空模様

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Posted by チエ on  | 

Spirituality and Its Care

学校が春休みに入った。
休み中の課題に、スピリチュアリティとはなにか
またスピリチュアル・ケアとはなにかを述べよと出たので
草稿的なものとして、今感じていることを書き出しみる。


IMG_6730.jpg



私はこれまで「宗教はいらないけれども、信仰は必要だ」というようなことを
たびたび公言してきた。

「信仰」の他に言い替えることばを知らずに、また考えずにきたが
このことばは「スピリチュアリティ」と言い換えることができると
この一年間の授業で理解した。

そして、また他にもっとすんなりと、よどみなく
自然にうけとめられることばに言い替えることができる
とも考えられるようになった。

なぜなら、「信仰」は宗教色を帯びており
「宗教」を受けつけない人からすると
その違いは明確ではない。
「スピリチュアリティ」も胡散臭さがつきまとう。

私はもっと平易なことばを探している。



スピリチュアリティ、英語で書くとspirituality は
もとはラテン語のspiritusに由来し、息や呼吸を意味する。

たとえば、インスパイアは、日本語としても使われつつあるが
語源はラテン語の「in-(中へ)」+「spirare(息、息吹)」からで
ひらめき、刺激を受けるといった意味となる。
フランス語の esprit  エスプリにも通ずる。


泥(アダマー)に神が息を吹き込むことにより
人間(アダム)が創造されたと
旧約聖書「創世記」では述べられている。

つまり、神という大いなるものによって生かされているというのが
「宗教」に生きる人の考えである。

「宗教」という言葉は、
江戸時代の鎖国から開国ののちに明治の世へと時代が移り変わった際に
流入せざるを得なかった「religion」の公式訳語として制定されたものであり、
そこには欧米のキリスト教文明が基盤としてある。

つまり「宗教」ということばは、キリスト教、仏教などに代表されるような
特定の人物が特定の教義を唱えてそれを信じる人たちがいる創唱宗教を指ししめすこととなる。
(「日本人はなぜ無宗教なのか/阿満利麿著」より一部抜粋。)

(グリーフケア研究所所長島薗進教授はそれらを「救済宗教」と位置づける。
救済宗教とは、そもそも人間は克服困難な限界を抱えた存在であるということの自覚を促し
しかし異なる次元の存在や力に訴えて、そうした困難な限界を超える道があることを示す宗教であると
している。「現代宗教とスピリチュアリティ/島薗進著」より)



日本人は無宗教だ
とはよく聞かれる言説であるが
本当に「無宗教」なのではなく、「創唱宗教」には属していないという
無意識から発せられる言葉であると考えられる。

そうした人々のこころのうちにある
「『宗教』から距離を置きたい」という考えについて
島薗先生の著書「現代宗教とスピリチュアリティ」より抜粋する。

・集団への帰属を求め、集団の規範や権威体系に服することを求めること
・キリストやブッダのような唯一の至高の人間、あるいは神的超人的な存在への帰依を求めること
・自己が属する宗教のみが正しく他の宗教や思想的立場は無価値であるか
 ごくわずかな価値をもつにすぎないとする独善的・排他的な姿勢
・神などの超越的存在による死後の報いを説き、信じないものが罰せられるとする二分法


そう理解した上で、宗教が語るところの「神」や「大いなるもの」にいかされている、
つまり自分以外の何者かにいかされているという感覚は
日本人の心情にてらしあわせると
「おかげさま」ということばに端的にあらわされていると私は考える。

「陰」は神仏などによるそのかげからの庇護を受ける意味であるが
「影」はまた人の「生」に対して「死」をあらわす言葉でもある。
自分自身の内面をあらわしもするし、
神霊、みたま、亡くなった人の姿をあらわしもする。

この感覚ならば
「宗教」から距離を置きたい人、
また自身を「無宗教」であるとする人にも
少しは理解されるであろうか。

最近はめっきり使われることの少なくなったことばではあるが
「霊」と言い表されるような、見えないなにものかに対する念は
元来日本人の中にもあった。


私が、私以外のちからで生きている。
生かされている。
その「生きるちからの源」を
スピリチュアリティと言ったり、信仰と言ったりしている。

「宗教」のなかで大切にされることと
「無宗教」だという日本人の間で大切にされてきたものの間に
乖離はないように思われる。


しかし、先ほども書いたように
「おかげさま」ということばもあまり聞かれなくなってきた。
若い人の間で、このことばを使う人、知っている人はどれぐらいいるのだろうか。

自分の力だけで生きている
私が生きるのに、誰の助けも借りてはいない
と思い込むことは傲慢ではないだろうか。
もしくは、心細くはないだろうか。

私は、自分の意志だけでこの世に生まれてきたわけではない、
なにものかによって生かされているのならば
それはなぜなのか、どういうことなのか。

どうしてここで生きているのか、
なにか困難なことにぶちあたるたびに苦しむ。
今の私自身がそうだ。

そんな心許ない私とあなたが
出会って、そしてそんな想いを語り合い、共有する。
不完全な私が、似て非なるあなたと、ただ共にいる。
私は何もできない、けれども苦しむあなたのかたわらにいる。
いまの私は、スピリチュアル・ケアとはそういうものなのではないか
と感じている。


………………
学校に入った頃にくらべて
「スピリチュアリティ」に対する感覚は少し変化したように思う。
http://soramoyo.blog43.fc2.com/blog-entry-678.html


