空模様

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Posted by チエ on  | 

この世の理

昨日のシステマはタントウ功、そのままだった。
気功をやっている人みんな、今日のレッスンを受けたらいいのにと思った。

「タントウ、立つだけだけれどパワフルです」と言うだけじゃない、
どうパワフルなのか説明できるアプローチができるようになるんじゃないかな。

地味な功法なので、タントウだけをやる気功教室は少ないと思う。
でも、「立つ」ためにどれほどのちからを使っているか
それに気づくことのできるなによりの功法でもある。
(そうそう、最近スタンディングデスクを使っている人を見かけるけれど
私も時々立ったままパソコンを使うようにしている)

動物は立てないと、本当は生きていけない。
(もちろん、現代の人は医療があるから生きていけるの)
人が生きている基本も「立つ」こと。

立ち続けていると
からだのどこかに痛みやこわばりがでてくるけれど
そこにつまり偏りがあるということ。
微妙なバランスで立ち続けていることに気づく、
私を立たせるためにある筋肉に気づいてく、
その連続がタントウ功だと思う。

気功も、さまざまにある武術やボディワークも、
その名前自体は富士山に登る登山口のようなもの。
その山に登り、そして頂上に立つ、肉体を持つ人間の限界を知ること。
そのプロセスは、どこから登ってもそんなに変わらない。
その人にあった、道にあったものが得られる。

そのプロセスを経ながら、
この山が抱えている水や樹海や、そして山から眺める空、星、海。
もう数えきれないそのはたらきをみること。

北川さんは
「システマはとても大きいもの。自分は小さい。
その小さな自分のままでいるのはイヤなんですよ」
というようなことを仰っていた。
(後で、そのことばをあげてくれるといいな。
似たようなことは、ここに。この記事オモシロイよ。
システマ随想 第一回 「3つのレベル」
私にとっても気功はとてもおおきな、宇宙のシステムのようなもの
ととらえているからこそ、他をいろいろ試したい。

私は、「それ」を知りたいんだよね。
きっと生きているうちにはわかったということのない「それ」のこと。
だから気功という名前でくくられているもの以外のことを知りたい。
そして、あれもこれも「気功」だと言いたい。

北川さんも
「成瀬さんの場合はシステマも気功の一部、という風に受け取ってもらえればと思います。
いずれにせよこの世の理ですから」
と言ってくれているので、システマは続けていきたい。

システマは格闘技なので、気功ではやらないことがたくさんある。
もしかしたら、気功気功と言っていたのに
いつのまにか、システマシステマと言っている日があるのかも知れないが
富士山が美しい山であることには変わりがなく
それは宇宙のシステム、この世の理を学んでいることに変わりはない。


たとえば宗教も、ひとつの宗教のことだけではなく
さまざまにある教えについて知っていくことが
豊かさにつながるのだと思う。
知った上で、HOMEに戻るんだなぁと。
ここでいうHOMEは、気功とかシステマとか名前で表されるものでもあるし
まぁ、この世にうまれる前の「HOME」でもあるかな。


・…………・・………・………・………・

レポート効果で書き留めておきたいことがたくさんでてくる。
書き留めておかなければ忘れる。
忘れてもいいのだけれど、書き留めておけば
何年か後に「ほー」とあらためて新鮮な気持ちで受けとめることができる。

今は、見るもの聞くものが
「ああ、これは!」とうちふるえる連続なのだけれど
数分後には、あれは何で見たんだっけ
と、そこから掘りかえす作業が始まったりする。

みて、「!」となった瞬間に留めておかないと
だーだーと流れていってしまう、私の容量の少ない記憶。
よく年配の方に「まだ若いのに」と言われたりするが
これは老化だけの問題ではないと思う。
先生の仰ることをノートに書き留めながら、数秒前のことを
思い出せないなんてことは学生時代から私にはある。
これは、表向きにはみえないけれど障害なんじゃないかしらと今は思うことにしている。
みんながみんな、同じようにできるもんじゃないんだよ。

