空模様

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脱力乃回@奈良

5/11(日)に「脱力乃回@奈良」を開催します。
新緑のまぶしい季節。
のびゆく若葉とともに、からだもすくすくのばしていきましょう。

以下、とりまとめてくださっている
michiさんからのご案内です。


DSCF4787.jpg





空 -くう- の成瀬知詠子(chie)さんが

「日+月+星」にいらしてくださることになりました。

先日、chieさんはご自身の著書「脱力乃回」を出版されたばかりです。
今回は出版記念のイベントとして「脱力乃回」で身体を動かしたあと、
本にまつわるかんたんなワークショップもしていただきます。
座ってほんの少し自分で「私」について考える時間…だそうです。
みなさんとchieさんを囲んでいろいろお話もできたらと思っています。


「脱力乃回」の内容紹介文より:
脱力乃回の「回」は、足首をまわす、股関節をまわす、手首をまわす、首をまわすなど、とろとろの油をそそぐように、各関節をまわすこと。そして、DNAの螺旋、地球の自転、惑星の公転、銀河系の渦をあらわすもの。風の吹く方へしたがうように、川の流れに身を預けるように、宇宙遊泳を楽しむように。自分と、そのまわりを包む空気との境目もわからなくなるぐらいに自然と一体になっていく。気功の動きでからだの内側をめぐりながら、宇宙への旅をごいっしょしていただけたなら。





脱力乃回@奈良

 日時 5/11(日) 13:00~

 参加費 2000円(ちいさなおやつとお茶付)

 場所  「日+月+星」sun moon star 奈良市多門町35-2
(駐車場はございません。車で入って来られると細い道ですのでご注意ください。)

お申込みはこちらからメールでお願いいたします。

(当日の連絡先とお名前をお知らせください)

確認メールが3日以上届かない場合は

お手数ですがお電話でご連絡ください。


からだをうごかすのとお話をするのとお茶を飲みながら本にまつわるカンタンWS、
全体で約3時間だと思います。

座ってほんの少し自分で「私」について考える時間…と書きましたが
「私」って、確固たる純然とした「私」ではなくて
さまざまな多面体なんですよね。
WSは、いろんな角度からの視点をみつけて
「私」をあらためてみつける時間にしようと思っています。

お気軽にご参加ください(^^)



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2014年5月のスケジュール

DSCF4395.jpg


◎京都スケジュール

ご都合の合う方、
お会いしましょう~

5月8日  予約可
5月9日  予約可
5月10日 午前予約済み 午後5時以降予約可
5月11日 脱力乃回@奈良 
5月12日 予約可
5月13日 午前予約済 午後2時から最終7時までで予約可

(4月24日現在の状況です。
以降は、http://slowbody.p1.bindsite.jp/pg46.html
で参照くださいませ。)


5月11日に奈良の日+月+星にて
脱力乃回をひらきます。
http://sun-moon-star.jp/
詳細はまた後日に。


◎練馬気功のひろば

・2013年5月18日(日)    
午後3時から5時まで

予約は不要です。
お気軽にお越しくださいませ。
詳細はこちらです。
http://slowbodyqoo.blog110.fc2.com/


マンツーマンで気功教室開催しています。
赤ちゃんづれでもだいじょうぶ。
http://soramoyo.blog43.fc2.com/blog-entry-684.html
メールフォームからお気軽におたずねくださいませ。


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脱力 with Baby.

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昨日、生後7ヶ月のあかさまとともに
気功をさせていただきました。
させていただきました
といいたいほどに、あかさまが師匠でした…

…………

自分のチカラで立ち上がらんとすべく
さまざまにからだをうごかすあかちゃんの
その姿から、学ぶことおおすぎです。

どこにチカラを入れるのか
そしてぬくのか
さらりとやってみせてくださいます。
な、泣ける…  ししょー!ついていきます!!(涙)

…………



基本的にはマンツーマンで、
気功教室をひらいています。
(月に一度は、みんなで)
気功というと、
人を治すの?
とか
はーって人を飛ばすの?
ときかれることもまだまだ多いけれど。

まぁ、そういうのもあるんだけどさ。
気功の取り扱う幅がとてつもなく広くて。

東京来てから、私も彷徨いました。
果てしもなく広い宇宙に一人取り残されたかのごとく。

いろいろ考えたり、自分でも試した末、
やっぱり、私の中では気功は特別なものではなくて
こうして、このからだでこの世にうまれてきたのだから
このからだで得られるものを大切にしようよ
ってことだと、さいきんあらためて思うようになりました。




