。隣の町にもある。
医師の声にも、医師の手にもくっついている。
嘘みたいに明るい。
そうだ、この強烈な感覚は明るさに違いない。
とてつもなく明るい。
でも痛みは感じないし、不愉快ですらない。
明るさがこっちに押し寄せてくる。
それは動かない。
それはどこからともなくあらわれる。
どこからともなくやって来るって、どういうことだ?すべて白づくめだ。

P.206
わあっ!
屋外の新鮮な空気がメイのまわりで渦巻き、明るい青と緑と赤と黄の壁紙が
いっせいに押し寄せてきた。
建物の中で見たのとは、まったく別の明るさだった。
右を見ても左を見ても、光り輝くカーテンがあった。



(手術は成功し、視力は戻ったと思われた。
しかし、目の機能が回復しても、マイク・メイは正常に物を見ることが出来ない。
人間は「眼」だけで物を見るのではないのだ。
「見る」ということは、経験によった行為であり、
「視力」とは、ものごとを「脳」でとらえるチカラということらしい。

…しかしこの本は、脳科学の本ではなく、メインはもっとポップなアメリカンサクセスストーリーである。)


この2冊が繋がって、
宇宙は「ひかり」なのだろうと、あらためて思う。


「死」について、私が考えていることは、以前ここに書き出した。
http://soramoyo.blog43.fc2.com/blog-entry-743.html
私が話したことも、だいたい変わらない。


ずーっとずっとしたいと思ってきた「死の話」が、
やっとできた。
ささやかながらも、公然と。

死のことを想いながら、幼い頃のそれは
おどろおどろしいものだった。
こんなおとなになった今は、まぼゆいひかりとなっていることを
あの頃の私に教えてあげたい。

…いや。
知っていたんだよな、本当は。

DSCF7171.jpg


Category : spirituality
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魂との邂逅

前々回のブログに書いた「神は救わない」という話。
まだ足りないなぁと思っている。


図書館で借りた柳田邦男さんの本。




P.46
人間の心や価値観というものは、かたくななように見えて
意外にダイナミックな可塑性を持っている。
その変化を拓くのは、その人なりに切羽詰まった思いでわが身を投入する行動なのではないかと
私は思っている。



このことだと思う。
救うのは他でもない、私自身しかないということ。
神ではなく。




P.23
おそらく、人が、哲学はわからない、哲学をわかりたいと言うとき、
わかっていないのは本当は「哲学」ではなくて、「自分で考える」ことのほうだ。
人生や自分について、自分で考えるその仕方をわからない、と言っているのだ。

しかし、敢えて私は言うけども、「私探し」と人が言うとき、
その〈私〉は、じつは考えられるべき〈私〉ではない。
思い悩まれ、やがて癒されるべきものとしての〈私〉なのだ。
この〈私〉は、哲学的思考の対象としての〈私〉ではない。
なぜなら、思い悩まれ、やがて癒されるべきものとしての〈私〉は
そのような〈私〉として、すでに答えだからだ。

存在するすべての人間が、自分のことを同じ語〈私〉で呼ぶものだから
話は甚だ混乱するのだが、右のような〈私〉を
「社会的な〈私〉」と私は呼びたい。
「私とは何か」と問うて、性格や帰属や来歴や、せいぜいDNAが答えになり得るような〈私〉だ。
人はそれを喪失したと思い、どこかへ探しにゆかなければと思う。

対して、性格や帰属や来歴や、その他一切の属性とは無関係の〈私〉、
したがって、喪失のしようもなく常にここに在る〈私〉、
これを「形而上的な〈私〉」と私は呼んでいる。
哲学的な思考が対象とするのは、こちらである。
デカルトが見出したのも、こちらである。




ここで池田さんが書いている「形而上的な〈私〉」とは、魂のことである。
私の理解である。

魂としての〈私〉の声は、頭で考えるだけでは聴こえない。

感覚とよばれる、
聴く、嗅ぐ、ふれる、味わう、匂う・・・
それら「感じること」すべてを総動員してはじめて
「考える」という。
からだを使うことも、考えることなのだ。

「からだで覚えるには、まずはゆっくりゆっくり動いてみることで
そこではたらくべき筋肉が、その動きを理解するから。
はやく動いてしまうと、見た目だけが同じ、表面だけのものになってしまう」

