空模様

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Posted by チエ on  | 

戦中、戦後 遠い昔だと思っていたこと

「なぜ友は死に俺は生きたのか 戦中派たちが歩んだ戦後」
/堀切和雅著を読んだ。

なぜ友は死に 俺は生きたのか ─戦中派たちが歩んだ戦後─なぜ友は死に 俺は生きたのか ─戦中派たちが歩んだ戦後─
(2010/07)
堀切 和雅

商品詳細を見る

-------------------------------------------------------
「戦争が終わってアメリカがきたら、すぐアメリカさん万歳になる。
結局、『長いものに巻かれる』、そういう資質が、日本人にあるのだ
と思いますね。自分で考えて自分の信念で判断するということではなく
時の権力者、時流にへばりついて生きるという」
--------------------------------------------------------
もっとまとめるべき箇所はあるのだけれど
ああ、そうなんだよな…と染み込んだ箇所。





ここに書くことを躊躇っていたけれど、
今の気持ちとして書き留めておこうと思う。
政治と宗教を、多くの人のいる場で語ることは
ずっとタブーだと思ってきたけれど、
ここ数年で私もすこし変わった。


秋から冬にかけて映画館で映画を見る機会が割とあり
「永遠の0」の宣伝をやたらと見かけた。

原作者のことは、著作が本屋大賞になるなどで
以前から話題にあがっていたが、
彼の言動をツイッターで見かけるにつけ
薄気味悪さを私は感じていた。
映画の宣伝を見ても、見ないなこれは、と思った。

先週「永遠の0」が封切られた。
見た人の評判を聞くにつけ、疑問がわいてくる。
多くの人が「感動した」と書いているので、
どこがどんなふうにという点で関心はある。

原作者の言動は、検索すればすぐに出てくる。
どんな人か調べたら
「探偵ナイトスクープ」のチーフライターとあり
驚いた。そしてショックだった。

うみだすものと、うみだした人はベツモノ
ととらえるのかどうか、ということも
あらためて考えたいと思うが
この映画と小説へはお金を落としたくないと思った。

それでも、著作を読まないことには
語れない気もして、図書館に予約を入れてみた。
しかし、昨日の首相靖国参拝をニュースで知り
それをめぐる一連の説明を聞き、すっかり読む気が萎えた。

死者を弔うことに、もちろん異論はない。
けれども「英霊」と持ち上げ、あがめ奉るのはやはり間違っている。
戦争を美化して、感動話にしてはいけないんだ。

いや、そりゃ映画見たら多分泣くよ。想像はつく。
著者の書いたものを一冊も読んだことはないけれど、
人の秘孔をつくのが、ものすごくうまいんだと思う。
(ツイッターは本音でちゃうけど)

でもね、その感情を「感動」と表現してしまっては、
死者への弔いにはまるでならないと私は思う。


私が生まれたのは、昭和44年。
母は昭和19年生まれ。
こどもの時に聞いた、母の幼い頃の話も
中、高校生だった話も、遠い遠い昔話だと思っていた。

でも、今、こうして私もいい年になってあらためてふりかえると
私が生まれた44年と戦争が終わった20年は
たった24年しか離れていなかったんだなと気づく。

ここのところ、歴史のことをよく考えているが
まったく興味のなかった近代史、
駆け足授業だった戦前、戦後史を
あらためて知らなくてはと思っている。
書き残された歴史は、どうあっても書き手の主観がはいるので
事実そのものとは言えないが、何冊か読み出している。

次に読むのは「日米開戦の悲劇」。
駐日大使であったジョゼフ・グルー氏の観察をもとに書かれた史実。
日本人とは異なった角度からの視点も知りたい。


本は何度か読み返そうと思う。
またまとまればあらためて。

スポンサーサイト
Category :
Posted by チエ on  | 0 comments 

「記憶は愛である」

「記憶は愛である~森崎東・忘却と闘う映画監督~」
録画していたEテレの番組を見る。

森崎東さんは現在上映中の映画
「ペコロスの母に会いに行く」の監督。
認知症を扱った映画であるけれど
監督自身も認知症にかかっておられたのか。

「記憶とは愛である」と監督は言う。

「覚えていたくない記憶も、時が経てば
笑える話になったりする。
時間は偉大だと人は言うけれど
偉大なのは『脳の働き』だ。
そんな脳の偉大さを思う時に
生きている楽しさを感じる」

