空模様

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Posted by チエ on  | 

和える (超雑記)



本を一冊読むと
その本の参考文献をみて
その中からまた一冊。
ネットの中でリンクをたどるように
本を渡ることがある。
今は、私にとってそんなブック・サーフィンの時期。

何冊か渡った中で、浮かび上がったことを
思いつくままに書いてみる。
雑多で乱文だけれど、今日はその勢いだけであげる。

………

今、夏休みの宿題でいくつのかレポートがでている。
その中のひとつに「死生観と宗教文化について論ぜよ」
というものがあるので
せっかくの機会とばかりに、キリスト教と日本人の関わりを
とりあげている。

日本は
「国」という組織が成立するまで、
海から海へと渡ってきた人たちの行き交う
通り道的な陸路だったんだろうと思う。

日本人の顔って、その多くは確かに
ヤマザキマリさんの「テルマエ・ロマエ」でいうところの
「平たい顔族」だけれど
よく見ると、さまざまな種が混じっているのを感じる。
東南アジアあり、南アジアあり、中近東あり、欧州あり。
こんなにいろんな種を感じるのって
他国にはないんじゃないかしら。

環太平洋というけれど、
ぐるりと輪を描いた海と
そのまわりを渡る人たちのなかも
ぐるりとごちゃまぜになってるのかもね。
ちびくろサンボの、トラがぐるぐるまわって
バターになってしまうように。

さらにマニアックなところだと
相方てらじんの吹いている楽器「ディジュリドゥ」だって
同じ形状のものが、やはり環太平洋をめぐる国々には
継承されているそうな。
名前は違っていたり、吹き方もそれぞれで違うようだけれど
これは海を越えて、人びとが行き来していたということだろうしね。
おもしろいのは、ディジュリドゥは
世界最古の先住民といわれるアボリジニが吹いているから
世界最古の楽器とも言われる説があるそうだけれど
実際、アボリジニの長老は「これはもともと私たちの楽器ではない」
「船に乗ってこれを伝えてくれた人がいる」
と言っているとか。(てらじん談)

また、「ディジュリドゥ」は英語圏の人びとの呼び方であって
アボリジニたちは「イダキ」と呼んでいるのだけれど
それは、日本は和歌山にある「伊太祈曽」という地から運ばれたものであるから
と考える人たちもいるそうな。

おもしろい。
何が本当かなんてわからないけれど
太古に想いを馳せるだけでうっとり。

日本は「和の国」と言ったりするけれど
「和」とは「あえる」、つまり違う素材のものを
いっしょにまぜあわせて一皿にするという意味。
「ちゃんぷるー」も「ちゃんぽん」も
おんなじ意味になるね。

日本人は真似がうまいともいうけれど
これも結局は「和する」のが得意ということなんだと思う。
カレーもラーメンもハンバーグも
もとは海の向こうからきた料理だったけれど
すべて日本食になっているもの。






ああ、書こうと思ったことと全然違う方向に話が進んでいるけれど
ま、いいか。

そうそう。

このまま、やはり思いつくままに
書き出してみる。
結構、ざっくりなので
史実に沿っているとはいえ
私の思い込みもかなり折り混ざることとなる。
すべて真実とは限らない。
ご了承を。


歴史の授業で年号を覚えるのに
いごよく(1549)知られたキリスト教
で覚えた、キリスト教伝来は
ザビエルの肖像画がインパクト強くて
印象に残っている人も多いと思う。

なんだかずいぶん遥か昔の出来事
と思ってきたけれど
ここんところキリスト教伝来の歴史を見ていくにつれて
私の中では遥か昔では全くなくなってしまっているわけ。

キリスト教伝来は、当時の潮流から見ても
きっと避けることではなかっただろう。
それに伴って、日本が大きく変わりはじめ
そしてそれは今にもつながっているのよね。
なんせ、世界を今大きく動かしているのは
キリスト教圏の方々でもあるので。
そう、宗教と政治は切り離せない話。

日本ではザビエルによる伝来以後
キリスト教が栄華を誇った時代があった。
(65年間ほどかな)
長崎がローマに献上されたりもするほど。
そして大名がキリシタンとなった領地では
神社、仏閣が破壊されたり、仏教徒が迫害を受けていた。
キリスト教に侵攻による植民地化の話も
諸国から漏れ聞こえてくる。

