空模様

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Posted by チエ on  | 

死者の存在

「slow death cafe」なるものに参加した。

開催される二日前に、デスカフェの記事を読んだ。
http://news.kaigonohonne.com/article/454

それをfacebookにシェアしたら、友人が
三鷹で「slow death cafe」というものがあるよと教えてくれた。
http://yukkuri-web.com/cat/smallschool/sss-schedule
http://yukkuri-web.com/sd-cafe
あまりにもタイムリーだし、ちょうどからだもあいているので参加することにした。

ファシリテーターは辻信一さん。
「スローライフ」を提唱し、「100万人のキャンドルナイト」呼びかけ人。
私は気功をする場を「スローボディのススメ」と称していたことがあったのだけれど、
あれは辻さんの「スロー・イズ・ビューティフル」という本からいただいたのだった。
ひさしぶりにそんなことを思い出す。

そして山口でエンゼルメイク(死化粧)を通じて
遺族をサポートするお仕事をされている上野宗則さん。


私もずっと、「死」について語れる場があればと思ってきた。
今までもないわけではなかったけれど、
私自身に語りたいことばはあまりなかった。

やっとだなぁと思う。
誰かと話せるようになってきた。
私は、自分としか対話してこなかったから。
(ブログは、私自身との対話ログだ)

「死」について、考えることが好きだった。
人は、いつか死ぬのだから
「死」について考えなくては、と思ってきた。


一人称の死は「私」の死である。
二人称の死は、身近にいる関係性の深い人の死。
私はこちらのほうがこわい。
遺されたくないと、思ってきた。
自分の死はそれほどこわくない、今は。
こわいのは、痛いのはいやだなぁと思うところからだけだ。

数年前、身近な人の死を経験した。
死は、この世にその人がいなくなることだった。
肉体を持たない人には、触れられない。
「その人は、あなたのすぐそばにいるよ」と言われても
「ならば、姿を見せてよ」と思った。
励まされたくなかった。

でも、いつしか「いる」と感じるようになった。

「死者」はいる。

このように、明確に言えるようになったのは
いま通っているグリーフケア研究所に入ってからだ。
学校での授業ももちろんだが、
そこから派生して出会えたことばの数々によってということのほうが大きい。
わたしがなんとなく感じていたことが
そこでは、ことばになっていた。


slow death cafeでは
まずは、長田弘さんの「花を持って、会いにゆく」という詩が紹介された。
はじめましての人たちと、4名一組になり「死別体験」「今まででいちばん悲しかったこと」
についてもシェアしあった。



あらためて「死」とはなにか、だ。
私の大好きな、「ひらがなでよめばわかる日本語」から抜き出す。

生命が終わることを「しぬ」といいます。人にも植物にも、生命の軌跡とか循環がありますが
どちらの命も、いきなり絶えて「しぬ」のではありません。
本当の死までにはさまざまな段階があります。
ふつう、人間の生命活動が終わることを「しぬ」といいます。
しかし、植物には、これに対応する者として、「しなゆ」ということばがあります。
これは「しな」+「ゆ」で、萎れる(しおれる)こと。
具体的には、水分がなくなることです。
「ゆ」は自然にそうなることを示しますから、
人間でいうと「しぬ」ような状態になることが「しなゆ」です。
つまり、人間の死も、萎れる状態と考えたのですね。
ここからがおもしろいのですが、人間も植物も「しぬ」「しなゆ」が生命の最終段階ではありません。
水分が少なくなっただけ。
みずみずしさのなくなったのが死だったのです。
植物は萎れてもまだ死んではいない。
最後に「かれる」というプロセスが控えています。

じつは、人のからだから魂が離れることを「かる」といい、「離る」と書きます。
王朝文学には「あくがる」ということばがよくでてきますが、これは、
魂がふらふらと体から抜け出てさまようことをいいます。
人の肉体から魂が離れて失われ、草木からは水分が完全に失われる。
それを、古代の日本人はともに「かる」とよび、生命のサイクルの最終段階に位置づけました。

そうして、残された体が「なきがら(亡骸)」です。
これこそ生命の死だと古代人は考えたのではないでしょうか。
ひらがなでよめばわかる日本語/中西進著



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という漢字は

歹 ガツ 
死者の骨
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歹 の甲骨文字
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 ↓
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いっぽう、こっちは人をあらわす。
IMG_7109.jpg

