空模様

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Posted by チエ on  | 

低きに立つ神

本との出会いは、おもしろいものだ。
本屋でも「今日はなにか呼びかけられている」と感じる日は
まさにその一冊に出会えるし
図書館でも、数多くの本の中から「ここですよー」と
みずから存在をアピールしてくる本がある。

遠藤周作さんの「深い河」は、どうして手にとって読もうと思ったのか
まるで覚えていない。
大学を卒業して会社員になって、3年目ぐらいだったと思う。

宗教はいらないけれど、信仰はもっているほうがいい
そういうことを言うようになったきっかけの本だ。
今ならば、それを「私自身のスピリチュアリティを掘り起こすためのはじまり」
と言えるが、キリスト教的には「目覚め」、そのはじまりと言えるだろうか。

遠藤周作氏の小説の中のイエス・キリストは
「まことに、我々の病を背負い」
「醜く威厳もない」人だ。
世間から見捨てられたような人々に
救いの手を差し伸べる人だ。
イエス自身も、人々から蔑まれ
弟子にすら見捨てられ、死へと追いやられる。
特別であったり、神秘的な存在ではない。

新約聖書のなかに出てくるというスプランクニゾマイのことは
能楽師の安田さんに教えていただいた。
日本語で「憐れみ」と訳されるこのことばは
古典ギリシャ語のなかでも特別な語句で
新約聖書のなかでのみ使われるものだそうだ。
言葉のニュアンスとしては「内臓が動く」という意味で、
英語では「compassion」。
「com」(ともにある)+「passion」(感情)で
感情の同期を指す。
その感情の同期は、内臓でなされる
ととらえられていたようだ。
「passion」は「Passion」でキリストの苦難、受難を指す。
(詳しくは、「あわいの力 / 安田登著 ミシマ社」)

キリスト教と、イエス・キリストは
ちがうものと私は思っている。
かの人を思うに、なにかに属さなくてよい。
誰かの言ったことがすばらしい、だけで終わるのならば
そんなものは私の血肉にはならない。

私の言ったことを聞いたあなたは、ではどうするのか。
あなたが考えて行動しなさいとイエス・キリストは言っているのではないか。

キリスト教に属していない、属したこともないあなたに
なにがわかるのか、わからないだろう
これは受洗しなければわからないことだ
と信徒には言われそうである。
そんなことを言われそうだと思うから
さらに属したくなくなる。
聖書を読んで、自分で考えるだけで十分だ。
属してなければ救われないというような、
人の観念だけが渦巻くような場はごめんだ。
(ここでいう「観念」は、心理学用語で
「こうあるべき」という考え方、思いのこと。
宗教用語ではまた違ってくる。)

誰の中にも、みずから動ける「ちから」を備えている。
そのことに気づけていないひとりひとりの意識へ
「あるよ」とうながすのが、
教師であったり司祭である先達の役割ではないだろうか。
あとは、人が本来持っている「ちから」にまかせる。
それなのに、教師であること、司祭であることを特権とみなし
誇示するならば、それは教育ではなく暴力である。
イエス・キリストとキリスト教が違うといったのはここにある。
キリスト教が世界宗教となった歴史は、暴力の歴史だからだ。


03121176_1.jpg
http://www.kyobunkwan.co.jp/xbook/archives/9298

大学の図書館で目があった本。
山谷、水俣、筑豊、釜ヶ崎、寿町におけるキリスト教宣教の記録。
改宗者獲得、信徒拡大増加を目的とせず、
イエスならばどうしたかを常に問い続けた、6名のキリスト者による実践。

