空模様

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地球人てらじんチャイスパイス

IMG_7584.jpg

わが家では、チャイは定番の飲み物。

漢方をまなびつづけている相方てらじんが
よいグレードのスパイスを仕入れてくれているので
とても香り高いチャイをおいしくいただけています。

てらじんがブレンドしたスパイスミックスは
これまで何人かの友人知人客人に試してもらって
「これはいいねー」
「お支払いしてもいいので欲しい」と言っていただけることが続いたので
「販売することにしよう」となり
試行錯誤しながら、商品化をすすめていました。

そして、10月からはようやくネット販売もできるようになりました。
20g入り、50g入りの2タイプあります。
いずれも、マサラチャイ、スパイス珈琲、ジンジャーエールベースのレシピをおつけいたします。
(最新改訂版をお渡しします〜)

ぐっと濃厚、紅茶も牛乳もコクがあり、スパイスの香りもちゃんとたつのが私好み。
とはいえ、みなさんそれぞれのお好みがあると思うので
いろいろ試して、お気に入りのレシピをみつけていただるとさいわいです。

スパイスももちろんですが、
紅茶もチャイに適した茶葉を選んでいただかないと
おいしいチャイになりません。

そのうち、紅茶葉の販売もできるといいなと考えております。
こちらはもうしばしお待ちください。

スパイスについての詳細、
お買い物はこちらからどうぞ*¨♫*•.¸¸•♫*¨
スパイス販売






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哲学対話

立教大学でひらかれた哲学プラクティス連絡会に
誘いを受けて参加してみた。

1.jpg

「学会」ではなく「連絡会」というところがミソである。


「お金をもらっていない人から先生と呼ばれるわけにはいかない」
と、どんな人であろうと先生と呼ぶことは禁止であるということ。
また、小学生以下は保護者同伴であれば参加可であり
こどもたちが教室内をうろうろしたとしても
それを困難に思うような人はむしろ参加してもらわなくても結構であるということ。
この二点について、まずはじめに(おそらく)会の代表である
立教大学の教授、河野哲也さんが釘を刺した。

これだけでも、この会はおもしろいぞと思う。

哲学プラクティスとは
おもに対話という手法をもちいながら、哲学的なテーマについて
共同で探求する実践的な活動をさす。(会のプログラムより)

学校の授業となっていたり
各地で哲学カフェと称した場が開催されていたり
このところ「哲学」はちょっとした盛り上がりを見せているそうで
私がそのキーワードを見かけるのも
自分の関心のせいだけではなかったのだと知る。

すでに参加している人、
まだ参加はしたことないけれど関心を持っている人、
なにそれ?と思っている人が集い(180名ほどが集まったと聞く)
すでに実践されている方々から報告を受けたり、
情報を交換しあったりする場となった。
私のようなひよっこが参加しても大丈夫かしら
とほんの少しは思ったりしたが
いきなり老舗の哲学カフェに参加するよりは気楽にすごせたと思う。


私がびっくりしたのは
保育園で行われている哲学対話。

本当に、こどもは大人が思っている以上にいろんなことを考えている。

池田晶子さんが(好きなのでどうしても引き合いに出してしまうが)
「こどもは純粋理性だと知るべきだ」と書いていて
(たしか「あたりまえなことばかり」のなかで)
まったくだと思う。

長いバージョンもあるのでよかったら。


(映像の中で「犯人がどうのこうの」と言っている男の子のお父さんは
警察におつとめなのだそうだ)



私のこころにとどまっている点はふたつ。

・場の安全

夏にあった病院実習のグループワークで
自分の死生観をテーマにした時に
私は「DEATH CAFE」、つまり「死」について語り合うことのできる場を
想定して話をしたのだが、スーパーバイザーから
「本当に死にたいという人が来たらどうするの?」と問われた。
自分が参加したことのある会で、精神的に不安定な人と遭遇したことがなく
これはまったく盲点だった。