そのもとになる甲骨文字。
IMG_7110.jpg


「死」という象形があらわしているのは

IMG_7113.jpg

人が死者を見て悼んでいる姿だった。


「死」というかたち
があらわすのは、一人称の死ではなく、二人称の死ということになる。



つぎは池田晶子さんの「14歳からの哲学/死をどう考えるか」から。

生死の不思議とは、実は「ある」と「ない」の不思議なんだ。
人は「死」という言い方で、「無」ということを言いたいんだ。
でも、これは本当におかしなことなんだ。
「無」ということは、「ない」ということだね。
「無」とは「ない」ということだね。
無は、ないから、無なんだね。
それなら、死は「ある」のだろうか。
「ない」が「ある」のだろうか。
死は、どこに、あるのだろうか。
死とはいったい何なのだろうか。




若松英輔さんの「死者との対話」にある一節。

死者は、私たちの眼には見えず、ふれることもできないけれど、確かに存在している。
そして、生者は死者と、彼らが肉体を共に生きていたころよりも、
ずっと深い関係を切り結ぶことができる


死者は実在する、だが、死を経験した生者はいない。


私たちが切実な体験として、自らの言葉で語りうるものは「死」ではありません。
死者との日々です。
もっというと、私たちは死について語ることに、もう少し慎み深くなくてはならない。


死者とは、信じる対象ではなく、「感じる」隣人である。




私は、生きている間に「死」を知ることはないのだ。
いなくなったと思った生者が死者となっており、その死者の存在を感じるだけなのだ。


おお、悲みよ。吾れ等にふりかかりし寂しさよ、今にして私はその意味を解き得たのである。おお、悲みよ、汝がなかったら、こうも私は妹を想わないであろう。愛を想い、生命を想わないであろう。悲みに於いて妹に逢い得るならば、せめても私は悲みを傍らに近く呼ぼう。悲みこそ愛の絆である。おお、死の悲哀よ、汝よりより強く生命の愛を吾に燃やすものが何処にあろう。悲みのみが悲しみを慰めてくれる。淋しさのみが淋しさを癒してくれる。涙よ,尊き涙よ、吾をして妹に再び逢わしむるものは御身の力である。(「妹の死」/柳宗悦)



彼は、涙を「御身」と呼ぶ。自分の肉体から湧き出るものだけれど、それに隣人のように向きあう。
涙よ、自分を死者に会わせてくれるのはお前の力だ、というのです。
死者との対話/若松英輔著




死者について語られずに
ただ生き残った者への礼賛、そして励ましがつづく東北大震災。
豊かだった地が、人の立ち入られない場所になってしまったのに
それをどれほどの人が覚えているのか。
戦争で亡くなった方々に対しても
彼らを讃えるのではなく、彼らの死に対して
その死を悼むことの方が、私には必要。

私たちが暮らしている、この地には、おびただしい悲しみがつまっている。

「人間の本質はかなしみとさみしさです」といったのは帯津良一さんだった。



愛する人を亡くして、あるいは亡くしてから愛していたことに気づいて悲しむ人に
悲しむのをやめなさいということほど、残酷なことはありません。
遺族となった人に悲しむのをやめなさいという前に、むしろ私は
励ますのをやめろと言いたい。
励ますことが何か尊いことであるかのように思って、それをし続けるのをやめろ、と言いたい。
皆さんは、本当につらいときに、がんばってねと言われて、力を得たと思えますか。

そもそも、私たちは試練にある人々に励ましの声をかけなくてはならないのでしょうか。
どうしてそう思い込んでしまったのでしょうか。
黙って傍らにいることはできないのでしょうか。
死者との対話/若松英輔著





かなしみのなみだが流れるのは、その人との日々がしあわせだったことの証だ。
こんなに悲しくて、私たちは出会わない方がよかった?
いいえ、私はあなたと出会えてしあわせだった。


死別を経験した人も、していない人も
いまも悲しんでいる人も、もう悲しむだけではなくなった人も
すこし立ち止まって、私と死者、だれかと死者の間でかわされている言葉に、あらためて耳を傾ける。



いまの私ののぞみは、そんな場をつくっていくことである。





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Category : いつものこと
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あん