P.282 解説より/
そもそも神について語るとはどのようなことであろうか。
我々は神についてどのように語りえるだろうか。
「〈神〉という言葉それ自体、また〈女神〉も全く同じように、
それ自体では何も決定的なことは語らないということを明確にしておくことは重要である。
どのような内容が伝えられるかを知るためには、文脈が必要なのだ(『神を考える』)」
と語ったドロテー・ゼレの言葉をここで想起しておこう。
ゼレはこのアイデアに導かれて次のように語っている。
「しばしば尋ねられる『あなたは神を信じているのか』という問いは、
ほとんどの場合表面的であるように思える。
それが、頭の中に神が座している特別の引き出しがあることを意味するならば、
神は決してあなたの生を変える出来事とはならない。
私たちは、本当は『あなたは神を生きているか』と問わねばならない」。
ゼレが語るのは、抽象的な神学用語や告白の文言においてではなく、
私たちが時代と社会の文脈に身をおいて出会う神であり、
そこでの実践において知る神であり、出会ったものの生を変える神である。


P.61 水俣/苦海に座す神
今日の世界は混迷の中にある。
人は神から遠く離れ、さまよい続けている。
神の祝福の招き、呼びかけの言葉を聞くこともないゆえに、
もはや神の望みと私たち人間の望みが一致することはないのであろうか。
足尾鉱毒事件に終生関わり続けた田中正造翁が、百年以上も前に預言した
『亡国に至るをしらざればこれ即ち亡国』の言葉は、
近代以降これを支え続けている私たち自身の在り方をも問うている。
真に病んでいるのは公害被害者たちではなく、
その予防責任、管理責任、救済責任を怠り放棄した側にある。
チッソの製品を日常的に使い快適に暮らしている者もその責任から逃れられまい。
今の時代にチッソ主導型消費生活の生を完全に拒否することなど困難であるし、
またそのことが正しいとも思わない。
ただ、そのような矛盾の中にあってなお現実の世界から目を背けず、自らの足元を見つめ直し、
今与えられている課題を一人ひとりが担うことでしかないのではないか。

もはや加害者、被害者の枠を超え、ベクトルは異なれど、
問われている問題の本質、課題への責任は全ての人に向けられている。
水俣病問題に第三者的立場はない。
いまなお被害者を救済するどころか放置し続けているこの国の
対応を見るにつけ、このまま終わらせるために
最後の患者が死に絶えるのを待っているかのようである。
今の日本は滅びに向かっているかのように思われる。




私自身は、「神」ということばではなく
そこには「自然」ということばをおきたい。
おのずから、みずからのジネンである。

この国は、いつもなにごとの責任をとらずにきた国だった。
人びとは、あっという間に忘れてゆく。
何度も何度も同じことを繰り返し
もう大部分が滅んでしまっているようだ。
ジネンのはたらきにあずけて
かどが落ち、まるくなるのを待っている。

あとどれぐらい待つだろうか。
もう間近のような気もしている。

それは、決して裁きなどではない。
自然のはたらきである。


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みみをすます

DSCF6779.jpg

石神井公園を、津田貴司さんのガイドのもと
耳をすませながら歩いた。

日曜日の朝、7時。
天気予報では、のちのち雨が降るかも知れないという。
水気を含んだ空気は、高い樹々に覆われ、森に籠っている。
少したたずんで、きこえてくる音に集中していくと
水にもぐっていくようだ。
「私」という意識が遠のいていく。

DSCF6778.jpg

これまでにきこえなかった音がする。
それは、耳でとらえているものなのか
それとも肌で感じとっているなにものなのか。

「意識」なのか「感覚」なのか、
明確にはできないですよね
というようなことを言った人がいた。
「私」という意識がとらえているのか
それとも、感覚でとらえているのか。
いったりきたりしている。

DSCF6771.jpg

朝7時と9時では、まったく空気が変わる。
水気を含んで重かった気配は
時間が経つごとに
うごきがでて
さらさらと抜けていく。

早朝の、あの、マンガだと「シーン」と背景に描かれそうな
あの無音の音は、耳だけで
つまり脳だけで、とらえているものではない気がする。

DSCF6773.jpg


昨日、書き出してみた
ブルース・リーの
「Don't think, feel.」と
システマの時に感じたこと。



ゆっくりうごいてみて
そのうごきがただしいか、まちがっているか考える。
このときのただしい、まちがいは
先生によって指摘されるものではなく
自分自身で、感じること。