「スピリチュアル」
について、先日もプログに書きました。
http://soramoyo.blog43.fc2.com/blog-entry-678.html#comment1386

ちょっと陰陽、いや、引用。

スピリチュアル、英語で書くとspiritualは
sprit スピリット からくる形容詞。
もとは、ラテン語のspiritusで
息や呼吸といった意味に由来する。

宗教色の強いところでは、霊や魂とも訳せる。
それ以外では精神、情熱、本質などなど。

たとえば、インスパイアは、日本語としても使われつつあるが
語源はラテン語の「in-(中へ)」+「spirare(息、息吹)」からで
ひらめき、刺激を受けるといった意味となる。
フランス語の esprit  エスプリにも通ずるそうだ。

(西洋では、息を吸うことがいのちのはじまりとされるようだ。
おもしろいことに東洋では、息を吐くことがはじまりとされている。
最後は「息を引き取る」というように。)

本来のスピリチュアルとは、
人が、人として生まれてきたその根源的なものである。
「あたし、地球に生まれたの間違いだった!」ではなくて
この地球に生まれてきたのは間違いでも何でもなくて
実際に、そのからだをもって生まれてきちゃったんだから
そのからだで生まれてきたすこやかさ、
を守ろうとするものなのよ。

ここ、ここ大事!
もってうまれた、そのからだ、です。
どんなからだでも。
ふつう、とかそんな概念はとっぱらって。
この世に生まれでてきた、どんないのちも。

「そのからだで生まれてきたすこやかさ」。
私も、気功で大切にしたいのはここです。

あかちゃんは
気功体、そのものだなぁと思います。
そばにいるだけで、
まわりの人が自然と笑顔になれて、そして
そしてなんだかふにゃふにゃになっちゃう。

昨日は、わたしもほんっとにしあわせで
こういう場がもっともっとふえるといいな
ふやしたいな、とこころから思いました。


気功のレッスン。
あかちゃん連れのおかあさんも
ぜひぜひいらしてください。
途中、泣いたり、おむつ替えたり、おっぱいあげたりしながら
今だからできることを、あかちゃんといっしょに。


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12 Years a Slave / それでも夜は明ける

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2014年4月18日鑑賞。


アメリカの黒歴史というか、
人類の歴史と捉えた方がいい、恐ろしく惨い事実。

この映画は
自由黒人(そんな区別があったとは知らなかった)として
日々を謳歌していた主人公が
策略によって12年間ものあいだ、奴隷として扱われた話である。実話。

扇情的ではなく、激情的でもなく、淡々と映像はすすむ。
カメラをむけるその視点は、そのまま、視聴しているものたちの視線となり、
映像に現実を見る。
長回しによって、その時間の経過がうかがえる。
役者も映像も、秀逸。
ただし、ひどく重く痛い。
映し出される風景とひかりが、美しい。




予告編は、わかりやすく
訴えかけるように編集されているけれど
映画はもっとしずかで、そしてそのリズムは崩れない。





ホロコーストは、
負の世界遺産としてアウシュヴィッツがあげられたように
多くの人の記憶にとどまっているが
奴隷制は「遺産」ではなく、今も続いている。
人は、人に対して
これほどまでに、それほどまでに、どれほどまでにも非情になることができる
ということを知っておいたほうがいい。

私だけはそんなことをしない
と言い切ることさえも、できない。
誰でもそういう側面を持っている。

日本でも、学校でくわしく教わることはないが
そういうことはあったのだ。






それにしても、ホロコーストもこの奴隷制にも
大きく関与しているのがキリスト教だ。

コロンブスは、日本では
アメリカ大陸を新発見した冒険家で、英雄のように描かれがちだが
アメリカの先住民、(インドに上陸したと思っていたために)インディアンと
コロンブスらによって呼ばれた人々を、いともたやすく殺戮した。
アフリカ大陸でも、みずから信仰しているキリスト教を都合よく解釈し
布教という名の下、アフリカの人々を奴隷とすべく船に積み込んだ。

「異教」ということばがあるが
これはキリスト教が基本にある。
キリスト信者にとっては、キリスト教徒以外はみな異教徒となる。
キリスト教以外のものは、人間とはみなさないという歴史があった。