今日は、「らい予防法による被害者の名誉回復及び追悼の日」だったそうだ。

ここ何年か、ハンセン病に関する情報がなんとなく気になる。
読む小説にも、なにかとこの病のことがとりあげられている。
宮崎駿監督の作品にも、織り交ぜられているということを
私は、監督のいろんな作品をみたずいぶん後になって知った。

元ハンセン病患者が語る激動の半生とジブリ作品に込められた宮崎駿の想い

古くから世界各地に存在していた病気で、
古代中国の文書、紀元前6世紀のインドの古典、キリスト教の聖書など、
日本でも「日本書紀」や「今昔物語集」に
ハンセン病を思わせる記述が残されているという。
有史以来、天刑、業病、呪いなどと考えられてきた。

日本では、明治時代に入り「癩予防に関する件」「癩予防法」の法律が制定され、
隔離政策がとられるようになった。
第二次大戦後も「らい予防法」が制定された。
「らい予防法」が1996年に廃止されるまで、世間からはないものとされたように、隔離され続けた。

現在では、治療法が確立され、
日本においてはあらたな患者の発生はほぼないとされている。


先日、映画「あん」をみた。
poster2.jpg


樹木希林さんが演じる、徳江さんは
東村山に実在する「多摩全生園」に暮らしているという設定だった。

満開の桜と、西武線の黄色い電車。
風に舞う花びら、のちの青葉、ひろがり落ちる紅葉。
希林さんはもはや演技をこえて、そのまま徳江さんであって
「いいのよぉ〜…」と、声が風にのり渡っていく。

色彩と風、あわく、そのなかを人はゆきすぎていくんだな。
私は、その声を、どれほど聴きとることができるのだろう。
この生で。


http://an-movie.com/

「見なければ何もない」は徳江さんのことばだ。

私がいなければ、この満月は無かった。木々もなかった。風もなかった。私という視点が失われてしまえば、私が見ているあらゆるものは消えてしまうでしょう。ただそれだけの話です。でも、私だけではなく、もし人間がいなかったらどうだったか。人間だけではなく、およそものを感じることができるあらゆる命がこの世にいなかったらどうだったか。無限に等しいこの世は、すべて消えてしまうことになります。
あん/ドリアン助川著 


先日から書いている、「14歳からの哲学」にも通ずる。その哲学。
世界は、宇宙は、私が存在するからあるのだ。



いい映画だったな。
じわっと涙がでて、じんわりあたたかく熱がうまれる。

原作がすごいんだな。
読まなくちゃ…。


Category : 映画
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悼む人



「悼む人」と目が合った。
今、ここであえるのは
ごくごく自然なことだったと読み終えて思う。
読めてよかったと思う。

荒唐無稽な話ではある。
読む人によっては、嫌悪されるだろう。
実際、Amazonのレビューにはなかなか手厳しい意見が散見される。


正直に言うと、
私は、「悼む人」になりたい。
とはいえ、小説で描かれていたように、あれだけ数多くの人の死を悼むことは私にはできない。

「悼ませていただきます」
は、小説の中にでてくることばだけれど
こういう使い方は、通常しない。
「悼む」は、「私」が「嘆き悲しむ」ことなのに、
これに「させていだきます」がつくことで
相手に許可を得ようとしているのだから、
なんとなく居心地の悪さを感じる表現だ。


私が悼みをおぼえるのは、現代にみられる死だけではない。
歴史の中に埋もれた人に対しても、悼む。
その時に、私もなにか祈りの言葉のようなものがあればなぁといつも思う。
宗教であれば、もっと簡単なのだけれど。
日本人は「宗教」に対してアレルギー持っている人が多いから
その覆いのようなものをとりはらった、祈り。
日本人に宗教性がないわけでは決してないのだけれども。
ただ、無自覚、無意識なだけで。
メタ宗教の祈りと経典みたいなもの、を見つけたい。
まぁ、どうあっても怪しまれるねぇ(笑)。

メタ宗教について、「現代霊性論」のなかで釈徹宗さんが鈴木大拙の霊性論から次のように説明している。

P.138
「大拙が考える霊性というのは要するに、誰もが持っている宗教心とか宗教性のことなんですね。
これは、仏教とかキリスト教とか神道とかは関係なく、脈々と人間に流れていますが、
それが花開くためには、地下水を吸い上げるための井戸みたいな装置、回路がいる。
宗教が井戸なら、霊性は地下水ということになります」。
(内田樹・釈徹宗『現代霊性論』講談社)。
鈴木大拙の霊性とは、「メタ宗教性」であり、宗教をつくるもの、宗教以前の宗教、それを霊性と名づけた、と。