システマは「サバイブ」、生き残ることがなによりの主眼。
そのためには大切なのは、ちからを抜くこと、呼吸をすること。
これが正しい、いいやり方ということではインストラクターからの評価はない。
その人その人にとって、ラクになる呼吸があるから。
それが『正しい』とインストラクターの価値基準で決めつけてしまうと、
いざという時にその人をはめ込んでしまい、
結果的にその人を苦しめることになる。
そのために自分で自分を「感じる」、「考える」。
もちろん、ファシリテーターはある程度のヒントはくれる。
けれども、正しいか間違っているかの判断は自分でする。
そのための、「考える」「感じる」。

P.9
考えるというのは、それがどういうことなのかを考えることであって、
それをどうすればいいのか悩むことじゃない。
それがどういうことなのか考えてわかっていなけりゃ、
それをどうすればいいのかわからなくて悩むのは当然じゃないか。


と池田晶子先生はいう。


「考える」と「感じる」ことの境目も
いったりきたりなのかもしれない。

「感覚」と「意識」も。
五感を研ぎ澄ませるには、「考える」ということも必要なのだと思う。


DSCF6790.jpg


石神井公園での「みみをすます」には去年も同じ頃参加した。
http://soramoyo.blog43.fc2.com/blog-entry-691.html
去年とはまた違ったことを感じたり、考えたりしていて、おもしろい。



Category : いつものこと
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14歳からの哲学

去年気功について一冊にまとめて本にできたけれど、
「書き出せた」ということで満足してしまって
私自身はそこで止まっている。

池田さんの「14歳からの哲学」は、
おこがましくも私が書き出したかったことがそのまんまで
でも「それ」について、ここまでことばにできているのが本当にすごい。
すり寄りたい。



P.36
言葉は自分の中にある、と君は思うだろうか。
なるほど、自分が話し、自分が書く限り、言葉は自分の中にあると言いたくなる。
でも、言葉の意味を決めたのは君じゃない、誰かわからない、しかも大昔からそうらしい。
だとしたら、言葉は自分の外にある。
言葉というものは、自分の中にあると同時に、
自分の外にある、そういう不思議な存在なんだ。
だとすると、この「自分」ってそもそもなんだろう。
それは、君がそう思っているほど、確かな存在なんだろうか。

しょせんは言葉、現実じゃないよ、という言い方をする大人を、
決して信用しちゃいけません。
そういう人は、言葉よりも先に現実というものがある、そして、
現実とは目に見える物のことである、とただ思い込んで、
言葉こそが現実を作っているという本当のことを知らない人です。
君にももうわかるはずだ。
目に見える物は、目に見えない意味がなければなく、
目に見えないこともまた、目に見えない意味がなければならない。
「犬」という言葉がなければ、犬はいないし、
「美しい」という言葉がなければ、美しい物なんかない。
それなら、言葉がなければ、どうして現実なんかあるものだろうか。
だからこそ、言葉を大事にするということが、自分を大切にするということなんだ。
もしも、「美しい」なんてしょせんは言葉だ、「正しい」なんてのもしょせんは言葉だ、
そんなふうにして生きると仮定してごらん。
その人は一生、美しい物も正しいことも、知ることはできないはずじゃないか。
そして、目に見える物だけが現実だと思い込んで一生を終えるなんて、
あんまり空しい人生だとは思わないか。



ことばなどなくても
相手が考えていることがわかる
テレパシーのようなやりとりができれば
と思ったことが、ちょうど10代の頃にあった。

しかし、私には
ことばがなければ、自分が考えていることも伝えられないし
相手が考えていることもわからない。
ことばがなければ他を知ることがない。
「私自身」も「私」を認識できない。