ここのところ、歴史についていろいろ考えている。

(学校で教わる「歴史」は中央の歴史で
現在の価値基準で過去を描けば
過去は低位な未発達の社会として描かれ
歴史は無意識のうちにおこなわれる「悪意」によって
書き換えられる)


今の私をつくっているものは
父や母、祖父母…とずっと連綿とつながる身体と精神の歴史、
そして、時代の空気。
表立った歴史には残らない市井の人々の記憶。

「ペコロスの母に会いに行く」は
多くの人々の記憶を寄せた珠玉の映画であった。

もうすぐ上映は終わってしまうけれど
一度みただけでは気づけないエピソードもたくさんある。
漫画とあわせてぜひ多くの人のもとに
届けばと願う。

ペコロスの母に会いに行くペコロスの母に会いに行く
(2012/07/07)
岡野 雄一

商品詳細を見る


(映画、わたしもちょこっと映っているのです、実は…
それで推すというわけではなく、本当にいい映画なのよ!)


http://pecoross.jp/

Category : いつものこと
Posted by チエ on  | 0 comments 

キツネにだまされるための備忘録

備忘録なので長いです。
「みえないもの」に対する興味があればご一読くださいませ。
:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

ごん狐はなぜ撃ち殺されたのか――新美南吉の小さな世界ごん狐はなぜ撃ち殺されたのか――新美南吉の小さな世界
(2013/08/08)
畑中章宏

商品詳細を見る


「ごん狐はなぜ撃ち殺されたのか/畑中章宏著」を読んだあと
「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか/内山節著」を読む。
交互に何度も読み返している。


日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか (講談社現代新書)日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか (講談社現代新書)
(2007/11/16)
内山 節

商品詳細を見る



かつては、あたりまえに、当然のことのようにあった
キツネや狸にばかされる話。
ばかされない人の方がおかしがられるほどに。
内山さんの著作の中では、1965年を境に
新しい話は発生しなくなったとあった。

「なぜ撃ち殺されたのか」にも
「なぜだまされなくなったか」にも
本のタイトルに対する明確な答えはだされていない。

「ごん狐はなぜ…」には
ごん狐の著者である新美南吉の「おじいさんとランプ」にある
「人間は誰でも明るいところから暗いところに帰るのを
好まないのである」という一節がとりあげられていた。

明るい未来を思い描き、
煌煌と細部まで照らして
闇に存在するものたちを
消してしまったようだ。

「一度失われてしまった文化は、
悔やんでも悔やんでも取り戻せないものなのである」
(ごん狐はなぜ撃ち殺されたのか)



ここのところ、「歴史」とはいったいなんだろう
と考えていた。
内山節さんのこの著作は
そこに手を差し伸べてくれた。

「国民の歴史」は発展の歴史として描かれるしかない。
なぜならそれは「中央/国家の歴史」だからだ。
現在の価値基準で過去を描けば
過去は低位な未発達の社会として描かれる。
こうして歴史は無意識のうちにおこなわれる「悪意」によって
書き換えられる。


近年の事象をとりあげてもわかる。
たとえば「東日本大震災」がおこったのは
2011年3月11日に相違ない。
しかし、
東北で被災した人々が語る311、
東北の中でも沿岸部に暮らしていた人が語る311、
山で暮らしていた人々が語る311、
東京に暮らす人々が語る311、
関西に暮らす人々が語る311、
そして政府が語る311。
同じ日本という地に暮らしているけれども
まるで異なる話になる。
311の震災には無数の物語がある。

けれども、歴史的事象としては
「2011年3月11日 マグニチュード9.0の大地震発生」
が年表に掲げられ
そして、これまでと同じような
中央としての歴史が語られるとするならば
大きな災害があったにも関わらず
復興をとげ、オリンピックが開催されるような
発展をとげつづける日本を描くところだろう。

そのあいだにある物語は、一切見えてこない。

内山さんのことばをいくつかお借りする。

「結局、生まれてくるのは
現在の問題意識によってきりとられ、物語られた歴史、
ということになるだろう」。

「さまざまな人々の世界からつかみとられた歴史。
ここに普遍的な客観的事実は存在するのだろうか。
むしろ歴史はさまざまに存在し、それらが重なり合いながら
展開しているのではないだろうか」。