この小説を読んで、もやもやしたり
嫌悪感を抱いたりするのも、自然なことだと思う。
実際、小説の中でもその疑問が何度も呈されている。

「あなたがなぜそのように生きるのか… 簡単に答えが出るものですか。
またそのように生きる理由を、人にわかったと言われて、平気ですか。
それこそ意味がなくはないですか?」
「或る人物の行動をあれこれ評価するより… 
その人との出会いで、私は何を得たか、何が残ったのか、ということが大切だろうと思うんです」

この節は、読者への問いかけでもあると思う。
あらゆる神からの問いかけと言いかえてもよいのではないかと思う。

「悼む人」がいることで変化していく人間を描くことのほうが大切なんじゃないだろうか。
現実に「悼む人」がいたとしたら、彼と出会うことによって
僕たちにどんな変化が起こるかのほうが本当は大事なんじゃないだろうか
と著者の天童さんもインタビューで答えている。
http://books.rakuten.co.jp/event/book/interview/tendou_a/


スピリチュアルケア
と名付けられた、定義づけのできないなにものかを学んでいる。
この「悼む人」という小説は、
そのスピリチュアルケア、そのものだなと思った。

それは、まるで具体的ではない、
なにがおこるのかわからない「場」である。
未知なのだから、人によっては、不安もあるし、恐れもある。
でも、それもこれもすべて「その人」が問われているにすぎない。
誰のせいでもない。
誰のためでもない。

池田晶子さんの言う「絶対的な存在である自分」を思い出す。

自分が絶対的であるというのは、考えているのは自分だし、見ているのも自分である、
自分でないものが考えたり見たりしているということはありえない、
そう言う意味で絶対的だということだ。


自分が存在しなければ、世界は存在しないんだ。
自分が存在するということが、世界が存在するということなんだ。
世界が存在するから自分が存在するんじゃない。
世界は、それを見て、それを考えている自分において存在しているんだ。
つまり、自分が、世界なんだ。





ケア
というと施すこと、他者に与えるもののように思われるけれど
実は、どんな場も、「私が見ている世界」なのだから
「私自身」というところにかえってくるのだなと
あらためて思う。


本を読んでいて、なんどか涙のでる描写があった。
湿の籠った状態が続いたので、ちょうどいい。
泣けるとちょっとらくになる。

DSCF4962.jpg


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【14歳からの哲学】 善悪とは。

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もう、20年ぐらい前のことだと思う。
友人と話していて、喧嘩になりそうになった。
私は「学校なんかなくてもいい。規則もいらない」というようなことを言った。
友人は「学校がなくなったら、こどもらの収拾がつかなくなる。
規則もなかったらみんな自分勝手なことばかりするやんけ」と返した。

そうなんだろうか。
規則や法律はなんのためにある?
本来ならば、私たちを快適にするものが
社会のルールってやつじゃないの?
規制を「守らなくちゃいけない」とか
学校も「行かなくちゃならない」とか
ずいぶんと窮屈な感じだ。
窮屈なところに押し込められちゃって
なんだか息苦しくてかわいそうな感じだ。

「人はある程度規制かけたり
縛っとかんと勝手なことするからな。
そんなんなったら(学校がなかったら)、めちゃめちゃやで、この世の中」。

その友人は、おそらくこんな話をしたことは
すっかり忘れているだろう。
ずいぶん疎遠になっているが、元気だろうか。

池田晶子さんの「14歳からの哲学」を読み返していて
この会話をふと思い出した。


P.152「善悪」のページに
「なぜ人を殺してはいけないのだろうか」
とある。

ここから、ほぼ書き抜きだ。
ここだと思うところだけを抜き出そうとしたが
この章の、ほぼすべてになってしまった。

私のための記録でもある。
言葉として理解したい。

それでも、ブログとするにはあまりに長いので
ここは!と感じた箇所を大きな文字にしてみた。
目がとまった箇所の、その前後をお読みいただけたらさいわい。




人を殺すのはいけないことだと法律によって決められているからいけない、
というのはどうだろう。
殺人は法律によって罪とされ、それに対する罰として死刑がある。
死刑になるのはイヤだから、だから人を殺さない。
つまり、これは規則が「いけない」と言うからそれに従っているだけで、
自分が「いけない」と思っているわけではないね。
だから、罰せられなければ殺してもいいし、
見つからなければもっといい。
でも見つかると困るから殺さない、これが人を殺したいけれど
殺さない人の、いちばん普通の理屈だろう。
規則だからいけないという理由が、人を殺してはいけない理由として、
どうやら一番強力のようだ。
いけないと決めている規則だって、どうしていけないのかわからないから、
規則で決めているにすぎないみたいだ。

