空模様

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Posted by チエ on  | 

読む気功「脱力乃回」

脱力乃回〜まわる ゆるむ ほどける〜脱力乃回〜まわる ゆるむ ほどける〜
(2014/03/04)
成瀬 知詠子

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去年から準備を進めてきた本が
ようやく完成いたしました。

ここ10年ちょっと、
関わってきた気功のことを書きました。

気功のこと
と言っても、具体的な功法については
あんまり書いていません。
そして、気功と一口に言っても
なかなかことばにしにくい部分も多々あるのですが
特別扱いしたり、神秘的なものにしたりしないように
平易な言葉で書くことにつとめました。

3年半前に、松岡正剛さんが主宰する
編集学校でお稽古を受けました。
点在していた、一見何の関係もないように見える物事でも
あるルールをあてはめてみると
どんなものの間にもつながりが見いだせる
ということを教えていただきました。
それまでも、そういうことはできると思ってきたのですが
正剛さんのすごいところは、それをすべて
「編集」ということばでまとめられ
体系化されたところでした。

いろいろお題をいただくうちに
いつか、からだと宇宙との相似、フラクタルな関係
について書きたい
と思うようになりました。

からだの動きをこまかく見ていくところからはじまり
少しずつズームアウト、ズームイン
していって
あらら、私たちが生きているのって
宇宙における天体のはたらきと似てる?
と思っていただけたらさいわい。

私が考えてきたこと
を、ひとまず文章としてひとまとめできた
と思っています。
私は、こういうことを、実はいつも考えてます
と名刺代わりに渡せる一冊となりました。

これからも、またことばを変え
この目にうつる現象をどうことばにできるのか
考え続けていきたいと思っています。

まだまだ甘いところはありますし
伝わらないことも多々あるとは思いますが
もしよろしければご一読いただき
感じたことをお聴かせいただければうれしく思います。

そこからまた
まだ出会っていないことばを、
模索していこうと思っています。

イラストは、友人のYUMちゃんに
描いてもらいました。
いつか本を出せるならば、
絶対YUMちゃんに絵を描いてもらおう
と思ってきました。

飾れる絵本を目指して
生まれて間もないふうこちゃんを抱えながら
がんばってくれました。

実際、「気功」という時間を持たなくても
読んだだけでふわりとゆるみ
まわりの空気にとけ込む心地がしたならば
それだけで気功をしたも同然。

日常に、余白を。
本に目を通すだけで
なにやら温泉につかったかのように
ホッと一息ついていただけたら
さいわいです。


※Amazonのみでの取り扱いです。

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月のひかりと、春の風

R0010412.jpg


3月15日

帯津三敬病院へ行った。
たとえどんな状態のがんであっても、西洋医学に限らず、
よくなる可能性を持つ治療法であれば積極的に試すことで有名な病院。
といっても、私が治療を受けるわけではなく、お見舞いに。


名誉院長の帯津良一さんは
「中国医療とは漢方や鍼・灸と思っていましたが、
気功こそがエースだと知りました。あとは食養生」
というようなことを積極的に言及される人で、
気功をする私たちの中でも有名な先生だった。


池袋から小一時間ほどの駅から少し歩いて
田圃の広がる平地の中、ひっそりとした風情で病院は建っていた。
思っていたより、ずっとずっと地味だった。
そして病院の中は、とてもきれいだった。
全室、個室だそうだ。


私は、病床にいる友達と
ずっと看護で寄り添っておられるお母さんに
手のマッサージをさせてもらった。

友人は意識がない。
けれども、それはただ寝ているだけのようだった。
いつおきてもおかしくないほどに、血色もよかった。


今週いっぱいもつかどうかと聞いていたので
どんなに衰弱した姿にあうことになるのかと
少し身構えていったのだけれど
手も足も、とてもあたたかくて
今週いっぱいなんて、何かの間違いじゃないかと思うほどだった。


話していることが聞こえているようなんだよね
と彼女のお兄さんは言った。
お母さんも、そう言った。
目は開かなくとも。
ことばやからだの動きで反応をかえすことはできなくても。


魂は自由に行き来できるという。
そして生きていても死んでいても、どこにいてもいつだって会っているという。
けれども、鈍感な感覚でいる私とは、それらと自在なやりとりができない。


肉体をもっているから、悲しみも苦しみも、そして喜びも楽しみもある。
あえたねと言葉で交わし合える。
体温を感じる。
からだの輪郭をなぞることができる。


「私」という「意識」をもって、あなたとこの世で会えるのは、どれぐらいの確率? 
ここでこうして会えるということが、どれほどすごいことか。


このからだで、あなたにふれられること。
輪郭を手のひらで感じること。
体温を感じること。
血が流れるのを自分の意識でとめられないように、
心臓の鼓動を自分の意識でとめられないように、
私は私であるけれど、私のからだは私が意図してつくられたものではない。


「私」が動かしたいと思ったとしても、
脳の一部が機能しないだけで動かなくなるのだ。
「私」のからだは、単なる「私」だけのものではない。


自分の「意識」で、この世に生きることを選びとったわけではない。
からだの奥の本心が「生」を望んだのだとしたら
「意識」で「死」を選び取ることは罪だと思う。


「意識」でつくることができないものを、
壊してはいけない。


-----------------------------------------

先日、お見舞いにいった夜、
ひとりになってあらためて浮かび上がってきたことを
ツイッターに書き出した。



ここのところ、キリスト教の話が続いたが
少し仏教のことを書いてみる。



大乗仏教の見解の一つに、唯識とよばれるものがある。
ひとりひとりの存在は、唯(ただ)、八種類の識によって成り立っているといい
八種類の識とは、五種の感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)、
意識、そして2層の無意識を指す。


視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚という、いわゆる五感。
そして「私」が「私」だととらえている意識。
この6つを「意識」と呼ぶ。