哲学対話と、大括したところのメンタルヘルスに関わるグループワーク
との線引きは容易ではないだろう。

参加した人の中からの質問にもあったことだった。
ファシリテーターの能力がなにより問われるなぁ…。

・「ただしい」ということば

絶対的な善、正しさはあると考えるようになったのは最近ではある。
それまでは私も「善も悪もないよね」と言ったりしていた。
そこで使われる善悪は、相対的な規範だ。
そんなものをはるかに超えているのが
本来の「善」であり、「正しさ」であろう。

だから「善も悪もないよね」というのは御意でもあるが
やはり、間違っている。
言葉に包まれる以前に、意味であったり、本質であったり、真理があるから
言葉となりうる。
絶対的な「善」や「正しい」があるということだと今は思う。

(あ、でもどちらも漢字なので
やまと言葉の「よし」「あし」についてもう少し調べたいところ)


ワークショップで、「人はなぜ哲学カフェに集うのか」という問いについて
30人超で考えを述べあったのだけれど
ある方が、「哲学とは、だれにとっても『正しいこと』を対話によって見つけていくことだと思う」
というようなことを述べられた時に、多くの人が「拒否」といってもいいような反応を見せた。
それがとても印象的だった。
そう簡単に使ってはいけないことばだということにあらためて気づいた。



正しいということばはむずかしいことばだ。
ことばは、シンプルであればあるほど、むずかしいようだ。
だって、多くの人があらためて意味を問わないほどにアタリマエだと思っているから。
その「アタリマエ」を「どういうこと?」と問うて、
誰にとってもの「正解」を見つけていくのだよ。
すぐには見つからないし、正解があるのかどうかもわからないことをね
ああだ、こうだと言い合うの。
それが哲学対話。

対話において理解するということは共通なものへと変身することである
H.G.ガダマー



この「対話」という言葉に、私は一般に使われているものといくらか異なった意味を与えたい。
意味をより深く理解するには、言葉の由来を知ることが役立つ場合が多い。
「ダイアローグ(dialogue)」はギリシャ語の「dialogos」という言葉から生まれた。
「logos」とは、「言葉」という意味であり、ここでは「言葉の意味」と考えてもいいだろう。
「dia」は「~をとして」という意味である―「二つ」という意味ではない。
対話は二人の間だけでなく、何人の間でも可能なものなのだ。
対話の精神が存在すれば、一人でも自分自身と対話できる。
この語源から、人々の間を通って流れている「意味の流れ」という映像やイメージが生まれてくる。
これは、グループ全体に一種の意味の流れが生じ、
そこから何か新たな理解が現れてくる可能性を伝えている。
この新たな理解は、そもそも出発点には存在しなかったものかもしれない。
それは創造的なものである。このように何かの意味を共有することは、
「接着剤」や「セメント」のように、人々や社会を互いにくっつける役目を果たしている。
『ダイアローグ』デヴィッド・ボーム著





人を言い表すのに、
人間と書いたり
Human beingと言ったりする。
「間」、「being」
その意味は「対話」にあるという気が、私はしている。


日本における哲学カフェ草分けのお一人、上智大のT先生、あ、Tさんは
グリーフケア研究所の構成員でもいらっしゃった。
お声をかけたら、「もしかして面接した?」と聞かれた。
私が面接していただいたのはO先生だったなぁ。
ここのところケアの現場も、「対話」は大きなキーワード。
オープンダイアログ
ユマニチュード
ナラティブ
グリーフケア
スピリチュアルケア。

根底に流れるものは大きく変わらないと思う。
他者への尊厳(存在肯定)、
語ること、
そして聴くこと。

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Category : spirituality
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自然が先生

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長年続けてきた気功の教室で、先生からは
「自然が先生です」と教わってきた。
気功の目的は「からだの自然を呼び覚ます」ことと。


からだと宇宙のあいだにある
無数の言葉を繋ぎたいとずっと思ってきた。
去年、その機会をいただき
なんとか一冊の本にまとめることができた。
まだまだ稚拙ではあるし、完璧とはまるで言えないが
本質的なところはおそらくこの先も変わらないと思う。