ところで、これは本当にそうだろうか。
人を殺すのがいけないのは、規則だからいけないのか、
ここであらためて問い直してみよう。
それが規則であろうがなかろうが、人を殺すのはいけないことだ
と感じるものが、なお自分の内に、ないかどうかだ。


「いけない」という言い方は、それ自体が禁止という命令であり、
すでに規則を意味している。
法律や社会によってすでに決められていることに反するという意味だ。
だから、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いを、
法律や社会など外のものに従うことではなく、
自分の内側に問うために「なぜ人を殺すのは悪いのか」と言い換えることにしよう。
そして、「悪い」という言葉の意味について、考えることにしよう。

もし、罰せられることさえかまわないのであれば、してもかまわない。
してもいい。自分がよければそれでいい、ということになる。

ところで、ここで注意すべきなのは、「自分がよければそれでいい」というこの言い方だ。

人が何かをするということは、必ず、自分にとってよいと思われることをするもので
悪いと思われることをするはずはない。
殺人や売春をする人だって、そうすることが自分にとってよいと思われるからするのであって、
悪いと思っていたらするはずがない。
ところで、この時、その人にはそれがよいと思われることなのであって
それが本当によいことなのかどうかをその人は知らない。
その時の衝動や欲望に従って行為しているだけで、考える精神によって判断されたことではないからだ。
だから、その人はよいと思っているのだけれど、本当はそれはすごく悪いことかもしれないわけだ。
だとしたら、悪いことをすることが、どうして自分によいことであるはずがあるだろう。
つまり、その人は、悪いことを悪いことだと知らないということだ。
悪いことは、自分にとって悪いことだと知らないからこそ、悪いことをするわけだ。
それを食べれば病気になることを知っていて、わざわざ食べる人はいないように、
自分に悪いと知っているなら、わざわざする人はいないはずだ。
だから悪いことをする人は、それは本当は悪いことだと知らずに、
よいことだと間違えて悪いことをしているということなんだ。

いや、悪いと知っているからこそ、それをしてみたくなるのだと言う人もいるかもしれない。
しかし、悪いと本当に知っているなら、悪いことをするはずがない。
ちょっとワルぶってみたいというだけのことだろう。
やっぱりその人もそれを悪いと本当は知らないということなんだ。
本当には知らないことを知るためには、どうすればいいか。
もう言うまでもない。
精神によって、考えるんだね。


けれども、考えると、面白いことに、さらにこれを逆から考えることもできるんだ。
「なぜ悪い」「どこが悪い」と問う人は、本当は、
それが悪いことなんだということを知っているのではないだろうか。
知っているからこそ、問うのではないだろうか。
なぜなら、自分が知らないことについて、問うことはできないからだ。
「なぜ悪い」「どこが悪い」と問う人は、その限り、
それは悪いことだとどこかで知っているんだ。
しかし、知っているなら、なぜ悪いことをするものだろうか。
いや、それよりも、なぜ人は悪いことは悪いことだと知っているのか。
この方がよほど不思議じゃないだろうか。


なるほど、今の日本の社会ではもっとも悪いこととされている殺人という行為ですら、
ほんの六十年前の戦争の時代においては、必ずしも悪いことばではなかったし、
また、同じ今の時代でも、現に戦争している国々においては、それはやはり悪いことではない。
「悪い」ということは、だから、時代や状況によって適当に変わるようなもので、
いついかなる時でも人にとって絶対に悪いということなどないように思われる。

絶対に悪いということなどないと言うことができる限り、
人は、絶対に悪いということがあると、じつは知っているんだ。
むろん逆に、絶対によいということなどないと言うことができる限り、
絶対によいということが「ある」ということもだ。
どうして人は、それがあることを知っているのだろうか。
いやそんなものは知らない、だって実際に時代や状況によって悪いことなど変わるじゃないか、
いついかなる場合でも絶対に悪いことなどどこにもないじゃないか、
もし知っているのなら、それをそれとして示してみてほしいと、世のほとんどの人は言うはずだ。