最近通いだした学校の、授業の中には
「キリスト教人間学」
なるものがある。


キリスト教や聖書のことをあまり知らない人でも
アダムとイブの話は知っているかもしれない。
旧約聖書とキリスト教で呼ばれる物語のなかで
神は、自分に似せて、アダムをつくり
そしてイブをつくったとある。

彼らは、決して食べてはいけない
と神から言われていた木の実を
食べてしまう。
イブは、蛇にそそのかされたから
アダムは、イブに言われたから
と、その非を他者に転嫁する。
よきものとして永遠にしあわせであったはずの人間は
楽園から永久に追放された。


その実は、神のように、善悪を知るものとなる実だった。
キリスト教の中では、やたら「罪」ということばが出てくるが
この「罪」とは、
食べてはいけないといわれていた実を食べたこと。
その実を食べたということは
神のようになりたい、善悪を知りたいと思ったこと、
そして、その非を他者に転嫁したこと。

これらはキリスト教の中では「原罪」と呼ばれる。
人は生まれながらにして、罪人であると。



2000年、当時のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は
バチカンのサンピエトロ広場でミサを行い、
ユダヤ人迫害の容認や十字軍の遠征、宗教裁判などについて、
過去2000年間にキリスト教会が犯した過ちと認め、神の許しを請う告白を行った。
こうした形でローマ法王が過去の過ちを懺悔するのは、
カトリック教会史上初めてであった。

現在のローマ教皇、フランシスコは
「あなたはなにものですか」と問われ
「私は罪人です」とこたえている。

これから、何かが変わるのかもしれない。



それでも、アメリカ南部では今も奴隷制に賛成するもの多数。
また、進化論も認めていないキリスト信者も多数いる。
(「神が人を形作り、命の息を吹き入れられた」と聖書にあるため)
自分は正しいと思っている。絶対だと思っている。
自分が悪に傾いているとは、つゆほども思わない。
正しいと思えば思うほど、主張すればするほど
その反対に転ずることは往々にしてある。
強く言い過ぎるのは、危ういことだ。



聖書は物語。
本当に大切なものは、表面にはない。
その物語を通して言わんとすることをいかにみるかである。
だからこそ、いかようにも解釈されるもの。

ながらく宗教は、政治そのものとなっていた。
歴史の中で都合よく扱われてきた教義と
イエスキリストが言わんとしたことは
ベツモノだと私は捉えている。






歴史はまた、政治により、都合の悪い部分が抹殺されていく。
歴史によって学べることはあるはずだけれど
知らされていないものは多大にある。
昔も今も。

人はすばらしい、それと同時に、愚かだ。
それでも、事実を知ってうなだれても、
知って、そして、自分だっていかようにも転ぶことをわかっていたい。

そして、そうした過去や現実に憤るのではなく
そうした事実があるからこそ
この世であたえられていのちを
すこやかにすごすことに
私は注力していたい。




Category : 映画
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ブルーは熱い色

ブルーは熱い色 Le bleu est une couleur chaudeブルーは熱い色 Le bleu est une couleur chaude
(2014/03/12)
ジュリー・マロ

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先日、見に行った映画
の原作をどうしても読みたくて
本屋に出かける。
最近、話題になっている映画なので
大きな書店だと在庫があるようだ。



原作が存在し、それが映画化されると
その違いを比べた時に愕然とする。
例えそれが映画をみるのが先で、原作を後から読んだとしても
私の場合は、たいていが原作の方がいいと感じることが多い。

原作に忠実であることを求めるからだろうか。
おそらく、原作のほうに巧みな表現があって
それがうまく映像化されていないからかもしれない。
文字だけで物語を追うと、自分の脳内で
主人公を思い描き、それらを動かすことができる。
映画となると、自分の脳内再生映像ではそうならないんだよなぁ
ということが多いからかも知れない。

この「ブルーは熱い色」と映画の「アデル、ブルーは熱い色」は
結末が異なる。
原作は、映画では見られなかった
アデル(原作では違う名前)の葛藤、苦悩が描かれていた。