特定の宗教には属していないが
「宗教的なもの」にはひかれてきた。
仏像が好きだと思ってきたのも
屋号に「空」と名付けたのも
長崎に伝来したキリスト教の話にひかれるのも
イスラムの文様アラベスクにひかれるのも
おそらくすべておなじみなもとにある。

宗教はいらないが
信仰はある
と公言してきた。


上智大学グリーフケア研究所の講座に通うようになって
「スピリチュアリティ」ということばを聞くようになった。
それは、私がずっと考えてきた「信仰」と
おなじものを言うと直観した。

どこかしらに脈々と、地下水のように湧きつづけているもの。
それは記憶なのか。
いつから、なにゆえ、どこからのものなのか。
まるでクラウドのようだ。
そのサーバーはどこにある?


どうしてそれを私は知っているのだろう。
もちろんその過程には、カタチあるものに触れて
それを観音というとか、菩薩というとかわかるわけだけれど
それにひかれるのはなぜなんだろう。
魂ということばに、あああのことだとわかるのはなぜなんだろう。

「大拙が考える霊性というのは要するに、誰もが持っている宗教心とか宗教性のことなんですね。
これは、仏教とかキリスト教とか神道とかは関係なく、脈々と人間に流れていますが、
それが花開くためには、地下水を吸い上げるための井戸みたいな装置、回路がいる。
宗教が井戸なら、霊性は地下水ということになります」
と釈徹宗さんが話していた。

宗教が地下から水をくみ上げることのできる電動ポンプだとしたら
電動ポンプを持っていない私は、みずから掘り出すしかない。
気づいたら掘り出しにかかっていた。
自然にそうなった。


数学を表すmathematicsの語源μαθηματα(マテーマタ)には
「すでに知っていることを学ぶ」という意味があると聞いた。

なぜだかわからないけれど
どういうことだかまるでわからないけれど
もともと知っているとしかいいようのないものを
人はもってうまれる。


うまれたばかりのこどもは、知っている。
とくに教えられていなくとも
そこから乳がでることを知っている。

どうやったら寝返りをうてるのかも、
どうやったら立てるようになるかも
知っている。
ふわりとたよりなげにあることで
おとなたちが仕えてくれることも。
イヤなことには泣いて全力で拒み、
気持ちのよいことは繰り返し何度も求め、
満足したら笑顔をふりまき
まわりにいる者を安心させる。
そこにいるだけで、いい。
生きるために必要なことは、わかっている。



なぜだかわからないが
おのずとそうなっている。

それをこそ「自然」というのだ。
私が今ここにいるのも
その「自然」のもとに。

なぜだかわからないけれど
ここにいる。

そして、私は知っていたのだ。
ただ生きるための力をもともと持っている、と。

掘り出しつづけて、ようやくその水脈を見つけた。

「自然が先生」。
気功で教わってきたことだったが
今またここにかえってきたと思った。

私を生かしているものは「自然」、
おのずからそうなっている、
オノズカラシカリ、
そのものからだった。


Category : spirituality
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本質は、金太郎飴のように、言葉となりゆく

「読書と対話の会」@富士見台サロン。
ばあちゃんちの空間は、サロンと呼ぶにふさわしく、
いましばらくは仮にそう呼ぶとする。

「14歳からの哲学」を輪読しながら、それぞれが考えることをつらつらと話す。
一人でさらりと読んだ時とはまるで違う感触にたくさん出会う。
その感触は、おもにささくれだっていて、ひっかかる感じで、
ごつごつしていたり、かりかりしていたり、もやもやしていたりする。

その感触に出会ってはじめて「考えることができる」んだと私は考えるようになった。

こうして特別に時間と場を設けずとも、私はいっつも考えている。
昔は、「むずかしいことばかり考えてるんだね」っていわれるのがイヤで、
考えてないようなふりしたりもしたが、今は違う。
考えないでどうするのと思う。
考えることが楽しいとも言う。
みんな(大衆としての)が楽しそうにしていることには、あまり興味が向かない。
堂々と、私は孤独であると言える。
一人の、うちなる無上の楽しみである。