そして、末那識(まなしき)と呼ばれる潜在意識。
我に執着して存在の根拠となる心の働き。
意識がなくなった状態にも存在し、迷いの根源とされる。

さらにその下に阿頼耶識(あらやしき)という根本の識がある。
宇宙万有の展開の根源とされる心の主体とされる。


上のツイートでいうところの「意識」は6つの意識。
からだの奥の本心が「阿頼耶識」にあたる。




先日も書いた安田登さんの「あわいの力」という著作の中では
「こころ/おもひ/心(しん)」という日本的な心の三層構造
というように書かれていた。

表層の「こころ」。
その特徴は「変化する」こと。
こころ変わりする、移ろいやすい感情が「こころ」。

その「こころ」の下に「おもひ」がある。
表層の「こころ」を生み出すもとになる、動的な心的作用が「おもひ」。
「おもひ」のなかで重要なのが「こひ(恋、乞ひ)」。

「おもひ」の奥、もっとも深い層に「心(しん)」が存在する。
「芯」に通じ「神」にも通じる、
「おもひ」や「こころ」とは異質の神秘的な心的作用。

言葉や文字を媒介とせず、一瞬にして相手に伝わる何か。
世阿弥がいうところの以心伝心。
「心[しん]より心[しん]に伝ふる花」というときの「心(しん)」。




こうして、あれこれつらつらと考えている「私」と
からだの奥の方にある「私」は同じではない。

この世に生まれでたいとしたのは
「阿頼耶識」や安田さんが語るところの「心(しん)」。
「私」という「意識」が思ってできたことではない。


「感情」は簡単に揺れ動き、「心」は何にも動じない。

「私なんてたいしたことない」と、おのれを卑下するのは
心に対して失礼なことなのだろう。
けれども、感情がどうあろうと「心」はいつだって「私」の中心にある。
私が何を思おうと感じようと。


なので、意識で死を選ぶとか他人を殺める
ということはどれほど罪なことかと思う。
どうして自殺はいけないの?とか
人を殺してはいけないの?と
誰かに尋ねられたら、私はこう答える。
こどもに聞かれたら、もう少し噛み砕く必要はあるけれど。




ベッドの上で眠る友人を見ていて
いろんなことを思った。
グリオーマという、脳の癌だった。
とても速いスピードで脳内に触手をのばしていくという。

脳は、感情・思考・生命維持その他神経活動の中心的、指導的な役割を担う場所だ。
脳から下に問題がなにもなくても
脳に損傷があると、運動麻痺・運動失調といった運動系の障害をはじめ、
認知・言語障害などの高次脳障害・体温調節・呼吸調節といった自律神経機能が損なわれる。

脳といっても、一つの塊ではない。
人間の脳では大脳、中脳、小脳、間脳、橋、延髄、脳室、脳梁などの
多くの部分からなっていて、それぞれの部分が異なった機能を担う。
どの部分に損傷がおこるかで、できることできないことがわかれる。





目は開いていなくても
手を握りかえす力がなくても
起き上がることができなくても
生きているんだな。


尊厳死について意見が交わされる昨今ではあるけれど
「日本尊厳死協会」の岩尾総一郎理事長と、
「尊厳死の法制化を認めない市民の会」呼びかけ人の平川克美氏の見解

本当に、「生とは」「死とは」、そう簡単に語れないものなのだ。




-----------------------------------------

3月18日

今朝、
友人が息を引き取った
との連絡を受けた。


2年前に倒れ、それから手術を受け
自宅で療養をしていた。
家族ですごす時間と、そして再発してからの時間。
抗がん剤の副作用もほとんどなく
痛みに苦しむこともほとんどなかった。
オーラソーマというヒーリングの仕事をしていた彼女は
自宅療養の間に、数々のメッセージをテキストにまとめていたそうだ。
これから本として出版される計画があると聞いた。

お見舞いにうかがった時に、お母さんが話してくれた。

「年齢としては若いけれど、燃えさかる炎のように
したいことして、燃え尽きたんだと思います。
そりゃまだまだ生きたかっただろうけれど、楽しい人生だった
と思います」。


これ以上の引き際はない、と思う。
あまりにも潔くてかっこよくて。
羨ましいとさえ思った。



彼女とは結局2回しか、
入院中のお見舞いとで3回しか実際に顔をあわせていないのに
陽気な酒飲みで、忘れられない人だった。
それだけしか会っていないのに、こうして
ここに立ち会わせてもらえて
いろんなこと感じさせてもらえて
教えてもらえて
ありがとうとしかいいようがない。



またどこかで。
会えるといいな。
会えるよね。



気功の教室に来てくださっている方の猫も、
昨日旅立ったと、同じ時間ぐらいにメールをいただいた。
昨日、今日と、たくさんのいのちが
月あかりのもと、のぼっていったんだろうなぁ…。

Category : いつものこと
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ぼくたちが聖書について知りたかったこと

ぼくたちが聖書について知りたかったこと (小学館文庫)ぼくたちが聖書について知りたかったこと (小学館文庫)
(2012/12/06)
池澤 夏樹

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買ってから一年ぐらい経つ本だけれど
ここのところまたキリスト教についての関心が高まっているので
読み直す。

とはいえ、一度目はさらりと読んだ程度だったので
二度目の方が線を引く箇所が増えたし
そうだったのかと思うことが多かった。


日本人のなかで、
ユダヤ教とキリスト教とイスラム教でいう「神」はおなじ、
聖地だとされる地もおなじである
ということを知っている人はどれぐらいいるのだろう。


私もまるで詳しくなかったし、今もわからないことの方が多いけれど
日本におけるキリスト教の歴史を、先日垣間みたこともあって
キリスト教自体の歴史にも興味を持つようになった。

幼少期、通っていた幼稚園がキリスト教系というのも大きいかもしれない。
なにも知らないままに、教会へ通い、賛美歌を歌っていた。
知らなくとも、その年齢で刷り込まれるものは多大である気がする。
エルサレムとかベツレヘムとかの地名も、
なんとはなしに惹かれるものがある。


仏教もそうだけれどキリスト教も
釈迦やキリストの死後に
「私はこう聞きました」とか「あの人ならこういったと思います」と
弟子たちがテキストにしていったものが聖典として残っているだけで
本当に言ったかどうかなんてわからないのだけれど
それでも「書物」として残っているところが大きい。

P21
「書かれた文字は個人を離れて移動できる」
「テクストが個人の人格を離れて移動できる。
空間的に移動して別の地へと運ぶことができる。
あるいは時間的に移動して世代を超え、時代を超えられる」






イエス・キリストはユダヤ人であったし
ユダヤ教徒だった。
イエスが生きていた時代にユダヤ人が使っていたことばは
古代ヘブライ語やアラム文字。
この頃のヘブライ語には過去形がなく
また「歴史」ということばもなかった。
過去形のない古代ヘブライ語では、過去に交わされた会話もすべて
直接話法で語られ、直線的な未来志向にならない。
天地創造も、未だ終わっていない。
「神が○○と言った」といえば、昔のことではなく、それは今も続く事柄である。
「神が食べていけない」といったものは、それが私たちの感覚で何千年前のことなのに
と思っても、彼等にとっては今も当然のように続くことなのである。


