空模様

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Posted by チエ on  | 

ひらく

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通っている学校の演習でグループワークをしている。

8人一組で、あるテーマについてひとりが語り、
それを聴いた人が「その瞬間」に感じたことをシェアしあう。

話を聴いて感じたことを言う時には、事象は説明せずに
ただその時に感じたことだけをできるだけ端的に言う。
「かなしかった」「いたかった」「楽しかった」など
素数のような、感情。

これがことのほか難しい。

「○○さんが×××なので、△△だと思いました」。
大抵、状況の説明がどうしても入る。
例えば、もう少し具体的に書くと
「○○さんはがんばっていて、えらいなと思いました」。

「いやいや、そうじゃなくて。
あなたはどうなの?
どう感じたの?」
「その感じをもっとシンプルに言うと?」
と、中間的立場にいる先生から何度も問われる。


相手が喜ぶ反応なら、すっと言えても
これはちょっといいにくいなということもある。
これも、例えば、なんにも反応を示しようのない話もあるが、
その場を濁すようなことをいうのは厳禁。
適当なことを言っても、まわりにはすぐばれる。
表にあらわれる、目にうつるものだけで
コンタクトしているわけではないから。

「何とも感じませんでした」でもない。
手持ちのことばでなんとか表現してみようとする。
「こんなこと言ったら悪いかな」という余計な思いが邪魔をする。
すりあわせた結果、「つまらなかった」としか言いようのないこともある。



話をする人は、ただ話したいことを話せばいい
と言われる。
こんな話をして、○○だって思われたらどうしよう
は考えなくていい。
…とはいえ、これもとてもむずかしい。
相手に遠慮があったり、申し訳なく思うこと、多々。


ずいぶん、複雑に生きてきてしまったようだ。
自分の感情に幾重ものレイヤーをかけてしまって。


誰かがどんな話をしても
それを聴いた私の感じることは
話をした誰かのせいではなく、私の問題だ。
私の中にある「なにか」が反応して
私の感情が発露する。
その感情は、誰かのものではなく
私のものだ。

わたしの中にある「なにものか」と、何度も何度も対峙することとなる。


昨日来てくれたMちゃんはスーフィー。
彼女が日本で築いているコミュニティの話をいろいろシェアしてくれた。
「女子会」と名付けて、おんなばかり10名ほどが集い
その時その時あったことを話す場。
誰かが話をしているときは、話を遮ることはしない。
批判もしない。
ことばがでないときも、ただただ声なき声に耳を傾ける。
そして話を聞き終わった後は、感じたことを共有する。
その感じたことは、話をした人に向けられたものでは決してない。
感じているその人自身のもの。
何度も何度も再確認する。
私の感情を、ことばにしてだしていくこと。

誰からの評価もない。
遮られることもない。

自分の感情と、ことばがすりあって
それをぽつりと言えた時に
また別の誰かのこころが動く。
誰かがひらけば、別の誰かも「ここではひらいていいんだ」と
かたく閉じていた口をひらくことができる。

ただ、素直であればいい。
説明はいらない。

祈りをささげながら、風通しのよいコミュニティをつくるとは
相手の感じていることを自分のものとせずに
ただただ、「あなたはそういう状況にあるんだね」と認めること。

楽しかったことだけではなく、つらかった、悲しかった想いは
どんな人の中にもある。私だけではなく、今目の前にいる人にも。
私だけではないということを認める。
その居心地のよさが、コミュニティとなっていくだけ。

すべて自分の中にある
と言うが
それをひとりで掘り出すことはできない。
誰かとの関係によって揺り動かされ
すこしずつ浮かびだしてくる。


Mちゃんの師はこう言うそうだ。
「澄んだ水のその底に泥がある。
水を上から注ぎ入れると、一時的に泥が舞い上がる。
泥が浮かぶあいだは見えなくなることもあるし、苦しく感じることもある。
けれども、水を注ぎ続けて、泥をうつわから流していくのだ」。