IMG_6735.jpg

先日、誕生日を迎えました。
お祝いのお花。うれしい。

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隠された信仰

面接法面接法
(2002/01/10)
熊倉 伸宏

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引き続き、熊倉先生の話。

先生の著作がどれもすばらしくてうちふるえる。
この本は、臨床家や対人援助に携わっている方だけではなく
人と関わるすべての人が読んだらいいんじゃないかと思う。


面接法というタイトルがついており
実際、心の相談にきた人に向かい合うための本である。
けれども、面接の技術についてのみを書かれたものではなく
他者を受けとめるための思想書とも言える。


・………・………・………・

自分には助ける力があると過信して、自信たっぷり、面接をする人がいる。
相談にきた人に説教したり、自分の考えや思想や宗教を押しつけたりする。
本人は満足であっても、相談にきた人こそ迷惑を被っているのである。
この面接者は、先生からも面接の相手からも
学ぶ姿勢を持たない。


・………・………・………・


こういうのは、セラピストのなかにもたくさんいるし
実際、私もそういう傲慢さを持っていた。


・………・………・………・

「外科医が血を見て卒倒していたら仕事にならないだろう。
心の専門家が人の苦しみを直視できないでどうするの」。

「強くなければ生きていけない。しかし、
優しくなければ生きていく資格はない」とは
有名な小説の主人公である。
しかし、面接者は通常は、映画カサブランカのボガードのように
格好良くはない平凡な人間である。
それが専門理論を学んで研修することで
そのように強靭になれるのだろうか。
つねに、それができる人間を私は知らない。
容易に、それができる人も知らない。
人にそれだけの強靭さがあるか否かも、私にはわからない。
このような理由で、私は心の相談を「不可能な仕事」と呼んでいる。
そう名付ければ、人の相談に乗るということが
面接者自身の心をも侵す危険性を持つことを、自覚できるからである。
「人の心に素手で触れば火傷するのだよ」。
危険性の自覚が、今、私の知る貴重な専門知識である。
その点に気をつければ、面接者には発見の喜びが与えられる。
不可能と思えた問題を、来談者が「自分」で解決していく過程を
目の当たりにできるからである。来談者が、いとも簡単に
不可能を可能にする瞬間を、「一緒に見ること」ができるのである。





肯定の心理学-空海から芭蕉まで肯定の心理学-空海から芭蕉まで
(2012/10/13)
熊倉伸宏

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先生は、「肯定の心理学」のなかでこう書かれている。


自然の前の人間の無力。
そこで人は何を見て、何をするか。
そこに人間による人間の間が在る。
心の臨床家が避けられないテーマが在る。

・………・………・………・

311の震災後
「心のケアおこないます」と言って
多くのカウンセラーもどきが被災地に入った。
しかし、その多くが恐れをなして逃げたという。
想像以上の被害に、どうしていいかわからなくなったのだという。

その結果として
現地の人たちは「心のケアお断り」を掲げた。
人の傷を無理矢理こじ開けて、
おさめもせずに帰っていったということだ。


私も実際、現場に立った時に
ぐらぐらになった。
苦しかった。

まず、私自身の精神的支柱が必要だと感じた。
それが、いまのグリーフケアを学ぶきっかけへと繋がっていく。

・………・………・………・

自己肯定であれ、他者肯定であれ
「人間を肯定する」ということは、肯定か否定かと判定する立場を捨てて
「なんらかの普遍的なもの」へと質的飛躍を遂げること。
明確には語られていない、さらに深い水準で
「人間であること」、そのものへ私は肯定的態度を示しているのだ。
私が肯定的態度に導かれるのは、たぶん、私の前にいる彼ら自身の心に
なんらかの肯定的メカニズムが作動している反映なのだ。
彼らの絶望にこそ、私は肯定を感じているのだ。


・………・………・………・


熊倉先生の師、土井健郎氏は
「治療者が『隠れた信仰』を持たなければ
患者の示す真実に立ち向かうことができない」
と書いている。

熊倉先生自身は
「存在は肯定」ということをこそ、
「隠された信仰」としていることを
著作「死の欲動」のなかに書かれていた。


・………・………・………・

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先生のことばとの出会いはすばらしかった。
私がこの数年求めていたものだった。
ここをもう少し噛み砕いて、私の支えとなるものとしていく。



Category : spirituality
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死の欲動 