イエスの死後、弟子たちが
イエス・キリストのことばをテキストに起こしはじめた。
(キリストとは、ヘブライ語で「メシア」。
「メシア」はギリシャ語訳でΧριστος (Khristos)。
「メシア」での意味は「膏(あぶら)を注がれた(塗られた)者」「受膏者」。
当時、預言者、祭司、王などの就任に際して膏を塗る習慣があった。)


キリスト教はその構成員の圧倒的多数が、ギリシャ語圏のユダヤ人コミュニティから出発。
イエス出現までの歴史を語るもの(ユダヤでの教え)を
彼等が親しんできたギリシャ語版によって
イエス出現までの時間をたどり「旧約聖書」とした。

ギリシャ語には時制があり、天地創造は過去のことになる。
天地創造から始まる物語を、
ギリシャ語のクロノス的(編年的)な時間軸にのせてしまうことになる。

そこから必然的にこれまではなかった「旧」と「新」という区別が生じる。

ギリシャ語に訳されることにより、これまでのユダヤでの教えに
ギリシャ語文法がもつ時間軸が導入されることになった。
しかし、ヘブライ語には過去形がない。
よって、現実のユダヤの教えには歴史がない。
なので旧約聖書=ユダヤ教の聖書ではない。
新約、旧約といった呼称はキリスト教側からの見方にすぎない。


(とはいえ、旧約聖書を読むキリスト教徒は
どれほどいるのかと問われるほどに
少数派のようだ)


時間軸があるかないか
なんて、考えたことがなかったし、どこか絶対視しているところもあった。
でも、人は「時間の経過」という概念をはずすことができる
というか、「過去」も「現在」もひとくくりにもできたのだな。
とはいえ、一度そんな概念を持ってしまったら、
そうそうはずせないのだろうけれど。


ここに
池澤さんの話で、興味深かった箇所をそのまま抜き出す。
抜き出したい箇所はいろいろにあるが
聖書とは直接的な関わりのないところでひとつ。

P35-36
「ギリシャ・ヨーロッパ流の歴史意識で言うから『進歩』ということがでてくる。
そうするとここでどうしても「進化」のことを考えなければならなくなる。
日本語の問題が一つあって『evolve』を『進化』としたときに
当然、『よりよいものになる』という匂いがついてしまったんです。
語源からするとあれは『転化』とでもすべきだった。回るという意味合いがありますからね。
『進化』だとそのまま『進歩』を連想してしまう。
でも、おなじ誤解は欧米にもあるんです。
evolve,evolutionには、どこかで『だんだんよくなる』という含意があって
一番いい例が人類の進化というよく見る陳腐な図です。
左端に類人猿が歩いている。その右に、もうちょっと背の高くなった、
直立に近くなったネアンデルタール人が歩いている。
それからクロマニヨンが歩いていて、直後、右の箸には完全に直立になった現代人か
胸を張って歩いている。これが典型的な進化論の説明だったわけですね。
あれで見ると、現代人が一番立派で賢いように見えてしまう。

しかし実際には、われわれ、ホモ・サピエンスは三十何種類かのさまざまなホモ属がいた中で
たまたま残った種にすぎない。残ったのは優秀だったからではなくて、ここに到る過程で
その時々の周囲の条件と折り合いがよかっただけなんです。

そういう意味では、evolutionというのは、いつでも周囲の条件との関係においてでしか
成り立たないのであって、一個だけ取り出してこいつは優秀だという価値観は含まれていない。
ダーウィンの進化論自体には価値観は含まれていないにもかかわらず、
いわゆる社会ダーウィニズムという形で悪用されてきた。
黒人は白人より劣っているとか、あるいは、ある種の民族は優秀である
といった価値観の物差しを当てて、
自分に都合のいい社会をつくるために進化論を勝手にまげて使う。

それはともかく、進化史論に沿って考えると、古いものは捨てていいことになる。
そうやって次々に古いものを捨てて、それが加速して、明日の方が今日よりいいんだ
という幻想でわれわれは生きている。だから過去を振り返らないわけですね。

しかしそうではなく、すべてが同じで、過去は現在であるとすれば
全然違う見方ができてくる」





レイシズムに関する話題が取りざたされる昨今。

そして、それ以前からも
何者かでなくてはいけないような気に追い立てられる空気。
今日よりも明日、よい日が来ると思い込むこと。
「今の私」よりも、もっともっとよくならなければと
今の自分を卑下すること。

なんというか、そういった優劣の付け方も
社会的進化論の弊害なのですね…。
生物の進化とは本来そういったものではないのに。



本は、そのほとんどが
ユダヤとキリスト教の関わりについて書いてあるものであったが

自分が常識だと思っていることも
時代の空気や思想といったものがインストールされているにすぎないのよね

と、気功的なことを思いながら、読み終わった。
本は赤線だらけである。
おそらく、これから何度も読み返すことと思う。





追記
精油を使うものとして、
「ナルドの香油」でイエスの足を拭ったのが
マグダラのマリアではなく、別のマリアだった
という事実が少々ショックだった。
イエスのまわりには、マリアという名をもつ女が多かったのね。


Category :
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脱力乃回 @奈良

奈良に住むみちさんのスペースで
また脱力乃回をさせていただけることになりました
わーい

以下、みちさんからのご案内です

*******************************************

2014年春の「脱力乃回」を
開催させていただきます。

奈良のゆるやかな空気の中で
カラダとこころをゆるめる時間を
ごいっしょしませんか?