ことばのない世界がどうであるか、もう知ることはできない。
「ある」。「ない」といくら仮定してももう「ある」ことしかない。


P.67
自分が絶対的であるというのは、考えているのは自分だし、見ているのも自分である、
自分でないものが考えたり見たりしているということはありえない、
そう言う意味で絶対的だということだ。
この自分を「大きい方の自分」と呼ぶことにしよう。
中学三年生の君は、「小さい方の自分」だ。
これ以後の「自分」はすべて「大きい方の自分」の意味だ。
君は驚くと思うけれど、この意味で、「世界」つまりすべてのことは、
この大きい自分の存在に依っている。
自分が存在しなければ、世界は存在しないんだ。
自分が存在するということが、世界が存在するということなんだ。
世界が存在するから自分が存在するんじゃない。
世界は、それを見て、それを考えている自分において存在しているんだ。
つまり、自分が、世界なんだ。



P.67
自分が世界であり、世界は自分において存在しているのだから、
当然、他人というものの存在もそうだということになる。
世界にはたくさんの他人が存在していて、それぞれに生きているけれども、
それらはすべて、自分が見ているその光景だ。
もし自分が存在しなくて、自分が見ているのでなければ、
それらは一切存在しない。世界も他人も存在しない。
なぜなら、それらを見ている自分が存在しないからだ。
でも、「自分が存在しない」ということは「ない」。
だから、やっぱりすべては存在するんだ。
存在しないということはなくて、世界も他人も存在するんだ。
すべてが自分として存在するんだ。
なぜなら、自分でないものが存在するということはないからだ。


p.68
自分は自分でしかないことによってすべてである。
矛盾しているように聞こえるけれども、
これも自分というものの存在の真実だ。
矛盾というのはそれ自体が真実であるということも、
ちょっと覚えておくと役に立つでしょう。
自分はすべてなんだから、すべては自分である、
これは矛盾でないからわかるね。
「すべて」というのは、文字通り、すべてのことだ。
他人も、他人の体も、他人の心も、全世界、全生物、全宇宙、
つまり森羅万象だ。
大きい方の自分の、いちばん深いところでは、自分はすべてであり、
また事実全てとつながっているということだ。
他人の痛みはわからない、他人の心もわからないのは、
それは小さい方の自分からしか見てないからだ。
小さい自分は、それぞれ別々の人間だからね。
でも、他人が痛がっているのを見て、痛そうだなと思う、
悲しんでいるのを見て、一緒に悲しくなる、
これだけでもずいぶん不思議なことじゃないだろうか。
そのとき、人はどこかで、その人は自分だと知っているんだ。
大きい自分で小さい他人同士はつながっているからだ。
大きい自分のうーんと深いところまで到達しているような人、
たとえばお釈迦様とかキリストとか、そういう人なら、
他人の痛みも他人の心も、自分の痛み自分の心として、
きっと一瞬でわかってしまうに違いない。
「メビウスの輪」を知っているね。
内側を辿って行ったら、そこは外側だったというあれだ。
君は「自分の内側」と言った時、体や心の内側のことを思うね。
でも、その内側が、外側の自然法則や快感原則によって動いているのなら、
その内側って、実は外側のことじゃないだろうか。
内って、外なんじゃないだろうか。
「自分の内」「自分の外」なんて、よく考えれば、
決して言うことはできないことなんだ。
すべてである自分には、内も外もないからだ。




「考えるため」の教科書。
得られるものは「答え」ではなく、「問い」つづけること。

わかんないと思うことを知りたかったのだ、ずっと。
わかったわけではないけれど、ちょっとわかったことが今はある。
悩まなくていいことと、ずっと考え問い続けていくことのちがいみたいなもの。



ここのところ、池田さんの本をつづけて読んで、
なんだかいろいろすっきりしている。
そうか、それでいいんだよなって。
「あなた、変わってるんだから、誰かに迎合せずにわが道いきなさいよ」
って、何年か前にいわれた時に
「えー、私はみんなとおんなじがいいんです」って思ったのは、
味方が誰もいないってことがこわかったから。
こどもの頃からこんなことを考え続けてきたけれど、
それを共有できる人がいなかったから。
みんなと同じがいいなんて、今は思わない。
誰でもいいはずはないし。


考えるな、感じろ。

Don't think feel.
It's like a finger pointing away to the moon.
Don't concentrate on the finger,
or you will miss all the heavenly glory.