後期の授業にあった「対人援助論」。

犯罪被害者、母親、青少年、高齢者、自死遺族、自殺念虜。
さまざまな悲嘆があり、アプローチされるべき方向はある。

どの先生のお話も、吸い込まれるようにうかがったが
一番気になったのは、精神科医の熊倉先生だった。

授業は、正直言うと何について語られているのか
はじめはよくわからなかった。

先生は落ち着かない様子で
てもとにある資料をなんどもぱらぱらとめくったり束ねたりしていた。
のらりくらりと、要領を得ない話し方でもあったが
核心を突かない、その先生の間合いというか余白のようなものに
先生と話すことで落ち着く患者さんは結構いらっしゃるだろうなと感じた。

先生の授業を聞いただけでは、とてもレポートは書けそうにない。
先生のお話しされたことをもう少し理解したく
先生の著作を図書館で借りてきた。

死の欲動―臨床人間学ノート死の欲動―臨床人間学ノート
(2000/05)
熊倉 伸宏

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先生はちょっとへらっと笑いながら話すのでゆるい雰囲気だなぁと感じていたが、
書き出す文章はとても繊細ながら凛々しい輪郭があった。
そして、情緒にあふれていた。


人間は清廉な存在ではなく
むしろひどく欲深く、残酷で非情だ。
このところのニュースを見ていてあらためて思う。
自分を棚には上げていない。
私自身もそうだ。

知ってしまうと、世界は絶望に満ちあふれていて、なかなかにヘビーである。

知らなければ知らないですむ世界だけれど、
でも私は「知る」ことを選んだんだなとこれもまたあらためて思う。
光よりも闇にひきつけられるのは、
闇の中でちらりと見えるひかりがとてもうつくしいことを、
私も知ってしまったからだと思う。

先生の著書の中の一節を引用する。
「絶望。人は闇をおそれる。闇の中で目を閉ざそうとする。
しかし、闇の中で、無力に留まるとき、
そして、そこで目を開くとき、絶望という漆黒の闇、破壊衝動、
そのもっとも深いところに、微かな光のうごめきを見る。
必要なことは、闇の中で目を開くこと。
やがて、その闇こそが、「重々たる」光のハーモニーの舞台であると知る。
闇こそが生であると知る。
いつか、その光に心を奪われ、『きれいだね』と口にする。
絶望こそが、生の彩り、生の証であったことに気づく。
その時、人は自我の微小を知る」。

「闇の中で目を開くこと、それさえできれば良い。
『共感』と『癒し』を支えるのは、『見ること』、
そのための一寸した勇気だけでよい。
治療者に出来ることは『患者と一緒に見ること』しかない」。
肯定の心理学/熊倉伸宏



ここ数日、SEKAI NO OWARI「Dragon Night 」があたまからはなれない。
http://www.dailymotion.com/video/x28fznq_sekai-no-owari-dragon-night-2014-10-13_music
http://www.nicovideo.jp/watch/sm25439891

彼らは、世界の終わりと自分たちのグルーブを名付けているけれど、
それは終わりを望んでいるからではなく、
終わりからはじめようということだと語っていた。
今の時代をあらわす人たちだなぁと思う。


熊倉先生は、臨床の中で
多くの自殺念虜をもつ人々に出会って来た。
彼らの言う「死にたい」は「生きたい」に聞こえると仰っていた。
治療者の役割は、ことばの裏に隠れたものを言語化することを助けるのである、と。

対人援助の中にもいろいろあるのに、
このテーマに向かうのは、先生の人柄からだったのか。
意識にはのぼってなかったけれど、結局ここ。
「死の欲動」、私もそこに親和的自我を持っているからなのだろうと思う。
(もうすぐ命日だなー)

IMG_6748.jpg

図書館で借りた本なので、線を引く代わりに付箋をはりまくり。
手元に置いておきたい本であるが、絶版でもう在庫もない。
古本で探すしかない。
早く手に入れて、線を引きまくり何度も読み返したい。


以下(「read more」のリンク先)はレポートの草稿。
興味のある方のみどうぞ。

Category : spirituality
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生きよ

2013年、宮崎駿監督の「風立ちぬ」をみた。

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風立ちぬ、いざ生きめやも

と訳されたポール・ヴァレリーの詩『海辺の墓地』の一節
「Le vent se lève, il faut tenter de vivre」。
直訳は「生きることを試みなければならない」だそうだ。
堀辰雄が訳したものは誤訳だと言われている。