(これは、身体儀礼にもつながる)

無意識にやってしまっていることを
意識にのぼらせて、精緻に磨いてゆく。

その過程に、魂との邂逅があるのだろうと私は思っている。
他人は欺けても、自分を欺くことだけはどうしてもできない。
「どうしたらよいですか」と問うているのは、神に対してではなく
魂としての〈私〉に対してなんだ。

IMG_6835.jpg





Category : spirituality
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元気の源、気功

気功をやっているというと
「人を飛ばしたりするんですか」ときかれることがしばしばある。
なにやらあやしいものというイメージはなかなか消えない。

確かに、練功(気功を練習することを練功という)を続けていけば
あやしいもの、常識ではないものにふれる機会もあるが
基本的には、自分のからだを日々整えていくことに他ならない。

お風呂に入ったり、歯を磨いたり、
掃除したり、ご飯を作ったりということとおなじ。
そのうち、排泄する、寝るといった
生きている者として「そうせずにはいられない、あたりまえの欲求」になっていく。


日々のことが地味であるように
練功に刺激的なことはない。
動きも小さいし、ゆっくりだし
人によってはつまらないと感じるようなささやかさだ。

けれども、自分のからだの、目では見えないはたらきをおっていくにつれ、
それが実にパワフルでエネルギッシュなことだと感じるようになってくる。
細胞のひとつひとつに血液がゆきとどき、同時に酸素が運ばれて
ミトコンドリアがぎゅるぎゅるまわって、からだを動かすためのエネルギーを
うみだしている、見えるわけではないけれど
そう感じながら、気功をしている。
…地味に楽しい。
でも、実は地味なのは見た目だけで、
からだの中ではスパークしており
かつ、脳内では広大な宇宙が広がっているのだから。


そういや、昔、ある人が
ミトコンドリアの動きってこんな感じだと思っているんですよ
と教えてくれたものが、これだった。
なんて名前だろうとずっと探していたのだけれど、やっと見つけた。


http://kintoreblog.com/powerball-use/#i-2

このボールの動きが加速するように
気功を続けることで、細胞中のミトコンドリアのはたらきが加速して
元気の源がうまれでてくる、と私は考えている。
ゆっくりうごきながらも、あたたまってくるからだを感じると
なおのこと一層。


私にとっての源は「自分の脚で立つ」ためのちから。
ずっとずっと死ぬまで、自分の脚で立っていたい。

この「元気の源」をうみだすなにかは、人によって違う。
私にとっては、気功だったというだけ。
いろんなひとのやっていることが、私には
「あれも気功、これも気功」と感じるだけ。
気功が絶対だとは思わない。
それぞれの方向から、「元気の源」が得られたらいい。


続けるということが実はなによりむずかしいことなんだと思う。
ハードルをあげずに、まずは簡単なことからはじめる。
そして、なにより「気持ちいい」と感じることだけを続けたい。

DSCF7546.jpg

こーんなかんじで、たたずんでいたいのよね。
この肩のちからの抜け具合、理想的。

(ちょっと前に、「ためしてガッテン」で
スタミナ源のミトコンドリアを増やす方法が紹介されていたのだそうな。
http://kanarikinic.com/2289.html
あー、これはまさしく気功っぽい…。
でも、このリンク先にでてくる「背筋をピーンと保つ」は表現としてちょっとむずかしい。
背筋を正すといっても、小学校で教えられる「気をつけ」ではないし。
ただ、背骨は積み重なっているだけ。そのまわりの筋肉がそれを支えるイメージ。)



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for myself

先日、人と話していてこたえたことばに
ひっかかっている。
あらためて書き出しておきたい。

この世に神はいるのか。
いるのならば、どうしてこんなひどいことが起こるのか。
神はどうして救ってくれないのか。

そういうような話だった。
私は「神は救わないよ」と答えた。
すこしことば足らずだったと思う。


おそらく、この世で起こる「ひどいこと」のほとんどは
人の所為によるものだ。
人のおこないによっておこることが、ひどいのだと思う。
神のおこないではない。

そして、自然に起こる災いは
人にとっての「災い」、「都合が悪いこと」であって
それもまた、神にしてみれば「人をこらしめてやろう」としたことではない。
神にとっては、人が判断するような善も悪もない。
自然に起こること、それらすべて神の所為だとしても
すべて人が、その事象をどう受けとめているかということだけだ。