ブルース・リーの言っていることは結構、多くの人が目標としたいところであるし
私もそうありたいと思ってきたのだけれど
でも、やっぱり立ち止まって、
ゆっくり動いてみて、動きの詳細を理解して、からだになじませていく
ということも必要なんだな。

というのも、最近はじめたシステマでのこと。
初めての動作がでてくると、混乱して
どう動いていいかわからなくなるのだけれど
「からだで覚えるには、まずはゆっくりゆっくり動いてみることで
そこではたらくべき筋肉が、その動きを理解するから。
はやく動いてしまうと、見た目だけが同じ、表面だけのものになってしまう」
というようなことを北川さんがおっしゃったこともあったので。

考える
とは「脳」だけのはたらきではないんだろうね。

単純に、誰かの言うことを鵜呑みにするな
ということもあるね。
ゆっくり咀嚼しろ、と。


池田さんは、今の私の年で、8年前に亡くなっている。
彼女が死していても、こうして言葉として遺していただけているから
私は池田さんと出会うことができている。
ありがたいことである。
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かんがへるわたくし。

そして、私の本。

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【魂を考える】次のキーワードは「残酷」

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池田晶子さんの「魂を考える」のなかで
何度も読み返してしまう箇所を書き出してみる。



「少年Aとは何者か」と題された
神戸連続児童殺傷事件、少年Aに関する論考である。


P.114
「少なくとも、現代という特殊な時代にに至る前の人間の世には、人間ならざるもの、
すなわち異界の魑魅魍魎もまた生きていたということを、
ある深い納得とともに思い出すことはできるのだ。
理屈で理解できないものは「存在しない」とすることによって、
理屈で理解できないものへの感受性を失ったことをも忘れているのが、現代人であろう。
しかし、理屈で理解できないということなら、「自分が存在する」ということの事実の
畏るべき神秘、これをいかに理解するか。
自分が存在するというこの事実の神秘を理解しようとして、「宇宙について」、
考え始めれば、神が出てくるし魂も出てくる。神界魔界の魑魅魍魎もまた、
当然出てこざるを得なくなるのだ。「存在する」、宇宙が存在するということは、
要するに、そういうことなのである。
論理的思考の裂け目から広がり開ける宇宙のほうは、確かにそういう姿をしている。
古代の人々は、こういった事柄を、
こういったこざかしい理屈によるのでなしに、直感的に理解していた。
自分が座っている隣に粗霊が座っている。
部屋の隅には座敷童が立っている。
河の淵には河童が住み、村の社には神様が住んでいる。
隣村に鬼が出たぞ、子供の首を取って食ったそうだ。
ああ、恐ろしや、祓いたまえ清めたまえ—。
民俗学の方面に明るい知人の言では、
「ああいったことは珍しくない」
のだそうだ。「珍しくない」というのはむろん、民俗学の視点からみれば、という意味である。
「それなら、なぜ民俗学者はそう言わないのか。
同時代評論家に言わせたままでいいのか」
と言ったら
「とても言えない」
のだそうだ。ああいったことは、人の世では古くからたびたび起こってきたのだ、
などということは、とても言えない。

普通のことを普通に言えないのが、現代と言う時代の特殊なのだと。
またも逆説になってしまう。あのような出来事を「事件」、「現代的な事件」
と解するまさにそのことが現代的だということだ。
しかし、昔話やお伽話のもつあの独特な非人情、残酷さとは
人が不可解な出来事に出合って驚くときの、裸形の感触に他ならない。
しかし、「人権」「平和」「みんな仲良く」の観念で着ぶくれした現代人には、
もはやあの感触がわからない。あのような出来事は
「あるまじき」「あってはならぬ」出来事なのだ。