「生きめやも」は
「生きようか、いやそんなことはない」になる。
これだけでは生に対して消極的な訳だ。

堀辰雄自身の病、そして彼の恋人の病。
「死」を予測しながらの「生きめやも」は
「生きねば」であると同時に
「生き続けることは出来ないだろう」
という儚さのあらわれ。
しかし「いざ」がつくことで
「さあ」という意のある語感となり
「生きようじゃないか」と含意される。



それからほどなくして見た「かぐや姫の物語」。

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かぐや姫が月から地球に降ろされる話は、
キリスト教いうところの「原罪」をあらわしているように私は感じた。

キリスト教で説かれる「原罪」は、
日本語で受けとめられる「罪」とは意が異なる。
アダムが善悪を知る知識の木の実を採って食べたことが神に逆らった罪となる。
そしてその罪が全人類に与えた影響のことを指す。

その実を食べるまで、人は楽園にいた。
なんの苦しみも悲しみもなかった。死もなかった。
けれども、食べてはいけないと神から言われていた実を食べてしまい
「分別(これは仏教用語。いわゆる「聞き分けのよい」という意味ではない)」
を知ってしまった。
知恵をつけてしまった。
善悪を知ってしまった。
そして楽園を追われることになる。(これがホントの「失楽園」なり)

仏教でも、それらは同じように説かれている。
経験に基づく知識にとらわれないあり方が「無分別」である。

人の苦しみは「病老死苦」。その苦しみのないところが「極楽」。
苦しみを味わうことがかぐや姫の「罰」として描かれている。


月からおろされたかぐや姫は
人間世界で実に楽しく過ごしていたのだけれど
大きくなるにつれ、じじから縁組をすすめられ(おとなになるよう迫られて)絶望していく。
そして無意識に月にむかい「ここにいたくない」と助けを求めたために
月に帰る命がくだされてしまった。
しかしその後、この地球に生まれてきたのは
この世を謳歌するためだったと気づき「帰りたくない」と泣き伏す。
月に戻れば心が乱れることもなく、地上の穢れも消えるという天人の女官に、
姫は地上は穢れてなどいないと抗弁するがその途中で羽衣を着せかけられる。
その途端、姫は表情を失くす。
天に向かうその途上、地球を振り向いた姫は
無表情ながらも、目に涙を浮かべた。



どちらの映画からも「生きよ」と目に見えぬものから
強くささやかれた気がした。
泣いた。



生きよとここに差し出され
人はここにいる。
この世にうみだされるということは、自分の意思だけでかなうものではない。

それは、いのちを大切に
という言葉だけでは伝わらない。

「人」が、他者の生死を決定してはいけないのだ。
それを決められるのは、「人を超えたもの」だけだ。


戦地に人を送るな。
人を殺めるな。誰も殺すな。
お前も死んではならない。

生きて生きて生きて
生きてこの罪を享受せよ。


かぐや姫が月に帰る時の「天人の音楽」が本当にすばらしかった。
涙がとまらなかった。
平等院にみた雲中供養菩薩たちが奏でてくれていた。


「天人の音楽」は11分18秒あたりから。




映画、ラストシーン。。。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm25222293

Category : spirituality
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政治と宗教

宗教学課題について、引き続き考えている。

前回あげた「スピリチュアルと宗教」を混沌ととりまとめつつあるうちに
後藤さんの一報が入った。
今ここでどうそれらについて述べられるんだろう。


怒りを過剰にぶつけてくる人に対して
おなじような怒りのエネルギーをぶつけても
火に油を注ぐようなもの
ということは日常でもよく見られる。
身近なところでよくみられることだ。
私が昨秋に辞めた職場裏は、そんな雰囲気にみちていた。
小学生男子の喧嘩みたいな。