でも、ひとりでは気づけないこと
盲点があることに気づいた今は
同じ意見ではなくとも
「考えること」が好きだと同じく言える人と
話して、ささくれに触れたいと思う。
これまですんなりと流れてきた「考え」を
澱ませてくれる一石を投げて欲しいと思う。


昨日は、また別のメンバーとのミーティングがあったが
ここでも昨日は「14歳からの哲学」をとりあげてみた。
安保法案、集団的自衛権の是非から、
「善悪」の章を輪読して、考えを話し合った。

そして今日は「言葉」の章を話し合った。


前回ブログにあげた話から、ひとまず今日までにかけて
私の中で電光石火で繋がるものがあった。
もう、これは不動だ。
私の中で。
そこは、表向きどんなに波風立っても、私の裡にしずかにしずかにある空間だ。

どんな話も、金太郎飴のように「本質」がみえる。
どの話も、切っても切ってもおんなじなのだ。
やはり、それは「地下水」のよう。
私にとって、そしておそらく誰にとっても「絶対」。
それをいかに言い表そうか。
私の考えることに迷いはないが
それをどう言葉にしていくかが
私の課題となるのだと思う。
おまえになにがわかるのか
と言われようが、私はわかってしまったのだ。
誰にとってもの「絶対」を。


こういうことを話していく場を、もっと
と思う。
急がば回れ。
そして、それぞれの想い、感情の癒されゆく場を。

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原田真二さんの「タイムトラベル」、すごく好きな歌。
(松本さんの詞なんだよね)
スピッツの草野くんのがまたいいんだよぅ。

Category : spirituality
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久高オデッセイと地下水脈と私の課題

いよいよ学校も残り半期になり
「この半期で取り組みたい課題は」とスーパーバイザーから問われる。
その場で思いついたことを話したが、
あとあとどうもしっくりこない。
話したことももちろんそうなのだけれど
もっと大事なことがあるはず。
なんとなく釈然としない気持ちのまま
午前の授業が終わった。

その日の午後は研究所主催の
『久高オデッセイ第三部風章』上映会とシンポジウムに出席。
シスター高木と島薗先生と鎌田先生、三人のトークショー(違)
これは聞き逃せないでしょ。


kudaka

映像はあまりにも美しく、あまりにも心地よく
時折、抗いきれない睡魔に襲われる。
眼を見開いていたいのだが、これは神々の誘いである。
いざなわれると、はいとおとなしく身を委ねる他ない。
ZZZ…

心身ともに一番揺さぶられたのは
スーツ姿の男性のカチャーシー。
人が魂からも踊る姿には、
まさしく共振というか、うちふるえる。
ちょうど少し前に読んだこれが頭をよぎる。
町田康訳「奇怪な鬼に瘤を除去される」(『宇治拾遺物語』より)


久高島は、琉球を造った祖神アマミキヨが最初に降り立ち
国造りを始めた地と伝えられており
歴代の琉球国王も参詣を欠かさなかったとされる。
現在でも、島をあげての祭祀は数多くおこなわれており
12年ごとの午年におこなわれるイザイホーは多くの観客を集めていた。
イザイホーとは島で生まれ育った30歳から41歳までの女性が
セジ(霊力)を受け継ぐために行われる成巫式のことであるが
1978年以降、後継者がなくなり途絶えている。


特筆すべきは、土地を個人で所有するという概念がないこと。
土地は神様からお借りしているものと考えられ、
島の集落外、北部は聖域としてまもられている。


久高オデッセイは、2002年に撮影が始められた。
大重監督は病を抱えながらも13年という歳月をかけて
今年1月5日イザイホーがおこなわれるはずの日を見届け
自らのいのちをそそぎこむかのように
6月に第三部を完成させた。そして7月22日に亡くなった。

鎌田さんは、大重監督のことを
「気配の魔術師」と書かれていた。
一貫して大自然の中でつつましくもたくましく
けなげに生き抜いていくいのちの輝きと祭りとエロスを描いてきた
と綴っている。