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【日にち】
3月25日(火)

【時間】
午後1時~3時

※終了後はゆったりと。
お時間の許すまで、ご一緒に。
桜が咲いていたら
佐保川をお散歩するのもいいですね。



【参加費】
2000円(ちいさなおやつとお茶付)

※ご予約はこちらから
http://sun-moon-star.jp/?page_id=28
(お名前と当日連絡のつく連絡先をご明記してお申込みください)

【場所】
「日+月+星」sun moon star

住所 630-8112 奈良市多門町35-2
http://sun-moon-star.jp/?page_id=25

【お問合せ】tel&fax 0742-81-8261 (福徳)




*************************************

気功的脱力方法をお伝えしつつ、
ひとりひとりの内側にある微細なダンスを感じる時間を
あわせて持ちたいと思っています。
どっぷり自分の内側に入り込む、深い時間です。

激しい動きはありませんが
じんわり汗をかく感じがあります。
温泉に入った後のような感覚です。

見た目にはわからなくても
うちがわでは激しく動いています。
細胞のひとつひとつから、からだを動かすための
エネルギーがうまれています。

わたしたちはからだを自分で動かしているようでいて
その実、動かされているのですね。。。



脱力乃回 の「回」は、
足首を回す、股関節をまわす、手首を回す、首を回す、
などなど各関節を油をそそぐようにまわすこと、
そして、いのちの螺旋、終点のない円のイメージから。

ゆったりゆったり
ごいっしょに、小さな粒になって
からだの内側の宇宙を旅しましょう。

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2014年3、4月のスケジュール

◎京都スケジュール

ご都合の合う方、
お会いしましょう~

3月20日 予約可
3月21日 午前予約済 午後5時以降予約可
3月22日 予約可
3月23日 予約可
3月24日 予約可
3月25日 予約可
3月26日 予約済み

(3月3日現在の状況です。
以降は、http://slowbody.p1.bindsite.jp/pg46.html
で参照くださいませ。)


◎練馬気功のひろば

・2013年4月6日(日)    午後3時から5時まで

予約は不要です。
お気軽にお越しくださいませ。
詳細はこちらです。
http://slowbodyqoo.blog110.fc2.com/





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物語を紡ぐ

あの時、こうであったら
あの日、こうでなかったら
こんな出会いにはつながらなかったと
驚くほどの、偶然がある。

ただの偶然だと思っていたことも
それらをつなぎあわせていくと
なんらかの意図がそこに隠されているとしか
思えないような物語となる。

長崎は、私にとって
そんな驚きをもたらしてくれた地である。
http://1love.link/walk_slowly/index.html

このページは、それまでにブログで書いていたことを抜き出し
2年前にまとめたものだ。
あらためて読み返すと
今回の旅へとつながる道しるべがすべて、
すでにここにあった。


長崎へ行くようになったのは、もう10年以上も前。
長崎に住むYちゃんがいたから。
Yちゃんとの出会いはバンバンバザールというバンドがきっかけ。
彼等のライブを追っかけているうちに呑み友達となった。

そして8年前、京都で出会ったRちゃんが
五島列島の最北端、宇久島行きに誘ってくれた。
そのRちゃんが隣島の小値賀島に移り住むようになり
そこから年に2回ほど、島へ渡るようになった。

高槻で小料理屋のバイトをはじめたら
女将が上五島出身の人だった。

野崎島は小値賀の管轄である、今は無人の島。
その野崎島出身だというSさんが小料理屋の常連にいた。
4年前、そのSさん一家とともに野崎へ渡った。
Sさんにとっては40年以上ぶりの帰郷だった。

Sさんは、クリスチャンだと言っていた。
顔からは想像できないなと思っていたけれど
野崎出身ならば当然のことだろう。
五島の島々には教会が建っている。
かつては本州側の長崎に住んでいた人々が
貧困ゆえに、そして、信仰をまもるために
いのちがけで島へ渡った時代があった。

Sさんはその末裔にあたるのだと思うと
今更ながらに鳥肌が立つ。
今度、高槻に戻ったらSさんに会わなければ。

はじめての宇久島へ、一緒に行った人は
今はもうこの世にいない。
その頃綴っていた日記を今一度読み返しながら
受験の小論文は書き出した。
誰かを失う慟哭を
私もあの時に知った。





今回の旅で
島で出会えた友人たちと
あらためてゆっくりすごした。
しばらく会っていなかったのが嘘のような
そして、今思い出しても、泣けてきそうなほど
穏やかで、静かで、明るい時間だった。

DSCF3992.jpg

これから新しい旅が始まるが
それが何の糧になるのか、ならないのか
今はわからない。

とりたてて意味があるというようには、思いたくない。
結果として、私がそういうふうに受け取ったというだけだ。

意味はもともとあるのではなく、意味は人が見いだすもの。
紡いでいけば、誰にでも、どんなものからでも物語はうまれる。

あらたな糸を得て、またこの続きを編んでいけるといいと思う。
続きに乞うご期待。


=============================================

1.あたらしい旅のはじまり
2.沈黙
3.歴史を振り返る
4.長崎 大波止
5.長崎 外海
6.長崎 外海其の二
7.長崎 外海其の三
8.長崎 浦上
9.長崎 雲仙
10.物語を紡ぐ


Category : 長崎
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長崎 雲仙

私が長崎にいくといったら
島で出会った友たちが長崎に集ってくれることになった。
そして、みんなで長崎近郊の温泉宿に行こうと
選んでくれたのが雲仙だった。

長崎と言って浮かんでくる三大悲劇って
キリシタン迫害、原爆投下、雲仙普賢岳噴火じゃないの?ちがう?
意図的であるとはいえ、なんというか
精神的マゾヒズムを充たす旅だったね、実に。


いや、それにしてもこの二日間はことさらに満ちていた。
お天気最高だし、あたたかいし。
しずかでおだやかで明るくて。

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地熱で岩盤浴。
パワフル。これだけで元気になれる。

DSCF3999.jpg


硫黄のにおいもいいし
吹き出る湯を見ているだけでも
血湧き肉踊る。

DSCF4036.jpg




でもって、ここも迫害のあった地。
「切支丹の里」にもその様が描写されている。
この残虐非道さは、ヨーロッパへも流布されていたとある。
日本って悪名高い国だったんだろうなと当時に想いを馳せる。

こうして今の、平和で穏やかな毎日の中で
他国間の争いや、近い過去にあった戦争には言及するけれど
日本国内でも「人を人と見なさない」ことができた過去のあったことは
すっかり覆い隠されている。

あ、でも、現代でもそういうことあるね。
一見穏やかだけれど、見えないそこここで
今この瞬間も喘いでいる人がいる。

DSCF4031.jpg



こうして弱者たちは政治家からも歴史家からも黙殺された。
沈黙の灰のなかに埋められた。
だが弱者たちもまた我々と同じ人間なのだ。
彼等がそれまで自分の理想としていたものを、
この世でもっとも善く、美しいと思っていたものを
裏切った時、泪を流さなかったとどうして言えよう。