この日本人人質事件以降
経緯について分析しようとするだけで
「テロリスト寄り」だとか「テロリストに利する」
と言われてしまうような世の中になってしまった。

共産党の小池晃さんがこう質問している。
「私は過度な気配りをしろなどとは言ってません。
テロは許さないと明確に言っております。
ただ言葉は慎重に、総理の言葉は重いわけです。
そのことを踏まえて行動されたのかということを検証しているわけです。
実際に総理は殺害予告が出された後の20日のイスラエルでの内外記者会見ではこう言ってます。
『わが国がこのたび発表した2億ドルの支援は地域で家をなくしたり
避難民となっている人たちを救うため食料や医療サービスを提供するための人道支援です。
まさに避難民の方々にとって最も必要とされている支援であると考えている』
と、これ言い方変わってますよ。
これは総理もエジプトで行ったスピーチが拘束された日本人にとって
危険をもたらすものであると考えたからじゃないんですか。
そこを正確にお答えいただきたい」

それに対する安倍首相の答え。
「小池さんのご質問はまるでISILに対してですね、
批判をしてはならないような印象を我々は受けるわけでありまして、
それは正にテロリストに私は屈することになるんだろうと、こう思うわけであります」

なんでそうなるの?
だ。


おまえは俺を批判するのか。
批判するってことは、さてはテロリストの味方だな?
という問題のすり替え。

こういうことも身近によくある話。
指摘を単なる批判だとすり替えるのは
自分に分が悪いことを承知しているからだ。


理解することと共感することは、同義ではない。
こうした集団が生まれるに至った経緯を知ることは
今後を考える意味でも必要なことだ。
私たちの常識で太刀打ちできる相手ではない。
だからこそ。
テロリストの思いを忖度するとかではなく
これ以上の危害が加わらないように
配慮が必要だったのは人質に対してのはずだ。
(しかし、彼らはその配慮も必要ないと考えているようだ)



私もそれほど多くを知らずに来てしまった。
今回のことがなかったら、遠くのできごとにすぎなかっただろう。

中東問題は複雑で、それがまたよぉわからんし
だから「宗教はいややね」という話にもなる。
中東問題がどうしてこうなったか歴史的経緯がよく分かるまとめ

しかし、中東問題は宗教の問題ではないという。
そもそもこれらの問題の原因は、イギリス、アメリカ、そしてそれを支えた資本の動きにあった。


IS(Islamic State。イスラム国)に向かうのは
シリア、シラク以外の海外からの若者が少なくはない。

ISは経済的、精神的な弱みや知識不足につけこみ、
若者たちをネットのメディアを使って巧みに誘い出している。


<シリア>避難高校生が「ジハードに」…数千人が行方不明も(毎日新聞) - Yahoo!ニュース

日本人大学生 シリアへの渡航を計画 NHKニュース

「イスラム国」戦闘員を生み出す町 いまチュニジアで何が



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若者がなぜ"イスラム国"へ? - NHKオンライン


イスラム国がどうしてこうなったのか分かりやすいまとめ

戦闘員になることを選んだひとりひとりを見ていくと、
悲しみ、歎きそして怒りを抱えている。
テロは確かに許してはならない。
しかし、その連鎖の根源にあるものは、誰しもが持っている感情である。

感情だけで、人は簡単に人間を殺したりはしない。
それを利用する政治が背中を押してやれば話は簡単に変わる。
遠くで結果が出るのを待っている政治家は決して責任を問われない。
http://matome.naver.jp/odai/2138032922997955501/2138058431374513503



「無関心が貧困を生み育て、無関心が戦争を長引かせるんだよ」と後藤さんが言っていた。
マザーテレサのことばもそうだった。
「愛の反対は憎しみではなく無関心です」。



「テロに屈しない」とは、その根源に目を向けていくことであると捉えたい。
いつの時代も人間は「克服困難な限界」を感じ、自身の実存について思い悩む。
現代日本でも、10代20代の若者だけではなく、
こども、高齢者、働き盛りの壮年層、女性、あらゆる世代が混迷しているように見受けられる。
本来救済宗教が成り立つ要因となった「克服困難な限界」は現代も続いている。


日々、粛々とすごしてはいるがなかなかきつい。





歴史的渦中に、今いる。
後年、どうだったかを問われた時に
私はこう感じていた
と自分の考えに、責任を持ちたい。
今、こう考えているということを
明らかにしておく。
誰のせいでもなく。
後悔もなく。