自然は官能的である。
自然のうちにエロスを感じるのは、
聖なるものが本来は性なるものであるからだろう。
わたしはそう思う。

性は、いやらしい?
何を言ってるんだろうと思う。
色なくして、人うまれず。
この世をうみだしているものは性(聖)であろうぞ。



この映画の中には、大重監督の語りが入っている。

「地下水脈がわき出るような歌声であった。
祭りは途絶えているが、祭りの命は息づいている。
祭りは人間が生きている限り行われる。
生きていることの証が祭りである。
やがて違った形で復活するだろう。
12年間待っていた島の姿を確認した。
東の海の向こうには、ニライカナイがあると言われている。
しかし、この島こそが、この地上こそがニライカナイではないかと思えてくる。
地球の7割が海である。陸地が海によって、繋がっている。
海に育まれている久高島は、姿を変えながらも、脈々と命を繋いでいた」。



以前、釈徹宗さんがメタ宗教について
鈴木大拙の霊性論から次のように解説されていた。

「大拙が考える霊性というのは要するに、誰もが持っている宗教心とか宗教性のことなんですね。
これは、仏教とかキリスト教とか神道とかは関係なく、脈々と人間に流れていますが、
それが花開くためには、地下水を吸い上げるための井戸みたいな装置、回路がいる。
宗教が井戸なら、霊性は地下水ということになります」。
鈴木大拙の霊性とは、「メタ宗教性」であり、
宗教をつくるもの、宗教以前の宗教、それを霊性と名づけた、と。
(内田樹・釈徹宗『現代霊性論』講談社)



この一節と、大重監督の言葉は
おなじことを語っているなぁと
映像を見ながら思い出していた。


見えないところで、地下深くで水は脈々と流れつづけている。

ああ、これだったな
私の課題は
と思い出す。

私は、今通っている学校に入る前から
信仰と宗教はベツモノだとことあるごとに考えてきた。
だから特定の宗教には属さないと言ってきた。
しかし、自身の信仰については
いざ語る言葉をなにも持っていなかった。
なにを私は信じているというのだ?
信仰と言ったところで、あまりにも漠然としていた。

この地下水脈は私の中にも流れている。
釈徹宗さんのことばで、腑に落ちた。
私の中には地下水脈が流れている。

そして大重監督のことばで
それは確信に変わった。

不可解な大宇宙に生き死ぬ不思議、この感覚に目ざめるだけで、じつは十分なのではなかろうか。
この感覚は、ある意味で、畏怖する謙虚さのようなものだからである。
池田晶子「あたりまえなことばかり」トランスビュー



聖職者が語るところの「神」「おおいなるもの」を言い替えると
私にとっては「自然」である。
私がうまれてかえるのもここである。
そして、それは信仰ではなく確信となった。
この一年半で。


いや、まだよくわからない。
でも、ここが私の今のまなびへの源泉だった。
ここと離れずにいること、
そして、いのりへとどうやってつなげていくのか。
次の春、私はここで得たものに
あらためて気づけるのかもしれない。
私がこの学校になぜ入ったのかは、
地下水脈を掘り起こすためであった
と今になって言えるからだ。



シャーマンはことばであらわし
大重監督は、映像であらわした。
中沢さんがアースダイバーで書かれたことを
大重監督は映像でもってみせた。
本気だったゆえに荒く激しく向かい、
監督のもとを離れた人も多かった。
監督ほど貧乏な人はいなかった、
しかし、人には恵まれていた。
自然の気配を繊細に嗅ぎ取り
それはこうして映画となり、
彼の精神はそこに宿りつづけている
と、監督に近しい方々が話された。


今日は、東京自由大学で開催された
久高オデッセイ第一部結章を見に行った。
その前に「原郷ニライカナイへ」 が上映された。
大重監督が久高オデッセイをとりつづける契機となったのが
比嘉康雄さんのことばだったという。
この映画もすごかった。
予告編だけでも、射抜かれる。



12月12日(土)「久高オデッセイ第二部 生章」が
東京自由大学で上映される。
お時間ある方はぜひ。
http://jiyudaigaku.la.coocan.jp/