まさにここで人は間違えるんだ。
「悪い」あるいは「よい」ということを、殺人や泥棒や売春などの、
悪いとされているあれこれの事柄を示すように示すことができるものだと思っているんだ。
でも、そうやって示すことができるような事柄こそが、まさに時代や状況によって変わるような
悪いことなのだから、もし時代や状況によって変わらないような悪いことを示すことができたなら
それは時代や状況によって変わるような悪いこととと同じ仕方で悪いことであることになってしまう。
それならどうして、それが絶対に変わらない悪いことであるはずがあるだろう。
あれこれの相対ではないからこそ、絶対なんだ。

人は、「よい悪い」という言葉によって、あれこれ具体的な事柄をどうしても思い浮かべてしまう。
あれこれのよいと思われることや悪いと思われること、
でも、それらは具体的なのだから相対的だ。
だから「よい悪い」は相対的なもので、絶対的なものではないのだと、
深く人は思い込んでいるんだ。
でも、違う。
それらのよいと思われることや、悪いと思われることを
そのように思われるようにしているものは、
そこにある「よい悪い」というまさにその意味以外のものではない。
これは絶対だ。これは動かない。
だって、いいかい、君は「よい」という言葉によって「悪い」の意味を、
「悪い」という言葉によって「よい」の意味を、思うことがはたしてできるだろうか。
絶対に、できない。
だから人は、「よい」とは絶対に「よい」であり、
「悪い」とは絶対に「悪い」であるということを、やはり知っているんだ。
「よい」と「悪い」という言葉がある限り、人は「よい」と「悪い」とを明らかに知っているんだ。

それでも人は、その「よい悪い」という言葉によって、あれこれ相対的な事柄を思い浮かべてしまう。
それが普通には、道徳や慣習がよいとしている「よい」であり、
法律や社会が悪いとしている「悪い」だ。
でも、道徳や法律なんてものは、まさしく時代や国によって違う相対的なものなのだから、
それらにおける「よい悪い」が相対的であるのは当然のことじゃないだろうか。
なのに人は、絶対的な「よい悪い」も、相対的な「よい悪い」のような、
道徳や法律のような具体的な形であるのだと思っている。
でも、道徳や法律は、自分の外にあるもの、
時代や国によって変わるものなのだから、どうしてそんなものが絶対であるはずがあるだろう。

善悪の基準を自分の外に求めるという思い込みの根は、とにかく深い。
まさにその思い込みのために、人類において、
道徳や法律は時代や国によって相対的となっているのであって
本当は話がまったくあべこべなのだけれど、ここ数千年、人類はそのことに気づいていない。

でも、君はこれからの人、新しい時代の人なのだから、きっとわかるはずだ。
自分の外側にある道徳や法律がよいとし、また悪いとすることが
よいことや悪いことなのでは決してない。
よいと悪いとを判断する基準は、自分の内にしかない。


だからと言って、それは、人によって違う相対的なものでは決してない。
なぜなら、「よい」という言葉があり、「悪い」という言葉がある。
そしてそれらの意味をすべての人が知っているということは、
絶対的なことだからだ。


わかりました、善悪は自分で判断すればいいんですね、
で、実際にはどうすればいいんですかって、
君は聞きたいんだろ。
それが、ダメなんだ。
自分で判断する以外に善悪なんかないんだから、
そんなこと他人に聞いてちゃダメなんだ。
他人にこうするべし、こうするべからずなんて言われることは一切無視して、
君がよいと判断したことを為し、悪いと判断したことを為さないだけだ。
君はそれができるんだ。
なぜなら、「よい」と「悪い」という絶対的な価値の言葉を、君は、
自分の内に、確実に所有しているからだ。