Category : spirituality
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スピリチュアルと宗教

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2012年、アメリカのピュー・リサーチ・センター
全世界230カ国以上で宗教および公共生活に関する調査を行った。
そのうち、信じている宗教があるか、あるとすれば何を信じているかを尋ねた結果、
確立された宗教をもたないとする「無宗教」との回答が
11億人と内訳16%を占め、第三位となった。
http://www.pewforum.org/2012/10/09/nones-on-the-rise

無宗教と答えている人の6割は中国に住んでおり、
日本は約7200万人と中国についで2番目に多い割合で
「無宗教」を標榜しているということも明らかになった。
ちなみに2010年の時点で日本人口は1億2780万、
日本国民の半数以上が無宗教だと答えたことになる。

アメリカでは、宗教に属していないと回答する人の割合が
2012年までの過去5年間で15%からほぼ20%に増加している。
特に若者の動向は顕著であり、
65歳以上の人のうち無宗教だと答えている人が9%であるのに対して、
18歳から29歳の人たちのあいだでは32%が無宗教だと答えている。
宗教社会学においては、第二次世界大戦後
もっとも関心を集めていた課題は世俗化であった。


しかし、さらなる調査では、無宗教であるとこたえた4600万人のうち68%は
特定の宗教を持たなくても神の存在を信じると答え、
半数以上にあたる58%の人が自然や地球に深い繋がりを頻繁に感じると答えている。
また、37%の人が自分自身は「スピリチュアル」ではあるが「宗教的」ではないと回答。
21%の人は毎日祈りをささげると回答した。

アメリカにおける無宗教者の増加は、
宗教属性がなくとも霊的存在は見いだせると考えるようになった人が増えたため
というようにも考えられる。

回答にあるように
「宗教的ではないがスピリチュアルである」ということについて考えていきたい。

語源からみると「spiritual」はもとはラテン語のspiritusに由来する。
このラテン語は,spiroという,呼吸する・生きている,霊感を得る,風が吹く,
などの意味を持つ動詞に基づき,呼吸や息,いのち,意識,霊感,風,香り,そして霊や魂を意味する。
川崎医療福祉学会誌Vol. 24 No. 1 2014 11-20 「スピリチュアル」の意味
―聖書テキストの考察による一試論―


神が泥(アダマー)に息(ルーアハ)を吹き込むことにより
人間(アダム)が創造されたと旧約聖書「創世記」では述べられており、
神という大いなるものによって生かされているというのが「宗教」に生きる人の考えである。

興味深い点は、「呼吸」が死生観にあらわれることである。
西洋では、(神から与えられた)息を吸うことがいのちのはじまりとされるが、
東洋では息を吐くことがいのちのはじまりだとされ、死することを「息を引き取る」という。
西洋での捉え方として、いのちは大いなるもの、つまり外側から働きかけられるものと考えるのに対して、
東洋では内側から働きかけられるものに意識を向けていると言える。
いのちの源である呼吸を重要視することによって呼吸法は誕生しており、
ヨガでも気功でも重要視され、仏教の修行にも用いられる。

1960年代、アメリカを中心に既存の文化に抵抗する動きが見られるようになった背景にあるのは、
ベトナム反戦運動の盛り上がりとともに
これまでの科学万能・発展至上主義的な考え方では世界はよくならないという批判であった。
カウンターカルチャーと呼ばれるそのムーブメントは、
1970年代後半から80年代に興隆したニューエイジへと移り変わっていく。
ニューエイジという呼称は占星術に由来しており、
春分点が黄道十二星座のうお座からみずがめ座に入るタイミンクが20世紀後半であったためと、
さらにキリスト教では魚はイエスを象徴することから
「魚座(キリスト教)の時代」は終わるという認識にもつながっている。
「進歩と発展」ではなく「平和と調和」を目指す価値観を伴いながら、
具体的に行われていたことはチャネリング、リーディング、前世療法・催眠療法等の心理療法、
瞑想、ヨガ、気功などの呼吸法、ボディワーク、ホリスティック医療、
心霊治療、輪廻転生信仰、波動調整などであった。