あとそうそう、土曜日には大学院の募集要項が配布された。
「実践宗教学研究科 死生学専攻」。
くぅぅ、行きたいぜ、大学院。
宝くじ、買いに行こうかな。
年末ジャンボ。

Category : spirituality
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そこに、その人がいる

後期の授業が始まった。

病院実習、高野山での学会のこと
早く書き出しておかねばと思いながらも
日が経つにつれ、「書き出しておきたかったこと」が
流れてゆく。
ああ、ホントに早く書き出しておかないといけなかった。
あの時感じたあれやこれやが、
「はてなんだったかのぅ」になってしまっている。

しかたない。
とりあえず、日が経っていないことから書き出しておこう。

前期の授業がハズレだったため
(1年目の授業がすごすぎたから期待がいやがうえにも高まりすぎたのだ…)
後期も期待しないでおこうと思っていたのだけれど
初日から、息するのも忘れるほど先生の話にひきこまれてしまった。
とくに社会福祉学。

福祉≠社会福祉。
ここに社会がつくことの意義について。

「その人の話を丁寧に受けとめながら社会資源につなぐ、情報の紹介に終わらない」
という箇所が残った。(メモしておいてヨカッタ)

また、シェイクスピア、マクベスからの一文を紹介してくださった。

悲しみを声に立てなさい。
口に出さない悲しみは荷の勝ち過ぎた心臓にささやいてそれを破裂させる。


社会に取り残されている人々にとっての
エンパワメントはかえって疲弊させるだけ。
その前に、そこに至るまでの苦しみが癒されなければ
情報だけを与えても、動きようがない。

ならば、どうなれば、どうであれば、癒されたと人は感じられるのだろうか。
この、癒されていない人の方が圧倒的に多いこの世の中で。

先生の話を伺いながら
私は池田晶子さんの著書「あたりまえのことばかり」の中にでてくる
〈どうすれば癒されるのか〉の章を思い出していた。
http://soramoyo.blog43.fc2.com/blog-entry-748.html

不可解であることを知るということは、
不可解であることを受け容れるということに他ならないからである。

自分を受け容れる、自分という心を受け容れるという行為が
何か広く遥かなものへの祈りに似てくるのはこの理由によるだろう。
自力と他力の接する接点、受け容れることで見透かしていけるようなあの領域である。



苦しみ、苦しいということの明らかな感情ですら、
自分にとっては不可解な訪れなのだと知ることで、
それがよってきたる遥かな方へと解き放たれてゆくといったことだ。
そのことによって、事実上の人生が何か変わるわけでもないかも知れない。
しかし人は、物語を楽しむように苦しみを楽しむ、
そんなふうに自分の人生を歩き始めるのではないだろうか。




明確な、すっきりとしたこたえはない。
だから、授業はもんもんとした気持ちが終わる。
私は痛いもん好き(痛いモノズキ)なので、
この痛みやすっきりしない具合はある意味快感である。

そうして、もんもんと考えながら飲むお酒は最高なのである。


CQKIBSOUAAApt9.jpg

水曜日、学校帰りによった店がよかった。
本当は、学校の友人と話したくていったのだが
わたしたちがゆっくりと話すための隙をみつけようとすると、
写真に写る二人によってことごとく阻止された。

まぁ、でもそれがよかった。
この地で38年間飲み屋を営むママさんは
飲み屋をしながら、ケアマネの資格をとっていたり
休みの日には新宿区のホームレス支援をおこなっていた。

私も山谷に赴き、おっちゃんらと話すことは
小料理屋でのバイトの延長線上にあるなぁと
なんとなく感じていたが、
飲み屋というのは、おっちゃんたちにとって
「ケアをうける場」なのだなぁと思う。
そんなことは謳われていないが、
「ケアを受けている、施している」と誰も口にしないところは
山谷で向かう先でも同じことである。


そう簡単に癒されはしない。
けれども「そこに、その人がいる」ということのかけがえのなさを思う。


学校へ通うのもあと半期。
限られた時間の中で、とことん楽しんでいく。

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