原作を先に読んでいたら
そしてその原作が好きだと感じていたら
映画をみて唖然としただろうか。
わからない。

主人公にとっては、蒼い髪をしたエマの存在が軸。
原作でも映画でも、彼女の存在軸はぶれない。
その軸を中心に、主人公が揺れる。
そこは原作も映画も同じで、その揺れ方に
見ている、読んでいる側はシンパシーを感じている。
だから、どちらの作品にも心がとらわれる。


原作を読んで、この映画の監督の味つけのうまさを
あらためて感じた。
映し出される街、樹々のざわめき、光。
学校、授業、哲学。
チョコレートバー、ボロネーゼ、牡蠣。
挿入されていた小さなエピソードたちがすべてよかった。
実に好み。



フランスやベルギーでは、漫画のことを
バンドデシネと言うんだね。
知らなかった。
「bande dessinée」
「描かれた帯」という意のフランス語。
日本では「漫画」と訳されてしまうのだろうけれど
フランスでは、日本の漫画の影響を受けたバンドデシネを
マンフラ (manfra) やフランガ (franga) と呼んでいるのだそうな。


Category :
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アデル、ブルーは熱い色

読んだ本と見た映画の記録は
できるだけとっていこうと思う。
今更ながら。
(いろいろと忘れやすくなってるし。
本や映画は、のちのち再び見る読む機会があったりするので
最初の感覚を記しておくと
再度見た時の自身の変化を知ることができるのよね)

mixi,twitter,facebook...ときて
さらにはあたらしいSNSがいろいろ立ち上がっているけれど
文章に関しては分散させずに、私はブログ中心で。
メモ的にTwitter。


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性別「男」「女」
いずれかに丸をつけよ
などということは
さまざまなシーンにおいて
記入が義務づけられることがあるし
おそらく、多くの人はそこで
疑問を持たずに丸をつけることができるのだろうけれど
本当は単純に二別できるもんじゃないと私は思っている。


私自身は、これまで好きになってきたのは「男性」だけれど
きっと、女の人を好きになっちゃうことも
あるだろうなとも思っている。
女の人というか、性別がなんでもいいような人を
好きになっちゃうこともあろう。
っていうか、あったよな。

好きになるって
理性をこえることだからさ。
「この人、好きになっちゃいけない」って
思ったとしても、もうそんなの
あっさり飛び越えちゃうもんだからさ。

私は○○である
って考えるのと
衝動はまた違うのよね。

「恋」は「乞い」だから。
欲しくて欲しくてたまんない
ってのは、抑えようとしたって抑えられるもんじゃない。

相手を食べてしまいたいほどに
絡み合う時って
自分が自分じゃなくなって
相手との境界もなくなって
脳味噌とろけて
まさしくちびくろサンボにでてくるバターのよう。

はぁ…思い出すわね。
ものすごいあちあちのエネルギー。




「アデル、ブルーは熱い色」は
女性同士の恋愛を描いたもので
その性描写は肉薄していて、
見ている間、映画館の空気も濃厚。

恋愛での、境界すら危うく
自分がなくなっていく感覚に同期。
一瞬で恋に落ち、再会できた後に、
熱に浮かされたように相手を求めていく
その欲望というか、「乞い」具合に
いともたやすくシンクロ。
こちらもあたまが重だるくぼーっとなる。
映画でそこまでの共感覚が得られるのもすごい。

なので、この映画は「レズビアン」映画とされるけれど
そう限定せず、「恋愛映画」として見たい。

恋愛というとなんだかきれいでポップに聞こえるかもしれないけれど
実際の恋愛は美しくもなく、もっと生臭いもの。
眠るアデル、食べるアデル、セックスするアデル。
もう動物三大欲求をすべてみたす「欲望映画」と言ってもいい。


映画の上映時間を確かめずにはいり
途中、長いなと少し感じたけれど、3時間。
アデルという、一人の女性の濃厚な日々を
ともに見させてもらったという感じ。

見終わってからの方が
彼女たちのことが、頭のなかで膨らんでくる。
あれだけ濃厚に交わることができるって
もうその役柄になりきってないとできないことだと思う。
そうじゃないと、あれだけの共感覚を
視聴者が映像から得られることもない。
じつに自然体に演技をしていた二人の女優のことが
やたらと気になり、youtubeで眺め続ける。


フランス映画って、
そんなにたくさん見るわけではないけれど、
たまに見るといいなと思う。

フランス語のうたうような響きとか好きだし、
女優さんたちの顔もからだも、きれい。
映像の撮り方にもよるのだろうけれど
いやらしさがない。
なんというか、からだという自然の美しさがそのままにじみ出ている感じ。