怒った秀吉が「伴天連追放令」をだして
宣教師を国外追放にしたり
見せしめに信徒を処刑したりしたけれど
完全な禁教令が敷かれ、一般庶民にまで棄教を迫りだしたのは
徳川の時代に入ってから。
鎖国も、キリスト教布教を防ぐのが大きな目的だった。
その大きな契機となったのは、島原の乱。
この乱は、行政に立ち向かう農民一揆とも言われるが、
キリスト教信徒たちのつながりによったものと
行政側は見ており、信徒たちが一枚刃で立ち向かってくるのを
恐れるようになったためと考えられている。

民衆をいずれかの寺に属させる寺請制度をとり
その檀那寺が、各人の信仰を取り締まり
仏教徒であるという証文を発行していた。
これが、のちのちの戸籍制度のはじまりにつながっていく。

寺と奉行が連携するようになって
寺院はみずからの理を忘れ、仏教者の衰退へとつながっていく。

鎖国が解かれ、明治時代へ。
日米修好通商条約において居留地における教会建設と
居留国の人々の信教が認められたようになってからも
政府は禁教を解かず、明治期に入っても弾圧は続いた。
その迫害は、浦上四番崩れとして名を残す。
禁教の高札を撤去され、禁教が解かれたのは明治6年のことであった。

ここからは
「潜伏キリシタン 江戸時代の禁教政策と民衆」より抜粋。
(イタリック体部分・含要約)

潜伏キリシタン 江戸時代の禁教政策と民衆 (講談社選書メチエ)潜伏キリシタン 江戸時代の禁教政策と民衆 (講談社選書メチエ)
(2014/05/10)
大橋 幸泰

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明治期になって西欧諸国を手本に近代化を進めていく中で、
religionの訳語として選ばれたのが「宗教」。
その定着には西欧文明の象徴としてキリスト教の存在が大きな影響を与えたと思われる。
西欧諸国に近づくためにキリスト教に対抗できる精神的支柱を構築する必要があると
当時の知識人、政府関係者は考えた。
明治政府も権力基盤を補強するためにも
天皇権威を高める手段となる神道の国教化が有効であると判断。

しかし、それも失敗に終わる。
アニミズムを起源とする神祇信仰には多様な神観念が存在し、
それを一つにまとめて統一的な教義をつくるなど所詮無理なこと。


明治政府による神道の国教化という政策によって
廃仏毀釈はすすめられた。
つまり、仏教はあっさり見捨てられたわけよ。
奉行とタッグを組めて、あぐらをかいていた時期もあったのにね。

日本人は無宗教じゃない。
あえて「宗教」といわないぐらいに
あたりまえのように、あまりに自然に信仰心を持っていただけ。



表面的には、日本にはキリスト教徒は消失したと史実は伝えるけれど
潜伏して信仰を守ってきた人々がいた。

厳しい禁教のもとでさまざまな土着の神仏信仰と結びついた近世期の
いわゆる“隠れキリシタン”の宗教活動は、
宣教師が説いた教義・活動の内容と比べて
“異端”的な土俗信仰に変貌した、としばしば評価される。
しかし、この見方は宣教師の側の宗教活動が“正統”であるとする立場のそれ。



禁教が解かれ、潜伏して教えを守ってきた信徒は
本来のキリスト教の教えに立ちかえる人々と
先祖代々伝わってきた教えを通す人々とにわかれていった。

その、代々伝わってきた教えを押し通す人たちのことを
「困った人たちだ」と差別するむきもあったようだ。

キリシタンの活動を実践していた人びとにとっては、
彼らの宗教こそが信じるに値するものであったはずである。
“隠れキリシタン”の宗教活動が“異端”的な土俗信仰であるとする評価は、
キリスト教はこうでなければならない、こうであるはずだ、
などという思い込みによる評価ではないか。



現代人が考える固定したキリスト教の枠組みによって
キリシタンを考えようとしては、
歴史における“隠れキリシタン”の営みの意味を見誤ることになるであろう。



本を読んで思ったのは、
この隠れキリシタンといわれる人々の信仰は
宣教師を失った、迫害を受けた
というかなしみを背負うものではあるけれど
「和した」結果でもあるなぁ、ということ。