けれども、本来、出来事というものはつねに、
「あるまじき」「あってはならぬ」というかたちで生起し、
人を乗り越えてゆくものなのではなかろうか。
自分が生まれ、自分が死ぬという出来事自体が、他ならぬそのことだからである。
人は驚き、畏怖し、そして理解するのだ、「自分」などというものは、
さして確たるものではないと。
「近代的個人」という人工的な観念の脆弱さが、少年Aを巡る出来事において、
見事に破綻するのを私は見る。あの少年は「何者」か、
あの少年の「自我」と思われるものは那辺にあるのか、
我々は皆目把握することができない。
しかし、十四歳の子供は、普通、理由なく人を殺さないというのは、
我々の側の先入見であって、「彼」は、我々に見えているところの彼ではないのだ。
「彼」は、十四歳の某という子供ではないのだ。
A=Aではない苦痛を述べようとしたものだ。
「俺は—」と言って、「誰だ」と問わざるを得ないその苦痛を「深淵」と、
そう彼は明言しているのである。最後のほう、引用しておこう。

今まで生きてきた中で、“敵”とはほぼ当たり前の存在のように思える。
良き敵、悪い敵、愉快な敵、破滅させられそうになった敵。
しかし最近、このような敵はどれもとるに足りぬちっぽけな存在であることに気づいた。
そしてひとつの「答え」が俺の脳裏を駆けめぐった。
「人生において、最大の敵とは、自分自身なのである。」
魔物(自分)と戦う者は、その過程で自分自身も魔物になることがないよう、
気をつけねばならない。
深淵をのぞき込むとき、その深淵もこちらを見つめているのである。
「人の世の旅路の半ば、ふと気づくと、俺は真っ直ぐな道を見失い、暗い森に迷い込んでいた」


「彼」、もしくは彼に憑いた「魔物」は、おそらく、数千年の年古りたる魔物であろう。
「自分」を見出すために、文字通り地獄の戦いを続けてきたのでもあろう。
私は、この理解の仕方が「おかしい」というふうには思わない。
どころか、これ以上「理に叶った」理解の仕方はないはずだと思っている。
ただし「理」とは、狭義の「合理」を意味しない。
森羅万象、宇宙の理(ことわり)である。



P.124
ところで、善とも悪とも無縁のために、「堕落した」というのとも違う奇態な魂が、
この宇宙には時折出現する。それは、善なる魂、悪なる魂、渾然とうごめいているそこへ、
こつ然と現われて、そのさなかを横断し、衝突し、深い傷を与え、また忽然と姿を消す。
善とも悪とも無縁のために、善と悪との深淵を、自身に求めて
永劫の時間さまよわなければならないあの少年のような魂は、私にはとても哀れに見える。





人は、清廉な存在ではない
とどこか思ってきた。
そして、私は人のそんな部分に
どうしても気がついてしまう。
「清廉潔白」の対義語は「佞悪醜穢(ねいあくしゅうわい)」だそうだ。
どちらかというわけではなく、どちらも渾然とある。
「なんでもないような人」にも。
自分の中にあるからこそ、みえる。


ただ、それは、泥を搔き出すようにいきなりひっくりかえすように
ひらいてはいけないものだとも思う。
あるもんだと思えたら、それをどうにかしようとも思わなくなる。

「澄んだ水のその底に泥がある。
水を上から注ぎ入れると、一時的に泥が舞い上がる。
泥が浮かぶあいだは見えなくなることもあるし、苦しく感じることもある。
けれども、水を注ぎ続けて、泥をうつわから流していくのだ」。

「うつわをひっくり返して一気に泥を洗い流したいと思うかも知れない。
でも、それはできない。やったら死ぬ」。

この、「水を注ぎ続ける」というおこないが
宗教によってになわれる部分であると私は思う。






先日、このツイートを見かけた。
最近、畑中さんは、「『日本残酷物語』を読む」を刊行されたそうだ。
次、読む本にする。
池田晶子さんの「魂を考える」から私が得たキーワードは「残酷」。













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魂を考える

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池田晶子さんのことは、若松英輔さんを通して知った。
先日、図書館で「魂を考える」と目が合い、借りた。
借りて、一気に読んだ。