日本においてはその流れは70年代からビートルズのインド瞑想を介して届きはじめており、
80年代には「精神世界」というカテゴリーが確立されるようになった。
神秘体験に憧れる若者を中心に組織されたオウム真理教もヨガ教室に端を発していた。

私事で恐縮であるが、私はマッサージを生業としており、
2001年にカリフォルニア州にあるエサレン研究所を訪れている。
当時「気の森」という雑誌が刊行されており、その雑誌からエサレンマッサージの存在を知るに到っている。
手当法の一種である「レイキ」は当時「霊氣」と記されていた。
足の裏のマッサージは「リフレクソロジー」ではなく「足底マッサージ」だった。(そくてい、だよ)
その後、スピリチュアル・カウンセラー江原啓之の出版した「幸運を引きよせるスピリチュアル・ブック」
がベストセラーをおさめ、江原がメジャーになるに従い
「精神世界」の領域は「スピリチュアル」へと呼称を変えていった。
しかし江原が発した「スピリチュアル」は、
「目覚めている/目覚めていない」「悟っている/悟っていない」
などと他者と差異をつけたがるエゴイスティックな側面も露呈させた。
そのため昨今「スピリチュアル」ということばにも嫌悪感情が刷り込まれてしまったことは否めない。

いずれにしても、この潮流は宗教団体に所属して信仰を持つつもりはなくとも
霊的ななにものかはあるのだと日本人も考えているというあらわれである。

日本人は無宗教だと言われるが、本当に「無宗教」なのではなく
「世界宗教」には属していないという無意識から発せられるためであると考える。
江戸時代の鎖国から開国ののちに明治の世へと時代が移り変わった際に
流入せざるを得なかった「religion」の公式訳語として制定された「宗教」は
欧米のキリスト教文明に根ざすものであり、
特定の人物が特定の教義を唱えそれを信じる人たちのいる創唱宗教
には属していないという認識だとも言える。

カール・ヤスパースはその著作「歴史の起源と目標」で、
キリスト教の基盤となったユダヤ教、仏教、儒教といった世界宗教や、
古代ギリシアでの哲学発生がほぼ同じ時代に成立していることに着目し、
この紀元前五世紀前後の一千年を「軸の時代」と呼んでいる。
人々が克服困難な限界を意識したところから救済宗教が誕生し、今日まで続いてきた。

しかし、既存の宗教や近代科学に行き詰まりを抱えている者たちの間から
ニューエイジも精神世界もスピリチュアルもうまれてきており、
それらはあらたな次元へと変化を求める運動である。

日本では95年に起こった阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件を経て
「宗教」とはカルト的なものであるという認識を持つ人が少なくない。
昨今のイスラーム諸国を巡る紛争はますます「宗教」から身を離したいと考える一因となる。

その一方で、本来救済宗教が成り立つ要因となった「克服困難な限界」を現代にも感じているため
「新たなスピリチュアリティ」を求めていく潮流を感じる。
宗教には属したくはないが、個人的なスピリチュアリティは見いだしたいというあらわれである。

呼吸についての死生観は真逆であった西洋と東洋のその思想は、
少しずつ混淆しつつあるようにも思われる。



…………
「現代の宗教」についての課題があるので
草稿的にいろいろ書き出してみている。
本当に、昨今のイスラームの状況を見ていると
簡単に「宗教」とは、などと述べられないなと思う。
むずかしい課題。

どうなっていくんだろうね、
みずから巻き込まれに行ってしまったこの国のこれから。
人々の論調もおそろしく感じます。


だれにでも適当に話を合わせていい顔してちゃだめだなぁと思う。
私はどうありたいかを問い続けて
人にもことばを発していきたい。
細かくすりあわせていくと、まったくおんなじ考えの人はいない。

でも、今回の一連の流れの中では
少なくとも同じ想いを80%はもった人と
つながっていきたいです…。
そのためには、つねに自問自答して
みずからを探っていきます。



「進歩とか退歩とかを確定することでなく、運命の深みを究めること、
そして人間実存の謎に思いをいたすことが史学の最高の課題である」。
ドイツの歴史学者マイネッケのことばだそうな。
今の私に、宝物のようなことば。

Category : spirituality
Posted by チエ on  | 0 comments 
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