今日、朝一番に受け取ったニュースと
ここ10日ほどの日本国内で日本人が発したやりとりに
いたみをかんじています。

私が今欲しているのは
ただともにあるだけではなく
同じように感じていて
こころから「そうだよね」と言ってくれる人の存在であるような気がしています。

スポンサーサイト
Category : spirituality
Posted by チエ on  | 0 comments 

ひらく 2

DSCF5918.jpg


先日書いたブログの、イスラムのコミュニティにいる友人へメールを送る。


フランスのテロ。
起こったことはおおきなことですが
その芽は、私たちがこれまでメールでやり取りしてきたことと
同じところにあるようにも思います。




私も、先日
友人がネットの中で批判的なことを書き込んでいて
なにか反論したくなったのだけれど
こういうことはネットの中ですることじゃないと思って
踏みとどめました。

誰かに言われて
おもしろくないこと、腹のたつこと、悲しく感じること。
それをスルーするのは、相手を「ゆるすこと」と同義ではない。
相手の行動を「認知する」ことと、「受容する」ことは違う。(下記に補足)

多くの人は、認めてもないし、許してもないし、言われてむかつくのだけれど
相手に攻撃まで加えるようなことはしないだけ。


今、世に起こっているいざこざ、
そこにわきおこる感情は、表面的には
「むかついた」、つまり「腹が立った」になるかもしれない。
けれども、もっと掘り下げると
「傷ついた」「悲しかった」「痛かった」になるんじゃないかな。

「悲しかった」「痛かった」「つらかった」が
言えないでいるような気がします。
そういうふうに育ってきてしまった。

そう感じるのは「弱さ」だという無意識の刷り込みによるものなのかな。
「弱くちゃいけない」「強くなくちゃいけない」。

で、たやすく怒りにすり替わってしまう。


正義を、平和を謳うグループのリーダーでさえ
自分自身の悲嘆には気づいていないことも多いよね。
自身の内面に気づいていないその訴えの場合、
非難している相手とやっていることはまったく変わらない
ということもよくあります。



生きているってすごいことだとしみじみ思うけれど
でも、「人間でいる」ことはなかなかの修行だね…。
最近、私もはやく人間を卒業したいと思うようになりました。
でもまだまだ取得しなくちゃいけない単位が残っているようです。



【認知する】
目にとめる。存在を知覚する。気づく。

【受容する】
認め、よしとすること。





Category : いつものこと
Posted by チエ on  | 0 comments 

peak experience (transport & ecstasy)

IMG_6671.jpg

年内最後の授業で発言をしました。

S先生による宗教学の授業で、マスローの「至高体験」に話が及んだ際に
そのような経験をしたことのある人はいますかという問いかけがありました。

完全なる人間―魂のめざすもの完全なる人間―魂のめざすもの
(1998/09)
アブラハム・H. マスロー

商品詳細を見る


何人かの質問が続いた後、
みずから手を挙げたものの、ずいぶんことば足らずで
私としてはかなり残念な感じでした…。
緊張してしまいました。



気功をしている時によく感じるのは「ゼリーの中を漂っているみたいだな」。
それが、あの時はなぜか「羊水の中にいるよう」と言ってしまいました。

この、羊水の中にある感覚も、
ゼリーの中を漂う感覚と等しいのだろうとはとらえられますが
羊水の中にいるときのことは実際覚えていないことです。
こういう表現では、今まで誰かに言ったことがないし、
あんな大勢の前で言ってしまったことを少しばかり後悔しました。

でも、そのあとS先生は
「母親の胎内にいる時の絶対的安心感」について
私のことば足らずを補って話してくださいました。
気功をしている時に得られている湿潤感覚は、確かにその絶対的安心感のまっただ中、
すべてから大切にまもられている、信頼しあえている感覚です。
私と他を隔てるものはなく、溶けあっている。

気功では「天人合一」といって、人と宇宙は一体であると説きます。
この「絶対的安心感」が宇宙とひとつであると信じられている状態であるし、
それは宗教的至高体験とも等しいと私は思っていきす。
瞑想や禅が目指しているのも、おそらくここではないかと考えています。

脳内の知的に働く部分が休まると、自然とひとつになる感覚を得られることがあります。
例えば、美しい景色を見て呆気にとられる感じ。
一瞬、我を忘れる状態です。
それが一瞬ではなく、しばし及ぶ状態が
恍惚といったり、トランスといったりするのだと感じています。
それはむずかしい修業を経なくても得られる感覚です。
好きな曲が続いてファイナルを迎えるコンサートやライブでもこういうことはありました。


私は、ずっとそうだと感じてきたのですが、修業系の人に否定されたりして
もしかしたら違うのかも知れないと思って人前では言わずに来ましたが
残念発言ではあったものの、先生には否定はされず、あの日はうれしく思っていました。
そして、言わずにおこうと思ってきたことをああして人前で言えたこと自体は
私にとってはとても大きなことでした。



(「至高体験」というかどうかではありますが
その後読んだ安田登さんの著作「日本人の身体」にも
「無我」「無心」「忘」ということばであらわされていました。

私の「無我」「無心」「忘」は一瞬のこと。
もう少し長くつづくようになりたいものです…。)

日本人の身体 (ちくま新書)日本人の身体 (ちくま新書)
(2014/09/08)
安田 登

商品詳細を見る


Posted by チエ on  | 0 comments 
該当の記事は見つかりませんでした。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。