本や映画をみるということは、
まず現実では出会うことがない人に時代をこえて会えること。
その人の人生を垣間みられること。

実際に人に会うのも大事だけれど
私には、映画や本の世界も、同じぐらい大切。

で、最初のはなしに戻るけれど。

たとえば、においでおもしろいなと思うのは、
知らない、今までに嗅いだことのない匂いに対して
人は「くさい」という反応を示すこと。

仕事でも、精油のにおいを嗅いでもらって
あるのは、オレンジやグレープフルーツなど
これまでに嗅いだことのあるにおいは「いいにおい」で
スパイクナードとかベチバーなどに対しては
顔をしかめたり、はっきりと「くさい」と言う人もいる。

けれども、たいてい、本当に臭いと感じているわけではなく、
そのにおいのことを知らないから、脳の知識として受けとめられないだけ。

聴覚も味覚も視覚も、然り。
これまでに聴いたことなかったり、味わったことがなかったり、
見たことがなかったものには
知らないというだけで、拒否感を示すようになる。

世界で多様性が叫ばれていながら、日本では排斥されているものごとが実に多くて
たとえば、障がい者、同性愛者(LGBT)とくくられるようなことや
最近だと、中国韓国への嫌悪なども
身近にそういう人がいないことで
無理解につながっているんだと思う。

自分の世界は、これまで見たり聴いたり読んだりしたもので
構成されていくから
「知らない」というだけで、その存在は排除されてしまう。

私にも知らないことって、そりゃたくさんあるけれど、
「知らない」という無意識によって
誰かや何かを嫌うことはしたくないよな。

そうするには、これまでの「思い込み」をはずす必要があるんだけれど
コレが好きって感じるのはなんでだろう
嫌いだと思っているのはなんでだろうとか
かなり一人上手になっていく必要があるのよね。。。

映画を見て、思いついたことをつらつら。







あと、この映画は
日本での上映と、実際の映像は
縦横比が違うのだそうな。

また映像の美しさが違って見えるそうなので
DVDで見られるといいな。

Category : 映画
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アナと雪の女王

アナと雪の女王。

本当に久しぶりにみたディズニー映画。
広報の仕事をしている方のツイートを見て
見に行こうと思ったのだけれど
予備知識はほとんどないまま。

ただ、松さんの歌がすばらしいと聞いて
なんとなく吹き替え版をみてみたのだけれど
本当にびっくりしました。
松たかこさんもさることながら
神田沙也加さんの歌もすばらしくて。

帰宅してから、オリジナルのほうもあわせて
繰り返しyoutubeで聞きまくっています。

私が映画から一番に受け取ったものとしては
オリジナルver.の歌詞のほうがマッチしていると思ったけれど
いずれにしても、姉妹関係について考える人も多いと思うし
映画の中でいう「愛」とは、そうくるかと
さまざまな視点を得ることができると思います。



去年見た「かぐや姫の物語」は、かなしく美しい映画でした。
「アナと雪の女王」はその対極にあるような映画ですが
この二つの映画から受けとったメッセージは、
私にはおなじものでした。

これからを生きる人たちへの力強いメッセージだと思います。

もう一度、見るつもりですが
次はオリジナルを見ようと思っています。




Category : 映画
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スピリチュアル

この4月から学校に通えることになった。

上智大学内にあるグリーフケア研究所。
大学に通うが、大学生でもないし、大学院生でもない。
残念ながら。
けれども、図書館も食堂も使える。
それが、まずはなによりうれしくて
ちょっぴり浮かれている。




グリーフとは
「なにかを失った悲しみ」
と訳せられようか。


昨今、スピリチュアルということばがごく一般に、
人々の口からでるようになったが
「スピリチュアル系」と、本来の「スピリチュアル」は
全く別モノである。
「系」は、○○風と同じ意で、「なんちゃって」にすぎない。
「系」などと誤摩化してほしくはない。


スピリチュアル、英語で書くとspiritualは
spirit スピリット からくる形容詞。
もとは、ラテン語のspiritusで
息や呼吸といった意味に由来する。