そして「うつわをひっくり返して一気に泥を洗い流したいと思うかも知れない。
でも、それはできない。やったら死ぬ」。



Mちゃんとは、7GenerationsWalkでいっしょに歩いた仲だけれど
これまで深くを話し合ったりしたことはなかった。
それなのに、こうして久しぶりに会って
あらためて話してくれたのはなぜかと問うと
「チエさんが先に開いてくれてくれていたからですよ
先に開いてくれている人の前では話しやすいんです」。


学校の演習で、私は何度もつまづく。逡巡する。
もうクリアになったことばかりだし、
あらためて取り出すことなんて私にはもうないなんて思っていたけれど
掘りかえせばまだまだ出てくる。
幼い頃の私が。

そうだそうだ。
こんなことで悲しかったよな、つらかったよな。
普段は、思い出すこともない、たわいのない記憶。
思い出したとしても悲嘆することでもないし、怒りがこみあげることもない。
それでも、そんな私がいたということを
ほんの少しよれてくしゃっとなっていた私を
引き出しから取り出して
丁寧に畳んで、ふたたびしまいなおすという作業。


人から「気にすることないよ」とあっさり言われてしまうようなことも
「私がそう感じた」ということだけは、打ち消されたくないし
打ち消したくない。



自分のからだの輪郭を撫でる時
撫でている私と撫でられている私が存在する。
撫でている私が撫でられている私に注意を払うことなく
よそ事を考えていたら
撫でられている私はどう感じるだろうか?
という話を、先日の気功教室の時にした。

マッサージをしている時も
横たわっている相手の声なき声に耳をすませる。
ただただ、ひらたくみる。余計な判断はしない。

誰かの話を聞く時とマッサージはおんなじだなと
ここでも思う。




誰かをわからせようとことばをいくら重ねても
相手にその気がなれば、反発がかえってくるばかりだ。
反発はないにしても、相手からのわかりやすいことばは
その場はすっきりするけれど、すっきりとともにからだに残らない。

何かを変えようと声高に叫んでも、状況は変わらない。
ひとりひとりが自分の中を見つめるよりほかないと
私は思っている。
私からひらいていくだけ。
ひらいた私がいれば、それに感応してくれたただれかが
私にひらいてくれる。
そんなふうにつらなるコミュニティを、私も築こうと
昨日、Mちゃんの話を聞いて思った。


私の場合は…
誰かにあらためて聞いてもらいたい話なんてない、と
他者からの介入を拒む気持ちが少なからず私にあるのは
どこに、なにに端を発しているのか
ということを、矛盾しているが
いつか話したいと思っている。


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Category : いつものこと
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年末年始の京都

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冷たい風が吹き
一気に冬が押し寄せてこようとしていますが
樹々は葉をなんとかとどめて
色あでやかに着飾ってみせてくれています。

先日、新宿御苑に行きましたが
離れがたい美しさでした。

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写真は露出を増やすと、ほとんど真っ白になっていきます。

ひかりにとけこんで、なくなるようだなぁと
おおきな銀杏の樹の下に集う人々をみて思いました。

闇のなかもひかりのなかも、どっちも目では見えないのだなぁ。

DSCF5850.jpg


さてさて、
年末年始は京都に帰ります。
よろしければ、遊びにおこしくださいませ。

12月26日  午前予約済  午後3時以降予約可
12月27日  終日予約可
12月28日  午前予約済  午後5時以降予約可
12月29日  終日予約可
12月30日  午前予約済  午後3時以降予約可
12月31日から3日までお休み
1月4日    終日予約可

(12月5日現在の状況です。
以降は、http://slowbody.p1.bindsite.jp/pg46.html
で参照くださいませ。)


ひさしぶりの京都滞在です。

前回、8月末はあわただしくすごしてしまったので
今回は、ひそやかにゆっくりとすごしたいと考えています。
お会い出来る方がいらしたら、うれしく思います。
お待ちしてますね。






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