たしかに、本来のキリスト教とはかけ離れているかも知れないけれど
それを卑下するのは、間違いだよな。



近世日本の宗教活動はキリシタンを含めて
実に多様であったといわなければならない。
そこには体系的な教義を持ち、
それゆえにしばしば教義上の対立を生んだ仏教諸宗派をはじめとして、
神祇信仰やアニミズム的な汎神論の系譜を引く民間信仰までを含んでいた。

同じ人間が複数の宗教活動に関わるのは近世では何ら不思議なことではなく、
こうした状態のほうが自然なことであったのだろう。
潜伏キリシタンがキリシタンの活動をおこなう一方で
檀那寺の活動やその他の宗教活動に関わることは、
(略)
他の近世人と比較しても決して珍しいことではなかった。


近世から近代への転換をどのように見るかという問題について、
多様、曖昧な状態が保たれていた段階から
一律・統制の傾向が強まっていく段階への転換としてとらえられるのではないか、
というのが本書の結論。


宗教問題ばかりでなく他の事例も含めて
近世から近代への転換はおおむね多様・曖昧から
一律・統制への転換であったと評価できるように思う。
だとすれば、時代が下がるにしたがって
人々が解放されていくというのは事実に反しており
現代人が歴史上もっとも解放されているとはとてもいえない。
曖昧さが否定され、境界の明確化・固定化が進行していくのが
近代という時代の特徴であり、それはそこからこぼれ落ちるものを切り捨てる
という機能を併せ持っている。
これは効率主義と言い替えてもよく、
少ないコストでおおくの利益をあげようとする資本主義と表裏の関係にある。
競争社会を当然の前提とする近代的価値観の問題性がここに孕まれており、
その延長線上に現代の新自由主義が抱えている問題に行き着く。

いまこそ、近世において多様・曖昧な状態が保たれていた事実を比較の材料にして、
近代・現代において、一律・統制が進んだことの問題性に目を向けるべきである。

前近代の歴史を学ぶ重要な理由の一つは、
それを比較の材料にすることによって近代的価値の問題性に気づくことにある。





ごちゃまぜに和えて、食感の違いを口のなかで味わってきたのだからさ。
たとえば、白和えのなかに入っている
ほうれん草やひじき、にんじんをいまさらばらばらにして
ええー、つなぎになっていた豆腐はどうなんの?
というのが、書きたかったこと。


このところのキリスト教との関わりを見ていくなかで
世界の潮流と日本は決して無関係ではないこと
そのうねりを受けて変化していることを、強く実感。


今日のブログは、まとまりがないけれど
ひとまずは勢いだけで書き出して
おそらく、これからじっくりまとめていくことになると思う。


現代において、キリスト教を非難することばが
マスコミにあがってこないのはなぜか。







先日、学校内の本屋ですてきな出会いがあった。
「不干斎ハビアンの思想 キリシタンの教えと日本的心性の相克」。

不干斎ハビアンの思想: キリシタンの教えと日本的心性の相克不干斎ハビアンの思想: キリシタンの教えと日本的心性の相克
(2014/04/11)
梶田 叡一

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ハビアンは、もともと大徳寺で禅僧として修業。
のちにキリスト教に出会い、受洗。
修道士まで勤めあげるが、禁教令が敷かれる前に棄教。
キリスト教を批判する「破堤宇子」を公刊、
修道女とともに出奔した人である。
現代的感覚でいうと、相当「ロック」な人だ。


著者の梶田氏ははじめにこう記す。
「既成宗教としての伝統的なキリスト教の教義と
イエスの教えなりメッセージなりとは、長年月のあいだ
全く別物であった。
これは、仏教各派の教義と釈迦のメッセージとが
別物と言えるほど距離を持ってきたのと同様である。
新約聖書の四つの福音書に載せられたイエスの教えのみを
取り出して読み返してみるとき、こちらの方なら日本人にも
ピンとくるところが少なくないのではないか、
という率直な思いを持たざるを得ない」。

上に記されていることは
私が初めて般若心経を読んでみたときと同じ感慨であり
こうして明記してくれる本に出会えたことだけでもウレシイ。

しかし、この本について語りだすと
全然終わらないので
また次の波がきたら、記すことにする。


キリスト教に呼応する歴史。
関心は尽きない。




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Category : いつものこと
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現在・過去・未来