その悲しみや苦しみにたいして小説家である私は
無関心ではいられなかった。

彼等が転んだあとも、ひたすら歪んだ指をあわせ、
言葉にならぬ祈りを唱えたとすれば、
私の頬にも泪が流れるのである。

私は彼等を沈黙の灰の底に、
永久に消してしまいたくはなかった。

彼等をふたたびその灰のなかから生きかえらせ、
歩かせ、その声を聞くことは—
それは文学者だけができることであり、
文学とはまた、そういうものだと言う気がしたのである。
「切支丹の里/遠藤周作著」




旅の終始、遠藤さんの小説の登場人物が
いたるところに透けて見えた。


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平成新山の頂には、雪と噴煙。

先日、小笠原諸島に新しい島ができるようすが
テレビで映し出されていたけれど
あんなふうな小さな島から、この山も始まったんだろうな。
マグマが噴き出て、地ができる様子を見られるなんて
なんてドラマなんだろう。

けれども、人が住んでいる地では
災いとなる。

一方では喜びに、他方では悲しみ。
それは背中合わせに。

強いものと弱いものとも背中合わせだ。
誰が強くて、誰が弱いのか。

山の営みを前にして感じたのは
わたしたちはすべて弱きものじゃないかということ。

神の前では、頭を垂れるほかないように。

Category : 長崎
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長崎 浦上

ホテル二泊の後は、友人の家に泊めてもらっていた。
彼女の家は、大学病院のそばで
そこからは歩いて浦上天主堂や原爆資料館にもいけた。

浦上は、原爆が落とされた中心地だが
禁教時代においても受難の地であった。

(浦上の)村民は徳川幕府の時代から明治にかけて
切支丹であることを四度発見され、その都度、
迫害をうけている。にもかかわらず、彼等は表面、
屈するように見せながらその信仰を遂に捨てなかった。

その意味で浦上は受難の村である。
そして受難と試練の村に最大の悲劇がもたらされたのは、
他でもない第二次世界大戦の終りだった。
周知のように小倉に向かう筈だった米国のB26が天候の理由で進行方向をかえ、
長崎に原子爆弾を落した時、その落下地点は浦上村の真上にあたっていた。
浦上の天主堂は一瞬にして瓦礫となり、
中にいた多くの信者は全員すべて倒れたのである。
(「切支丹の里」より)





はじめて、長崎原爆資料館に入った。
そしてそのとなりの長崎原爆死没者追悼平和祈念館へも。

広島に原爆が落とされたことは強く刻まれているけれども
長崎は広島に比べると、意識が薄れがちだった。

これもまた、よく知らないずっとずっと遠い昔のこと
のように感じていたことだったが
311の震災を経てあらためてみると
ぐっと身近に迫ってくる。
3年前に目の当たりにした惨状が、リンクする。


DSCF3825.jpg


追悼平和祈念館には、
原爆投下で亡くなった方々の名簿が納められている。
しんとした静謐な場に、地上へとつながる柱からのひかりがみちていた。
ひそやかな広い空間だったけれど、なにやら充満していて
一歩一歩のあゆみもおのずと遅くなった。


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平和公園で空を見上げながら
天使はいるのだなぁと思った。

ひかりにみちた青い空が続いていることのしあわせを思う。

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長崎 外海其の三

遠藤周作文学館裏手から傾斜をくだり、ちいさな漁港をぬけ
ふたたびのぼって、出津教会へと向かう。

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ド・ロ神父はフランス人宣教師。
1865年の「大浦天主堂での信徒発見」で知られるプチジャン神父と共に
1868年に布教のため来日。

ド・ロ神父は、キリスト教の布教活動のみならず
建築や土木、医療、教育など様々な産業や文化を外海の人々へ教え
地域の社会福祉に大きく貢献した司祭として広く知られている。

この出津教会もド・ロ神父の設計・施工によって建造されたもの。
明治14年に着工され、翌15年に完成している。1882年のこと。
ド・ロ神父は女性でも働けるようにと、
西洋式の機織工場や授産所、救助院などさまざまな施設建設に私財を投じた。
マカロニ、スパゲティなどのパスタもここで伝えられた。

いまでも、ド・ロさまそうめんとド・ロさまパスタが地元の会社で作られており
文学館横のカフェと出津のバス停そばで食べることができる。
私は文学館横のカフェでいただいたが
もちもちとしておいしかったので、道の駅でお土産に買ってかえることにした。

出津教会、救済院、資料館など、このあたり一帯は
出津文化村として整備されている。
ド・ロ神父も歩いたとされる、教会から救済院への小道がなんともいい雰囲気だった。



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長崎はどの町も平地が少ない。
海からはすぐ切り立つ山となる地形なので
人が暮らすための石積みがいたるところに見られる。

生きていくために、
いかようにも切り拓いていくすべをもつことが、人にはできるのだと
しみじみ思う。







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文化村入り口そばには、遠藤さんの石碑。
(石碑の背後の山、中腹に文学館がある)

  人間が こんなに 哀しいのに
  主よ 海があまりに 碧いのです


今も昔も変わらず、人は嘆き悲しみ、苦しみから逃れられない。
人の間に、等しく平等はない。
どうしてこのような理不尽なことがまかり通るのか
叫べども、天には届かない。

ただ、空は青く、海は碧い。

あの日の海も、今と変わらず
碧かったのだろう。


ふたたび、文学館へと歩く。
夕陽が海に落ち、赤く染まった。

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長崎 外海其の二

黒崎教会前の停留所からバスにのり、文学館前まで。
思ったよりも距離もあったし
なによりバスに乗っていてもかすかな重力を感じる勾配だった。
歩かなくて正解だと思うほど。

バス停からすぐのところにまずは「道の駅夕陽が丘そとめ」。
そして少し下がったところに、遠藤周作文学館。

そこから角力灘の海を望んだ時、
ひとりでに「ああ」とことばにならない溜息が漏れた。


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あの場に
たとえ誰かと一緒にいたとしても
単純に「きれいだねー」などと言えず
立ち尽くすだけだっただろう。


文学館もすばらしかった。
あそこには、遠藤さんがいると思った。
終始ぞわぞわしっぱなしだった。

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「沈黙」は最初、違うタイトルで刊行される予定だったが
編集者の案で「沈黙」となったそうだ。
そして、その「沈黙」というタイトル故に
「神はなにもせずに沈黙しているだけ」と捉えられる誤解を受けてきた。
キリスト教界からも、
宣教師が「転ぶ」などという作品は許すことができないと
された時代があった。