「もっともミクロな歴史である個人史を見ても
そこには大量の『みえない歴史』が存在しているのである。
それは人間の存在の根本に関わることで、
意識されていない知性の記憶、身体の記憶、生命の記憶
というようなものは、私たちの『現在の知性』の及ばないところにある。
さらにもしも生命の記憶のなかにはかつてユングが述べたように、
生まれてから以降の経験した歴史だけではなく、
生命を受け継いできた「人類史」、「生物史」の記憶までが
無意識の集合意識として潜んでいるとするなら、
『みえない歴史』はさらに深淵で広大な世界を形成していることになる」

「私たちはこのような歴史世界のなかに存在しているのである。
ところが知性によって語られた歴史だけが歴史であるように思える、
現象的な精神世界のなかで暮らしている。
とすると、全体としての自分の存在と、
知性によってつかみとられた現象としての自分の存在の間には、
大きな乖離が生じている。
そして、この乖離こそが今日の私たちの状況を
つくりだしているような気がする」。

「『発展していく歴史』は、知性が歴史に合理性を求めたことによって、
そのようなものとしてみえてきた歴史であって、
それだけでは身体や生命を介した歴史はつかむことができないのである」。

「現代の私たちは、知性によってとらえられたものを
絶対視して生きている。
その結果、知性を介するととらえられなくなってしまうものを、
つかむことが苦手になった。
人間がキツネにだまされた物語が生まれなくなっていくという変化も、
このことの中で生じていたのである」。



この話は「気」の話にも通ずる。
気の世界は、見えない世界であるから。

人は、自分と他人が見ているものは
視覚的に同じだと思っているけれど、
客観的世界だけではなく、「私」を包んでいる世界、
「私」がとらえている世界が違えば、
事物として同じものを見ていても、見え方はまるで異なる。

誰かにふれて、浮かび上がる風景のようなもの、色、感覚。
いかに主観を排そうと試みても、捨て去ることはできないゆえ、
例えば「赤を感じました」と何人かの人が言ったとしても、
その感じた赤色はどのような赤色か、人それぞれで違うはずだ。
けれども、どう違うかを証明する術はない。


あるはずの「気」の感覚を
とりだせないのだとしたら
それは「自覚」「知性」「理性」「意識」といったものが
邪魔をしているからだ。
知性を介するとみえなくなる「気」は
私たちのからだの中に存在している。

「『知性』とはなにか。
それは現在の問題意識によって再創造された知性である。
私たちは自分の知性に対してさえ、そのすべてを知っているわけではない。
現在の問題意識によって再創造された知性だけが
私たちにとっては自覚された知性として存在している」。

「自覚された知性に映し出された記憶だけが
私たちが記憶として知っているものである」。
「もしも私たちに何らかの変化を生じ、自覚された知性の内容が
変化すると、映し出される記憶も変わる」。

現在が変われば、記憶の中にある過去は変わる。



「気功」とは
知性を抑え、精神性、身体性をひきだす練習でもある
とも言える。
それだけでは、他者に対する説明としては不十分であるが
内山節さんのこの著作を何度も繰り返し読んで
いずれの時にかは、私のことばとしたい。

「自然が手本である」と教わってきたが
それは、この文章が重石となってくる。

「かつての日本では自然はジネンと発音されていたが
明治時代の後半、英語、フランス語のnatureを日本語にするために
シゼンが使われるようになった」。

「ジネンはオノズカラ、あるいはオノズカラシカリという意味のことばである。
私たちは『自然にそうなった』とか『自然の成り行き』という表現を使うが
これがジネンと読んでいた時代の意味の名残だと思えばよい」。

「このようにみていくと、自然に帰りたいという人々の伝統的な思いは、
シゼンに帰るということより、ジネンに帰る、
つまりオノズカラの世界に帰りたいという思いだったことがわかってくる。
オノズカラのままに生きたい、ということである」。

「自然を訓で読んだときのオノズカラシカリとは作為がない、
ということであろう。有意ではない、といってもよい。
自我の働きから生ずる意図がない。あるいは『我(われ)』がない、
と表現することもできる」。


抜き出したことばは、どれもおなじことを伝えている。
「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」を
繰り返し読んでいると、頭の中が混沌としてくる。
螺旋を描く渦が、私の中に入ってくる心地がする。

最後に、昨日みかけたツイート。
この日のまとめとして添える。
なんてすてきなのだろう。




Category :
Posted by チエ on  | 0 comments 
該当の記事は見つかりませんでした。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。