311 の震災後、「神も仏もないな」と私は思った。
宗教者でさえもそう思った、といくつかのテキストで読んだ。
私には、そう感じたことが、いまの学びへとつながっている。
5年が経とうとして、神も仏もないなと感じたことへのこたえが、
今ではこうなっている。



今日は、代々木公園で行われたこのイベントに参加してきた。
CANDLE 11th -LIGHT FOR FUKUSHIMA-
http://www.lfn.jp/candle11/

IMG_7920.jpg

5年前、震災があった3月11日。
これでいろいろ変わると感じた。
いい方へ。
これで変わらなくてはと思った。
でも、その「いい方へ」は
マイノリティのものでしかなかった。

人は、どうしようもないいきものだなぁと思う。
そして、神が救えないように
人は人を救えないとも思った。

神戸の震災があった後、私はマッサージで人を癒したいと思った。
けれども、それも私にはできないなと311の震災であらためて思った。


この5年間で
私から誰かに対してできることはないのだとわかるだけでよかった。


この人の書いていることはおもしろいなと思う。





今日の代々木公園のあの片隅で行われたイベント。
あたりまえじゃない特別な場。
その場にいるだけで、ふるふるとからだがふるえるようだった。
主催のジュンさんは、挨拶のあいまに目立たぬ姿で会場内でゴミ拾いをしていた。
GOMAさんのディジュには、ふつふつとからだの奥からちからを涌き上がらせてもらえた。

細胞からエネルギーがわきあがることを実感できる、
一見ささやかで地味、目立たない。
でもなによりパワフルでエネルギッシュ。
こうでありたいと思う。

誰かのためでなく、自分のために。
そして、それならばできると思うのだ。
実際、できているのだ。


明日からの気功は、ろうさくの火を灯しながら行おうと思っている。

ゆらぐ火をふんわりとみる。
感じるのは、ひとときもとどまらない、
でも変わることのない、炎の本質。

IMG_7934.jpg


福島のことは、何もできていないけれど、ずっと思っている。
海のこと。空のこと。出会った人のこと。
胸のいたむことはいろいろある。
なぜならば、それらは私の一部だからだと思う。
だからこそ、私から癒えていこうと思うのだ。

IMG_7932.jpg

Category : いつものこと
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back-to-basics

27日早朝に京都へ帰着。
この夜、確実にのどに風邪を取り込んでしまった。

おかげで体調は今ひとつの年末年始を迎えたが
なんとなく、この一年を振り返るのにいいタイミングだったように思う。


言葉によって、無意識のなかからたいせつなものがあぶり出される。
この宇宙を、世界を、社会を
言い表すには言葉はまるで足りないと
感じることも多々あるけれど
そんなこと、本当は言葉に尽くした人のみが言えることだ。
試してもいない人のいう言葉に耳を傾けてはいけない。


たいせつなことはなんなのだと
何度も突きつけられている。
人によって惑わされる程度のものなのか、と。



うれしい、たのしい、好き。
そこがなによりの基本だ。
誰がなんといおうと。


IMG_7896.jpg



この番組、タイムリーでよかった。
天才アスリート勝利の言葉【五郎丸×又吉初対談】~みらいのつくりかた新春SP~

天才アスリート勝利の言葉【五郎丸×又吉初対談】 - 16.01... 投稿者 dan-chi
http://www.dailymotion.com/video/x3khuxh

「与えられることは大事だけれど、その中で自分たちになにができるのか。
この局面で何をしなければならないのかを考えないといけない」

「周りが騒ごうが騒ぐまいが、僕の中では関係ないというか。
その舞台が世界であれ、日本国内であれ、自分のできることっていうのは、
どのステージでも変わらないんですよね」

「ラグビーを何でやっているかというと、好きだからじゃないですか。
“楽しい”という思いがそこにはあるから、それはブレたくないというか。
周りからいろんな批判は勿論きますよね、これだけテレビに出ていたら。
いずれ潰されますけども、そんなのは別にどうでもいいんです、僕の中では。
でも自分のブレないものというのは“ラグビーが好きだ”っていう思いだけなので」


Category : いつものこと
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