最近、書きたいことが浮かばなかったのは
若松英輔さんの講座に参加して、
私が書いたものを読んでいただいたのだが
「よいです。でも、もう一度書いてみてください。
感じることの、もう一歩先の地平を見るような心地です」
と返信をいただき、
なんとなく自分自身のすべてを言い表されたような気がして
考え込んでしまったからだ。

考えるばかりで、私はそれをおもてに取り出せない。
誰かの悲しみについても、
表面をなでるばかりで、踏み込めないんじゃないか
という恐れを感じてしまった。

4月に入って、学校が新たにはじまったが
しょっぱなから授業が荒れるという事件もあったりして
なんとなく耳が利かないという感覚だった。
離人症という病があるが、これはちょっと近いんじゃないか
と思ったりしていた。
一年目はあれだけ楽しかった授業だったけれど、
今、先生が話す声は遠く、私の耳に入ってこない。


5月に入り、太陽が顔をのぞかせはじめ
気温も上がった頃から、少しずつ「私」が戻ってきた。


私は私だけれど、私が私というところの私とはいったい誰?

P.26
「哲学ブーム」の背景としての「私探し」「生き方探し」とは、さんざん聞いた。
現代社会の空虚な自我たちが、根拠を求めて一度は縋ったオカルトの夢が破れ、
次は「ソフィー(の世界)」だと。
私は思うのだが、そのような仕方で〈私〉を探そうとする、探せると思うそのことが、
根本的に、誤っている。
したがって、そのような仕方で人々が「私探し」をし得ているものと思い、
ブームを後押しするマスコミと識者の皆さんは、二重に誤っているということになる。



P.26
さて、ソフィーもまた「私は誰?」と問う。しかし、この問い方が、すでに誤っている。
これは明らかだ。
なぜならば「私は誰?」と問いつつ、彼女はそのままその答えを、
哲学者たちの学説の中へ求めにゆくからだ。
哲学は「お勉強」することでなく自分で考えることだと、著者は繰り返す。
まさに、その通りだ。哲学は「お勉強」になった刹那に、哲学でなくなると言っていい。
しかし、「自分とは何か」という自分にとって最も「切美な」はずの問いを、
自分で考えるより先に他人の考えの中へ答えを求めにゆこうとするソフィーの態度を、
「お勉強」と呼ばずに何と呼ぶべきか。

P.28
おそらく、人が、哲学はわからない、哲学をわかりたいと言うとき、
わかっていないのは本当は「哲学」ではなくて、「自分で考える」ことの方だ。
人生や自分について、自分で考えるその仕方をわからない、と言っているのだ。

しかし、敢えて私は言うけれども、「私探し」と人が言うとき、
その〈私〉は、実は、考えられるべき〈私〉ではない。
思い悩まれ、やがて癒されるべきものとしての〈私〉なのだ。
この〈私〉は、哲学思考の対象としての〈私〉ではない。
なぜなら、思い悩まれ、やがて癒されるべものとしての〈私〉は、
そのような〈私〉として、すでに「答え」だからだ。
存在する全ての人間が、自分のことを同じ語〈私〉と呼ぶものだから、
話は甚だ混乱するのだが、右のような〈私〉を「社会的な〈私〉」と私は呼びたい。
「私とは何か」と問うて、性格や帰属や来歴や、せいぜいDNAが答えになり得るような〈私〉だ。
人はそれを喪失したと思い、どこかへ探しにゆかなければと思う。
対して、性格や帰属や来歴や、その他一切の属性とは無関係の〈私〉、
したがって、喪失のしようもなく常にここに在る〈私〉、これを
「形而上的な〈私〉」と私は呼んでいる。
哲学的な思考が対象とするのは、こちらである。



池田さんの本を一通り読んだ後にあったのは
うつわに水を注がれて、底にたまっていた澱が舞い浮かぶような感覚。
からだのなかが動いた。


私は、例えば、「愛」ということばはもうあまり使いたくない。
もうというよりは、もともと使いたくないと思っていたし
どうしても使わざるを得ないという時のみ使い、
多用しないようにしていた。
私にとって「愛」と言い表されるなにものかは
ことばを尽くして説明できないものであり
もう「それ」としかいいようがないものだったからだ。