決して、神は沈黙していたのではない。
一緒に苦しんでいたのだ。
その沈黙は、沈黙の中に声がある「沈黙の声」であった。
というのがこの作品の大きなテーマであるのに。


文学館がオープンした翌日に
浦上天主堂で「遠藤周作とすべてのキリシタンのための追悼ミサ」
が催されたそうだ。
保守的なカソリック教会では
神が棄教を許すわけがないとされ、
(http://cafemdr.org/i/i-2012-1/i-MDR-Diary-20120206-2.html)
神に背くかのような遠藤さんの文学を認めることができないといったことや
カクレキリシタンの信仰は認められないといった風潮があったそうだが
それらを乗り越えての開催だった。
さらには瀬戸内寂聴さんの法話もあったそうだ。

また、枯松神社では、カトリックとカクレキリシタンたちが集まって
合同のミサも行われるようになった。


遠藤さんが亡くなった1996年9月から3年半後の2000年3月、
ローマ法王ヨハネ・パウロ二世が、カトリック教会の過去の過ちを認め、
神に赦しを請うミサをバチカンのサンピエトロ寺院で開いた。

キリスト教会の分裂、十字軍、異端審問、魔女裁判、反ユダヤ主義
などに関する教会や信者の責任を認め、
神に対し「謙虚に告白している信徒の悔い改めを受け入れ、慈悲を与えるよう」求めた。
世界最大の宗派であるカトリック教会が歴史的な罪を認めるのは
2000年の教会史上でも初めてのことであった。

遠藤さんは「日本人でありながらキリスト教徒である矛盾」を抱え、
自身の信仰への思索を「だぶだぶの洋服を和服に仕立て直す作業」と表現された。

「深い河」のなかにでてくるガンジーのことば。
「さまざまな宗教があるが、それらはみな同一の地点に集り通ずる様々な道である。
同じ目的地に到達する限り、我々がそれぞれ異った道をたどろうとかまわないではないか」

ヨハネ・パウロ二世の謝罪と、遠藤さんの問いかけ。
著作「沈黙」と「深い河」が果たした功績を思わずにはいられない。

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長崎 外海



遠藤周作文学館は、長崎駅からバスで1時間ほどの外海地区にある。
そのバスも、1時間に1、2本しかない。

あとで、「どーやっていったん?」と友人に聞かれ
バスでと答えたら、たいそう驚かれた。
まぁ、たしかにな。
途中、漁港を通ったが
その界隈においしそうな産直店があって
ここで降りたいと思ったが
このバスの本数ではいかんともしがたく
そのまま目的地まで進むしかなかった。


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黒崎教会で降りて、次のバス時刻をしらべて
枯松神社へ向かった。

どの道も坂というより傾斜。
傾斜度合いを確認する意味でも
上の地図は地形図にしてみた。
右上をクリックすると大きくなる。



江戸時代、黒崎をはじめ
この外海一帯は、かくれ切支丹たちが数多く住む里だった。
そもそもキリスト教が外海に伝来したのは1571年、
イエズス会の神父が集落を入り江ごとに
船で訪れてまわったのがはじまりという。

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沈黙という小説には、遠藤作品の中でも弱き転び者の代表
キチジローという男が登場する。

彼が語ったとされる、黒崎村の描写。
「なんと、この男はヒゼンのクラサキ村で
二十四人の信徒たちが藩主から水磔に処された光景を見たのだそうです。
水磔というのは、海中に木柱を立てて基督信者たちを縛りつけておくことです。
やがて満潮がくる。海水が股の処まで達する。
囚人は斬次に疲憊し、約一週間で悉く悶死してしまいます」
(「沈黙」より)


外海地方の信徒たちは潜伏し、信仰を保ち続けた。
黒崎地方の潜伏キリシタンたちは、枯松の山頂にひそかに集まってオラショを伝承してきた。
17世紀半ば、この地にバスチャンなる日本人伝道師があらわれた。
海岸の洞窟や山中に籠りながら、布教につとめたが
最後は桜町の牢で三年あまり拷問を受け、その末斬首された。
明治時代に入ると、この地に神社を建立し、
バスチャンの師であるサン・ジュワンをここにまつった。

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今は、アスファルトで舗装された道を歩けるが
それでも相当な傾斜道。
日が陰る山間の、私の他に誰もいない道を
心なしか息をひそめながら早足で歩く。
どう考えても、明るい気分にはなれない。
枯松神社からはそうそうに降りてきた。

人々の信仰を無碍にするつもりはないが
なんとも重い。


遠藤周作文学館へはバス停3、4個先であり
歩いていけるかと思っていたが
その先を見上げるだけでも傾斜というより、急勾配。
次のバスをしばし待つことにした。

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長崎 大波止

長崎にはもう何度も訪れていたのに
これまで観光らしい観光はしたことがなかった。
何が目的かというと、壮大に呑みにいくということ。
このブログに「長崎」というカテゴリーがあり
その軌跡はそちらに残してある。

今回は、約4年ぶり。
この4年間、東京への引っ越しと大きな震災で
どうも落ち着きのない日々だった。
長崎に行くということもなかなか考えられずにいた。


長崎はなにかしら縁を感じる地。
長崎市内に住む友人たちと、五島に住んでいた友人たち。
そして、バイトさせてもらっていた大阪の小料理屋での五島つながり。
(そのあたりのことは、こちらにまとめてある)


遠藤周作さんの著書は、「深い河」をずいぶん昔に読んではいたけれど
それ以前の小説はほとんど手にとることもなく
遠藤さんと長崎の縁も知らずに来た。
「沈黙」の舞台は長崎、そして遠藤さんご自身は長崎出身ではないけれど
文学館は長崎に建てられている。

私の表向きの意識は、何にも覚えてはいないけれど
過去に長崎にいたことがあったのかもなぁと思う。
しかもキリシタンで。
強い信者ではおそらくなかっただろうから
あっという間に棄教したことだろうけれど
それでも、転びながらも
キリストの教えに感化され続けていたんじゃないかと思ったりする。
特定の信仰は持とうとは、今は思わないけれど
聖者たちのことばには、深く頷くことがある。