学校のことを少し書こうと思っていたのだけれど
ちょうど、いくつか出ている夏休みの課題のひとつを書き上げたところ。
ここにそのまま載せる。

「私にとってグリーフケアとは」
というお題。


幼少期を神戸で過ごした私にとって、
95年に起こった阪神淡路大震災はそれまでの人生観を覆す大事となった。
震災時は大阪に住んでいたが、神戸は思い入れのある街だ。
被災された方のためになにかできることはないか。
そう考えてボランティアに参加してみたが、私にできることはなにもなかった。
身一つでできることをと思い立ち、その後マッサージの仕事に就いた。
はじめに入った店舗はまさしく修業の場。
この道何十年というベテランのマッサージおばちゃんが闊歩し、
「身を壊してなんぼ」の世界だった。
親指を酷使するので変形している人もたくさんいた。
マッサージする人もほとんどが不調を抱えていた。
私自身も何度か座骨神経痛を味わった。
誰かにありがとうと喜んでもらえるマッサージの仕事は楽しかったが、
ここに居続けると私自身がダメになると感じた。

そんな時にたまたま出会ったのが、アメリカのボディワークだった。
知人に貸してもらった雑誌の中に「エサレンマッサージ」の記事があった。
カルフォルニアのビッグ・サーにあるエサレン研究所で続けられているマッサージ。
いいのかわるいのか、わからないままに
「あなたの人生を変えるプログラム」と題されたワークショップにひかれ、
参加することにした。
エサレン研究所のブログラムは「まずは、施す側が癒されていること」が主体となっていた。
広大な敷地内で育てられた野菜が中心となった食事をいただき、
断崖絶壁の続く海岸に面した温泉には、
朝昼晩問わず、いつでも入ることができた。
芝生に寝転がって、寄せてはかえす波を見ながら、
その波がこれまでもこれからも続くことを思うと涙が出てきた。
私自身がどう感じているかを主体におくようにしよう、
そう感じられるようになったのはここでの体験が大きい。

 何年かの修業時代を経て、独立して仕事をするようになった。
私自身が落ち着いてすごせる、京都の古い家を借りることができた。
畳に腰を下ろし、お茶を飲みながら話していると時間の感覚が失われてくる。
窓の向かうにある小さな坪庭をながめているだけで、からだがゆるみ、
いつのまにか、こんな話をするつもりではなかったのに、と言いながらも
とつとつと語りだす方がいらした。
話をするだけで十分、マッサージはこの方にはいらないかもと思える人もいた。
私の力ではなく、場の力を感じた。

 その後、縁あって東京に移り住むことになった。
暮らしはじめて一年経たないところに、東北大震災が起こった。
311からの3ヶ月後、震災支援のNGOを経由して現地入りした。
現地の方々の「地震、津波、火事、放射能、それからさらに盗人の五重苦だ」
と言うことばに、何もかえせなかった。
マッサージは、ことばを介さない会話だと思ってきたが、
そのことばなき会話にさえ行き着けなかった。
無力さをほとほと味わった。
私の中にも喪失感がひろがっていた。
「神も仏もない」という誰かのつぶやきがずっと心に残った。

 しばらくのち、遠藤周作氏の小説「沈黙」を読んだ。
「神はいないのかもしれない」ということばをつぶやかずにはいられない人が、小説の中にもいた。
小説の舞台となった長崎の紀行文を集めた「切支丹の里」に、
「弱者たちは政治家からも歴史家からも黙殺された。
沈黙の灰のなかに埋められた。
だが弱者たちもまた我々と同じ人間なのだ。
彼等がそれまで自分の理想としていたものを、
この世でもっとも善く、美しいと思っていたものを裏切った時、
泪を流さなかったとどうして言えよう」。
「私は彼等を沈黙の灰の底に、永久に消してしまいたくはなかった。
彼等をふたたびその灰のなかから生きかえらせ、歩かせ、
その声を聞くことは—それは文学者だけができることであり、
文学とはまた、そういうものだと言う気がしたのである」とあった。
それを読んだ時に、これも魂の救済だと感じた。