それでも、「それ」から「なるようになるべくしてある」ことばへと
池田さんは彫りだしていったのだなと思った。

夏目漱石の「夢十夜」第六話にある、運慶が仁王像を掘り起こす描写。
「木の中にすでに存在しており、仏師はそれのなりたい形を取り出すだけである」
というようなことがそこには書かれている。



P.67
ウィトゲンシュタインは、どこかの断章で言っていた。
〈犬の振舞を見ていると、その〈魂〉を見ているのだ、と言いたくなる〉
振舞うものに対するとは、その〈魂〉に対するということだ。
振舞そのものが、〈魂〉なのだ。
それが、ある人がその人であるというまさにその意味だ。
そうでなければ、その人はそのように振舞うが、
その〈魂〉は実は別であるという議論が成り立つことになる。
しかし、他人は欺けても、自分を欺くことだけはどうしてもできない、
ということの真の意味が、おそらくこれである。
〈魂〉は、どのように振舞ったとて、全一的に「その人」である。



P.166
犬とは、犬の服を着た魂である。そして、人間とは、人間の服を着た魂である。




抜き出したい箇所はたくさんあるが、それではほぼ一冊を書き出すような行為に近い。

私は池田さんの書かれていることを、知っている。
池田さんも、はじめてヘーゲルを読んだ時の端的な印象は
「あ、私はこれを知っていた」といったものだったと書かれていたが
これ、すごくわかる。
私もそれ知ってるってよく思う。
かつて学んだことがあるとしかいいようのない、それ。

知っているだけで、こんなふうに書き表せないけれど
知っているならば、何度も何度も書き表してみることを
試みなければとあらためて思う。


若松さんが「生きる哲学」の冒頭に書かれていた
「ときに人は、たった一つの言葉を見つけるために、
人生のある時期を費やさなければならないことがある。
しかし、その言葉と出会うことができたなら、けっして徒労だったとは思わないだろう。
一つであっても言葉は、人生を根本から変えることがある。
むしろ、言葉だけが、そうした力をもっている」。

私たちは多くの言葉を知っている。
だが、知ることと生きることは違う。
知ることはしばしば対象の周辺をなぞることに終わる。
しかし、生きるとき、人はそれと深く交わらざるを得ない。
ある仕事について知る、ということと、ある仕事を生きることは大きく異なる。
仕事の労苦をもって感じている者だけが、そこに潜んでいる喜びを見いだすことができる。
それは、言葉でも同じだ。ある言葉と、本当の意味で交わることができれば、
困難は困難のままでも人はそれを生きぬくことができるように思われる。
私の場合はそうだった。だが、やはり私もそうだったように、
人はしばしば、自分の出会うべきものが言葉であることを
見失っていることがあるかもしれない。




書いても書いても、
まだそれが「なりたいかたち」には届いていない。
まだ「書く」ことにさえ至れていなかったと気づく。

またあたらしくはじめよう。
書くのだ、私の魂よ。
そこにたどりつきたいと、心から欲するのだ。

よく書けるようになりたいなら、よく読むことだ。
よく読めるようになりたければ、必死に書くしかない。
よく読むとは多く読むことではない。
むしろ一節のコトバに存在の深みへの通路を見出すことである。
必死に書くとは、これが最後の一文だと思って書くことにほかならない。
たとえば、もうこの世では会えない人に、今日書いた言葉だけは届くに違いない、
そう思って「書く」。本気でそう思えたら、文章は必ず変わる。
心からそう感じることができれば「読む」態度も一変する。
「書く」とは、単なる自己表現の手段ではなく、
永遠にふれようとする試みとなり、
「読む」とは、それを書いたものと出会うことになるだろう。
そこに見出すコトバは、時空を超えてやってきた、
自分に送られた手紙であることを知るだろう。











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Posted by チエ on  | 0 comments 
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