今回の旅は最初の二泊を、大波止のホテルにて。

大波止のホテルの真向かいは県庁。
長崎に来てから知ったのだけれど
この県庁のある場所に400年前、建っていたのが
キリシタンを巡るすべてのはじまり「サン・パウロ教会」。
神学校であるコレジョやセミナリヨも建てられ
天正の少年使節がヨーロッパから持ち帰った印刷機で
さまざまな書物が印刷されはじめ、
遠くヨーロッパで「小ローマ」と称された長崎のなかでも、
最大中心であった地。
その後の禁教令で、教会は破壊され、
奉行所が置かれることとなった。

私の旅のはじまりも
長崎キリシタン史のはじまり、ここ大波止から。

ちなみに、この春から通うことになったグリーフケア研究所のある上智大学は
「1549年、イエズス会の宣教師であったフランシスコ・ザビエルが
日本での高等教育機関開設を構想したものの、日本の禁教により適わず、
改めて1900年代にローマ教皇ピウス10世が
日本での高等教育機関設立をイエズス会に託したことで1913年に設立された」
とwikiにあった。


なんというか、いったいどんな因縁だと思わず唸る。

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大波止でとった写真は、この長崎ソウルフード
チャンポンだけ。

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歴史を振り返る

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ここでざっと、キリスト教伝来の歴史を振り返ってみたい。
遠い遠い昔の、あったかどうかもわからないように感じていた歴史も
現代に事実としての痕跡が残っていると、
急速に身近なものと感じられるようになる。
「むかーしむかし」がそう遠い出来事ではなくなる。

1549年 フランシスコ・ザビエル鹿児島上陸。キリスト教を伝える。
1550年 フランシスコ・ザビエル、平戸にて布教をはじめる。
1567年 長崎にキリシタンの伝道が始まり、ヨーロッパに長崎の名が知られはじめる。
1571年 長崎開港。
1582年 四人の少年使節が長崎から出航、ヨーロッパに向かう。
1587年 豊臣秀吉により伴天連追放令がくだされる。
1590年 四人の少年使節が長崎に戻り、活版印刷機が持ち帰られた。
1597年 2月5日、長崎の西坂で26人のキリシタン処刑。
1612年 徳川家康、江戸幕府直轄領にキリスト教禁止令布告。
1614年 全国にキリスト教禁令が布告される。
1622年 長崎の西坂で55名が火刑と斬首によって処刑。元和の大殉教。
1626年 キリシタン入島禁止の高札が立つ。懸賞訴人制度始まる。迫害が強化される。
1627年 雲仙での迫害始まる。
1628年 踏み絵開始。
1633年 第一次鎖国令。
1635年 日本人の出入国禁止。寺請制度が始まる。
1637年 島原・天草の乱勃発 〜38年 幕府、立て籠る2万7千人を殺戮。
1639年 ポルトガル船に断交を通告。
1640年 幕府が宗門改役を置く。キリシタン摘発、処刑役。
1641年 オランダ人を出島に移す。
1644年 国内では神父不在となる。
1858年 幕府と欧米5カ国との修好通商条約を締結。長崎奉行絵踏を廃止。
1859年 長崎開港。
1865年 大浦天主堂献堂。潜伏キリシタン、250年ぶりに発見。
1867年 浦上で信徒68名が捕縛される。
1868年 諸外国の抗議にも関わらず、浦上村信徒114人、津和野、萩、福山へ流配。
1870年 浦上村信徒3300人余流配。
1873年 浦上村流配者、釈放帰還。配流された者の数3394名、うち662名が命を落とした。
     キリシタン禁制の高札撤去。キリシタン迫害終わる。

キリシタン史 布教〜禁教〜開国 
http://www.collegium.or.jp/~take/christi/rekisi1.html
江戸時代のキリシタン―禁制後 
http://www.jfn.jp/News/view/owj_tera/3749



キリシタン迫害250年のあいだに
どれほどの人が死に追いやられたことだろう。

上にリンクしているキリシタン史から抜粋する。

徳川秀忠時代の主な殉教事件だけでも、
1619年京都大殉教52人火あぶり
1622年長崎大殉教55人火あぶり
1623年江戸大殉教50人火あぶり
1624年東北大殉教109人殉教
1624年平戸大殉教38人殉教
と、キリがない。
新井白石の『西洋紀聞』下巻付録によると、
殉教者の数は20~30万人にのぼる、となっている。
しかしこの数はおおよそであり、しかも根拠が無い。
姉崎正治博士の史料に基づく実数計算では、3792人、
その後ラウレス博士による計算では4045人を数えた。

これらは確実な史料に基づくものであり、史料発見と共にその数は増加している。
未発見の史料、無くなってしまった史料、
史料に残されなかった殉教事件なども起こっていただろうから、
実際の殉教者総数は、何倍にもなるであろう。

島原の乱は、
キリシタン一揆と呼ばれることもあるが
実際には、重税と飢饉に喘ぐ農民の一揆であった。
キリシタンへの弾圧も加味し、結びつきを強くしたことから
キリシタンの反乱と流布され
そして、キリスト教は邪教であるとの観念を国民に植えつけていった。

島原の乱で殺された農民はキリシタンが多かったが
農具を武器として抵抗した為、その死は殉教とは認められていない。


キリスト教であるか否かの選択には、大きく3つあった。
ひとつは、信仰を捨てない殉教、
ひとつは、仏教徒として改宗すること、
ひとつは、仏教徒であるとしながら、隠れてキリシタンであり続けること。

キリスト教信者でなくなることを、「転び」といった。
キリスト教会にとって、銅板のイエスキリストを踏むことは
許しがたい愚行としか映らない。
殉教者には、死して信仰を護ったその行為を栄光として讃えた。
それゆえ、崇拝の対象ともなった。

幕府としては、華々しい殉教をよしとしないが為に
拷問を長く苦しみが続くものとし、棄教を迫る方向へ、
その方法も、表に立つ磔から、人目にもつかず残酷極まる穴吊りへ転じていった。




キリスト教最盛期には、長崎は
ヨーロッパから小ローマと称されるほどになっていた。
実際、日本で一番はじめに洗礼を受けた大名
大村純忠は長崎を開港し、イエズス会に長崎を寄進。
キリスト教を信仰するよう、領民に強いたりもした。
キリシタンによる仏教制圧もあったようだ。