 また、遠藤氏の語る「弱者に寄り添う神」にひかれ、私はキリスト教に関心を持つようになった。
それがグリーフケア研究所に導かれた由縁である。
そして学びを得るごとに、それは私の中で神とは言わないかも知れないが、
「沈黙しながらも、つねにそばにいる」なにものかの存在を強くする。

 輝かしい未来だったはずの21世紀だが、世の中はどんどん不穏になっていく。
今も、ガザ侵攻をすすめるイスラエルのニュースが絶え間なく入ってくる。
かの地で繰り返されていることをこれまで詳しく知らずに私は生きてきたが、
キリスト教史とイエスキリストの生涯を知っていくことで、
そこで起こってきたことも少しずつ知るようになった。
その歴史を知らずして、紛争を表面的に去なすことは不可能であろう。
争いを止めたく思っているのか。
争いをそそのかすように介入している国はどこなのか。
日本という国もそこにつながっていることに気づく。
日本という国をなしているその一部に「私」がいる。
起こっていることの歴史を、かの地以外の人びとが知っていくことも、
壮大なグリーフケアの一つなのではと感じる。

 数年前に初めて自分史を書き出してみた。
今の私はこのように形成されてきたんだと、少し感慨深かった。
歴史、つまり今の自分自身が存在するに到った過去を知ることで、
未来をまたあたらしく生み出せる気がしている。

 誰かと話をすること、自分自身の感じていることを書き出してみることで
「私ってこうだったんだ」と、一人でただ考えているだけでは気づけない面々に気づく瞬間がある。
自分自身で「気づく」こと、それが他ならぬ自分を癒していくことにつながると実感している。
グリーフケアとはそういうものなのではないかと感じている。



Category : いつものこと
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往く



7月が往こうとしている。

4月から学校がはじまって
6月から新しい仕事をはじめて
日々の流れに身をゆだねていたら
あっという間だった。

ブログもずいぶんと更新していなかった。

忙しいのではない。
ただ茫然としていた。

仕事は、リハビリ型デイサービスでのトレーナー。
ここは、介護保険で利用する施設で
利用者は、介護審査の認定を受けて
保険受給の資格を持った方々である。

40歳をこえると
介護保険の支払い義務は生じるけれど
それがいったいなにに、どう使われるのか
積極的に知ることもなくここまできたが
ようやく仕組みがわかった。

介護業界は、
小声で「大変だよ」と、
どこかおおっぴらに語ることのできない
閉ざされたような世界だと感じていたけれど
ここならばそうではないかも、と
請けてみたこの仕事も
いやまぁ、なんとも。
介護の世界は、やくざな世界でもあるのねぇ…。

利用者の方々と接するのは
「人と人との出会い」なので
そこだけは、私はとても気持ちよく
仕事をさせていただいているのだけれど
それ以外については、公言できない闇がありますの。

マッサージの仕事をはじめた時もそうだったけれど
職場が居心地いいって、これまでにないね、私には。
それも、これも
「安住せずに、いばらの道を行け!
その道を、オマエはいかにかいくぐるのか?」
とどなたさまかに呈されているよう。
「じゃあ、どうであれば納得できるのだ?」
と自分で考えるために
こういう状況をみずから生み出しているような気もする。
もちろん、ここに安住してずっとこのまま居続けるつもりも
はなからなかったけれど、こうまでかと。
結局、居心地のよい状態でいるためには
私は自分で自分の仕事をつくる以外にないみたい。
反面教師に教えていただくものが
とてつもなく大きい。

会社のやり方に
呆気にとられつつも
お金の流れと、人びとのはたらきが
ちょうどよいバランスであるには
とか
自分が将来もちたいスペースには
どういうことが必要か
ということを考えたり。

そんなこんなで、7月は終わろうとしている。

勤めるデイサービス自体が7月オープンだったので
なかなか休みも取りづらく
3ヶ月も京都に行けていない。


休みが全然ないわけでもなく。
先週はぽかんとまる一日空いたお休みがあったので
関東最古刹といわれる鹿島神宮へ。

土の匂いと水音、樹々のざわめきに
澱が流れていった。






でも、8月の終わりには
ちゃんとお休みをいただいて京都に帰るつもり。
お会いできる方がいらしたらうれしい。
また近いうちに情報をあげます。

学校でのことも
またあらためて書きたい。



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