宗教色の強いところでは、霊や魂とも訳せる。
それ以外では精神、情熱、本質などなど。

たとえば、インスパイアは、日本語としても使われつつあるが
語源はラテン語の「in-(中へ)」+「spirare(息、息吹)」からで
ひらめき、刺激を受けるといった意味となる。
フランス語の esprit  エスプリにも通ずるそうだ。

(西洋では、息を吸うことがいのちのはじまりとされるようだ。
おもしろいことに東洋では、息を吐くことがはじまりとされている。
最後は「息を引き取る」というように。)


長々とスピリチュアルについて説明してしまったが
本来のスピリチュアルとは、
人が、人として生まれてきたその根源的なものである。
「あたし、地球に生まれたの間違いだった!」ではなくて
この地球に生まれてきたのは間違いでも何でもなくて
実際に、そのからだをもって生まれてきちゃったんだから
そのからだで生まれてきたすこやかさ、を守ろうとするものなのよ。



グリーフケアは
スピリチュアルケアの中の一つと言える。

「なぜ生きているのか」
「何のために生きているのか」
「毎日繰り返される体験の意味は何か」
「自分はなぜ病気なのか」
「自分はなぜ死ななければならないのか」
「死んだあとはどうなるのか」
「人間に生まれ、人間として生きているということはどういうことなのか」
(wikiから頂戴)

そんな、生まれてきてしまった根源的な悲しみに
はたらきかけようとするものがスピリチュアルケアで
グリーフケアとは、その中の「喪失」を補うものだと
今、私は考えている。
(ちなみに「結婚」や「引っ越し」もグリーフに含まれるのだそうな)




私がマッサージをはじめた理由は
阪神淡路大震災。
そして東京に出てきて、東京でも京都と同じように
仕事していくぞと思っていながら
やはり大きな震災を経て、もうすっかりトーンダウン。
私がやりたかったことがなにかを完全に見失う日々。
マッサージはやめようと何度も思った。
私のやっていることは、誰のためにもならないとさえ思っていた。


去年の秋、それが最高潮に達し
模索している中で出会えたのが
グリーフケアということばだった。

もともと、神戸の震災を経て
マッサージをしたいと思ったのも
誰かの慰めになればという想いからだった。
結局、それは自分自身のあれこれを露呈させることになり
自分と向き合う日々に他ならなかったのだけれど。

結局、誰かのためにと思いながら
まずは自分のためでしかないのだなぁと思いながら
まだまだ殻を破れないでいる自分に課せるのが
グリーフケアという学びのようだ。



あらたに学びたいと思ったのは
文学でもあり
哲学でもあり
宗教でもあり。

けれども、どれか一つというわけではなく
全てはつながっているし
一つ、という意味では、選べなかった。
何を選べばいいのか
大学院の募集要項などを見ても
ピンとくるものはなかった。

その中で、たまたま読んだ遠藤周作さんの対談本のなかで
でてきたのが「グリーフケア」ということばで
すぐに検索したら、近日中の受験についての案内を見つけた。
これは、また、道しるべをもらったという気持ちだった。

さまざまな土壌の先生がいらっしゃる。
文学、神学、哲学の教授、臨床宗教、聖職者。
贅沢な学びのはじまり。



こどもの頃から
私はどこからきて、どこへいくのか
ということをずっとずっと考えていた。
今もその答えはでないし
学校に通っても、でないことはわかっている。

でも、からだそのものではなく
人のこころの、そのもっともっと奥にふれたくて
まずは自分自身が、ゲロゲロと吐く想いをして
(自分のことをまだまだ認められていなくて
見たくないと思っている自分にあらためて気づくその過程は
ゲロゲロとしか表現しようがない。嗚呼。
まずは自分自身のことを吐きだすことから始まるのです。この学びは。)

2年後に、一皮むけてつるりんとした自分にまた出会えると
なによりのさいわいである。


この2年間、
なお一層、広報も全くなく、
仕事は減るばかりではあると思うが
貪欲に、学んでいこうと思う。
京都で一人で住んでいた時にはできないことであった。
本当に、あらためてパートナーに感謝を捧げる次第である。



学校が始まった日に。
初心として、記しておく。


IMG_6044.jpg

ひさしぶりの大学、食堂で食べたのは、カレーライス。
なんだか緊張で、あたまではわかりつつ
今ひとつ、からだで捉えきれておらず
わけが分からないまま終わったというのが
本音である。




Category : いつものこと
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