豊臣秀吉の時代は
布教の禁止のみにとどまり、
一般人には信仰の自由がゆるされていたが
徳川幕府の時代に入り、
スペイン、ポルトガルのカトリック勢力が
日本を征服しようと意図していると
イギリス、オランダのプロテスタント新教
から吹き込まれ、禁教令が敷かれるに至った。
(島原の乱には、オランダ勢も幕府側に加担。
同じキリスト教徒いえども、
プロテスタントとカトリック間では
宗教戦争をも勃発させるほど反発し合っていた。
砲弾を備えたその軍備力に幕府は危惧を抱き、ゆくゆくはオランダも
領内から閉め出され、出島にとじこめられることになる。)


さまざまな思惑が、働いたことであろう。
信仰を普及するという任務に燃える宣教師もいたが
国でみると、キリスト教を足がかりに金銭利益を得たり
ゆくゆくは支配へという魂胆もあった。
民衆で言えば、敬虔なキリスト信者もいたであろうが
大方が、現代と変わらず、
キリスト教はなんとなくおしゃれだ
といった理由からの受洗であったようだ。

迫害後は、殉教が讃えられ
棄教者は蔑まれた。
仏教に改宗したかのようにみせかけて潜伏していたキリシタンたちのあいだでは
宣教師のいない中、信仰は独自のものへと変化を遂げた。
信仰の自由が認められた後、多くはキリスト教への復活を果たしたが
隠れ切支丹としての信仰を続けるものもいた。
(近年、跡継ぎもないまま、「カクレキリシタン」の信仰は途絶えようとしている。
しかし、いまだ隠れ続けている信仰もあるのだろう。)
ここでも両者は相容れない。

なんとも、イエス・キリストの教えからは
すべてかけはなれたところにある話である。


先のリンクに書かれていることも興味深い。

「幕府においてキリシタン弾圧というプロセスが
どのようなことを意味したのかをあらためて考えてみると、
幕府はキリスト教の禁制を巧みに支配体制の中に組み入れていったことに気がつくのです。

例えば、宗門改という制度をつくって一人ひとりの庶民を寺請、
つまり、いまでいう檀家制度で、この制度ができたということは、
江戸時代に戸籍ができたということです。

つまり、一人ひとりにチェックをかけて宗門改をするという名の下に、
戸籍をつくって管理をするということです。
江戸幕府という政治権力体制をそのプロセスを通じて
構築していったともいえます。
したがって、檀家制度は明治以降の近代化と都市化の中で
ほとんど空洞化していっていますが、
江戸期に埋め込まれた日本の社会システムのあるものが、
いまだにある意味においては存続しているともいえるわけで、
深く考えさせられるのです」


遠い遠い昔のこと、
まるでどこか遠い国でおこったかのように感じたり
あったかどうかもわからないように感じていた歴史が
一足飛びに身近に迫ってくる。


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「沈黙」

遠藤周作さんの「沈黙」は
東北大震災が起こってしばらくして
手にとった小説だった。

沈黙 (新潮文庫)沈黙 (新潮文庫)
(1981/10/19)
遠藤 周作

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内容があまりに壮絶で、読んだ後は茫然とするほどだった。

ちょうど、その時受講していた編集学校のお題に
知文術というものがあった。
校長である松岡正剛さんの文体編集術をもとに
その本を読んだことがない人にむけて
限られた字数で、必要な情報を提供するというもの。

その知文術稽古に選ぶ一冊として
ほとんど迷いなく「沈黙」を選んだ。

この本を紹介するために
当時綴った文章を再掲したい。


----------------------------------------
 1612年、江戸幕府により禁教令が発令され、
キリスト教及び信徒への弾圧が始まった。棄
教を迫る拷問は、これが人のすることかとい
う凄惨さであった。祈れども、その声は神に
は届かない。神はなぜ黙っているのか。
 2011年現在、この国は未曾有の危機に瀕し
ている。地が揺れ、津波が押し寄せ、死の灰
が舞い散った。マスコミも政治もその機能を
失った。弱者は頭を垂れるしかない。神は沈
黙したままだ。神などいないのかもしれない。
 遠藤周作は、日本人でありながらクリスチ
ャンであるという矛盾を抱えていた。風土の
異なる地でうまれたキリスト教を日本という
地ならではの解釈で捉えることが、彼の小説
の核となっている。本作は、禁教令の敷かれ
た江戸時代、日本に潜伏を果たしたポルトガ
ル人司祭たちの、史実に基づいた小説である。
 長崎奉行所に捕らえられた司祭ロドリゴは、
棄教すれば拷問を受けている信者を助けてや
ると持ちかけられ、踏み絵に足を掛けた。他
人の苦しみのため、キリストを裏切ることを
選んだ。銅板の中で、あの人は司祭にむかっ
て言った。「踏むがいい。お前の足の痛さを
この私が一番知っている。弱者も強者もない。
強い者が弱い者より苦しまなかったと誰が断
言できようか。キリストを裏切ったユダの心
も痛んだのやもしれぬ。私は沈黙していたの
ではない。一緒に苦しんでいたのだ」。
 今、この時代に生きる私に何ができるのだ
ろうと考える。この国はかつて勝敗を競う国
であったが、今や、彷徨える弱者ばかりが住
まう地ではないか。己の弱さを認め、互いに
共感を寄せ、隣人は自分でもあると置き換え
てみる。この「弱き者への共感」こそが遠藤
周作作品の最大のテーマであり、これからの
日本へ捧ぐことばでもあると私は受けとった。
 キリストはユダに言った。「去って、なす
ことをなせ」と。そう、私も「己れの為すべ
きことを為す」しかない。いかにこれからを
過ごしていくのか。選択は常に迫られている。

-----------------------------------------


震災での大きな被害を目の当たりにして
「神も仏もない」とつぶやいた人がいたこともあり
私はこの「沈黙」を震災に結びつけて
読み解きたかった。

その震災から丸3年が経とうとしている。
そして今、長崎に旅をした後、
久しぶりに3年前に書いた文章を読んだ。

最後の4行に
「沈黙」と「震災後の自分のありかた」を結びつけたいという
想いを凝縮させすぎている。

今ならば、もうすこし違う文になるだろう。

どう書くか。

長崎での旅をふりかえりながら
書き出していきたい。
再稽古だな、これは。

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「沈黙」の中に出てくるトモギ村のモデル舞台、長崎外海地区に
遠藤周作文学館が建っている。

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