だから、それぞれの人によって全部が違う相対的な状況において、
絶対的な善悪を実現してゆくことができるんだ。

善悪は自分で判断するといっても、人は善悪と快苦を間違いやすい。
「善悪」とは「快苦」のことだと思うんだ。
快いことがよいことで、苦しいことが悪いことだと思うんだ。
でも、これは必ずしもそうじゃない。
病気の治療は痛くて苦しいものだけれど
それは、自分がよくなるためにはよいことで、決して悪いことではないね。
逆に、からだに悪い食べ物は、おいしくて快いものでも、
それを食べるのは自分に悪いことだとわかるね。
快楽を求めて苦痛を避けるのは、動物の生存の基本だけれども、
善悪の判断は人間にしかできないことだ。
なぜかって、人間は言葉を所有する動物、
「善悪」という言葉を知ってしまった動物だからだ。
知ってしまった限り、人は、よいことしか為すことはできない。
悪いことを為す人は、それを悪いことだと知らない。

悪いと知らずに悪いものを食べる人のようにね。

人を殺すのが悪いことなのかどうかという、最初の問いに戻って考えよう。

人を殺すというのは、一つの具体的な事柄なのだから、
それが絶対に悪いことなのかどうかを言うことはできない。
でも、戦争の時には人は人を殺すことを躊躇しないけれども、
平和の時には、それがもっとも悪いことだと人は感じる。
法律がいけないとしなくても、人はそれをそう感じるのはなぜだろう。

原則を思い出そう。
人は、自分にとってよいと思われることをして、
悪いと思われることはしないのだったね。
すると、もしここで「死ぬ」ということがよいこと、
自分にとってよいことと思われるのなら、人は、他人を死に至らしめる、
つまり「殺す」よりも先に、自分が死んでいるはずじゃないだろうか。
でも、殺す人は自分は死なずに生きているのだから、
殺す人も、人にとっては生きているのがよいことで、
死ぬのは悪いことだと、やはり知っているのじゃないだろうか。
そして、自分と他人は深いところで分けられない、自分とはすべての他人なのだから、
他人を殺すというのは、じつは、自分を殺すということなのかもしれない。
それが自分にとって悪いことだとどこかで知っているから、
人は、他人を殺すのを悪いことだと感じるのかもしれない。
考えられるところまで、考えてみてごらん。
これは本当に深くて底が知れない問いだから。

にもかかわらず、ヒトラーみたいな大悪人を殺すのは悪いことではないかどうか、
もしも君がそういう極限的な状況に置かれたとしたなら、
あらゆる可能性を考えぬいて、判断するんだ。そして、賭けるんだ。
君の善悪、君の全人生を、そのひとつの行為に賭けるんだ。
善悪の判定は「神」のみぞ知る。
このとき、来世への存在への問いは、避けられないとわかるだろう。
極限的な場面ばかりじゃない。
君の行為のひとつひとつ、心の中のあらゆる思いが、
そういうことなのだとわかるだろう。

もしも君が、
善悪は外にはなくて内にあるという事実にはっきりと気がついたなら、
よいことは、「しなければならないこと」ではなくて、
よいことでなければしたくない、よいことだけが「したいこと」、
そういうふうに変わるはずだ。
この時になって初めて、「善悪」と「快苦」は一致する。
本当によいことって、すごく気持ちのいいものなんだよ。




絶対的な善悪について考えるとき、
相対的な善悪が、思考の邪魔する。
はじめて、こういう問いにふれた時には
禅問答のように頭の中がぐるぐるになる。
一通り読んでくださった方も、わかったようなわからないような
複雑な気持ちになる、というのがまずはじめだと思う。

わからない、なんだかもやもやする
と感じた時が「考える」第一歩だ。
それを本当は知りたいと知覚するから、もやもやする。
もやもやを「不必要な感覚」だとして流してしまうと
自分の中の絶対的善悪を解せなくなる。


私のなかの絶対的な善悪は、
相対的な善悪に侵されないように
ここでそのまま書き出してみたことを、
私ならばどういう言葉で語るかを考えようと思う。

自分のもっている言葉で語らなければ
「絶対」とはならないからだ。

この絶対的な善悪を自分の内に感じている限り、
「私を縛る苦しいもの」はなくなり
そこにおいて、私はかぎりなく自由である。

絶対的善悪を問うことがなにより必要なことなのであって
学校に行かなければこどもの統制がとれないということも
規制がなければ人はわがまま放題で好き勝手をする
ということもないのである。

おとな自身の「善悪」への思い込みが解けないとね…。


そして、善悪を判断している「自分」の
その「自分」とはなんなのか、誰なのかを問う必要も。
考えるのと同時に感じている、その「私」のすべてが
「よい」と声をあげること。

感じながら、考えることが大切である、
その理由がここにある。


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