空模様

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やさしさの浸透圧・第六回トリートメントクラス

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昨日、全6回のトリートメントクラスの行程が終了しました。

半年間、あっという間だったなぁ。

単純に、マッサージをする
ということだけではなくて
「生きていくこと」という壮大なテーマにまで及ぶ話もしたりして
たった6回のことでどれだけのことが伝えられたか
私もほんの少し不安だったりします。

でも、毎回クラス後にいただく感想の中で
「前に比べていろんなことがラクになりました」と言ってくださる方がいて
とってもうれしく思いました。


ゆっくり動いていく中で
自分のカラダの内側に、微細に意識を向けていくと
心地よい部分とそうでない部分とに気づくことができます。
その境目は明確ではなく、かなりな微調整ですが
少しでもこれは好きだとかキモチヨイとかラクだとか
なんかええわぁ、みたいな方向にみんなで行こうぜ!
と私は真剣に思っています。




先日、お客さんから
朝日新聞の特別号「Globe」に掲載されていた「もむという仕事」という記事誌面を
いただきました。
web版 → http://globe.asahi.com/feature/090803/index.html
驚きました。
「マッサージ」が全国紙にこんなに大々的にとりあげられようとは。

私のまわりでも、体に触れるという仕事に携わっている
もしくは携わろうとしている人が本当に増えました。
初めて出会う人たちの中に、「マッサージしてます」もしくは「勉強中です」
という人が必ず一人はいたりします。

この「マッサージ流行」という潮流の根底には
やはり「誰かとのつながりを見いだしたい」という欲求があるんだろうなぁ。


けれどもハンドマッサージの一日講習や
数時間のトレーニングで開業しちゃったり
という話を聞くにつれ、そんなんでええのかと思います。
きっと、私が苦手だと感じるのは
すぐにお金というエネルギーに結びつけようとするところなのだな。
まぁ、結局、人がお金を支払うのは
その価値があると認めたからで
短時間のトレーニングを経て開業しても
その人がよいと感じた人が集まるのだから
それはそれでよいんだろうとは思いますが。

私は、自分がクラスを受け持たせてもらった人たちには
まずは身近な人たちに、もっと気軽にふれる・ふれられる
機会をもってもらえたらなぁと思っています。
ふれる・ふれられることで
ゆるみ、とけていく感覚
ふれている側、ふれられている側に境界がなくなっていく心地。
お互いに、行き来するエネルギーを感じられるシアワセは
お金という、数値としてあらわされるエネルギー以上のものがあると思うのです。
(お金を否定しているわけではないのですが・・・。
もっと、もっと、単純にふれることを楽しむ
ふれられることを楽しむ、それがふれることへのきっかけでありたいと思うのです。)


60兆という細胞が隣接しあって「私というカラダ」を構成しています。
細胞は個でありながら、私という全体を為しています。
私たちのこの、ふれているふれられているという関係は
この「個であって全体」という状態のような気がします。


誰かの手のぬくもりを感じて
ほどけていく。
とけていく。
かたく閉ざされた中から、うまれてくる何かがあります。
ほどけたこわばりの中から
姿をあらわす何かがあります。


手をあてるということは
なにかを治すということではなくて
互いに本来持っている能力を引き出しあって
高めあっていくこと。


そんな、とろけるような時間が持てている間は
ことばもいらないし
お互いがやさしさに充ちていく時間となります。


遠慮とは、相手のことを思いやっているようで
実はただ、相手の思いを受け止めることから
逃げていることだったりする
と石井ゆかりが書いていました。

遠慮なく受け取り
惜しみなく渡す。

細胞間にある浸透圧のようなものが
私と誰かのカラダの間にもあります。

そんな循環が
私のまわり
そして、今回クラスに来てくださった人たちのまわりに
どんどんとひろがっていってくれたら。

それが、私がクラスをはじめた理由です。



春からの全6回を終えて
次回は、9月23日の秋分の日からまた新しく始めます。
すでに前回ブログで案内した時点で
4名の方からお申し込みをいただき定員と達しております。
(お申し込みいただいた方には先日メールをお送りしましたが
届いてますかー?
届いてないという方はぜひご連絡ください!)



まだ予定は未定ではありますが
秋からのクラスで、ひとまず一区切りをつけるつもりでおります。
(実は来年、京都からはなれることになりそうです。)

なので、ご希望の方があれば
別日程で始めてもいいと考えております。
この機会にクラスを受けたい
とお考えの方がおられましたら、ご一報くださいませ。
詳細はこちらからどうぞ。
http://www.eonet.ne.jp/~slowbodyqoo/massage_class.html



さて、わたしはあさってから
再び、エネルギーチャージのため南九州へ行ってまいります。

私の中のエネルギーは、滞ることのないように。
それが私の旅に出る理由。

9月7日に戻ります。

また秋からもどうぞよろしくお願いいたします。

では、いってまいります。






最後に。
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春からのクラスのみなさま
楽しい時間をどうもありがとう。
これからもどうぞよろしく。



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縄文・三内丸山遺跡

20090815-R0018130.jpg


遺跡が好きだ。
お寺が好きなのも、
古代に生きていた人たちと交信できるような気がするからだ。


かつて、私が子供の頃には
縄文時代の人々はとても原始的で野蛮な暮らしをしていた
というようなことを学校で教えられたが
今では私たちの想像する域を超えて
高度に発達した文明が築かれていたという説が有力だ。
歴史は時空的に後退しつつも、進化を遂げている。
想像にすぎないが、いにしえに思いを馳せるというのは
なんとも楽しいことである。
おもしろい。


青森では、縄文遺跡が数多く発掘されている。
今から5000年から4000年も前に暮らしていた人たちの跡がある
なんて、実に血湧き肉踊る話だ。

数ある縄文遺跡の中でも最大級なのが
三内丸山遺跡。

20090815-R0018134.jpg

いやー、ここはよかった。
どこまで入っても料金を支払うところがなく
どこで入場料を払うのかと思いきや
こんなに楽しめて無料とは、なんて太っ腹な。


私自身は縄文系ではなく
おそらく大陸との混合人種なのだと思っているのだけれど
縄文人と言われる人たちが遠い遠い私の祖先には違いなく、
彼らがたどった道を想像するだけで
血が沸々とわくような、細胞がタテノリをするような
テンションになる。

私たちの祖先は、船を使って航海する術を持っていたというが
縄文人もアイヌもネイティブのアメリカンも、ハワイアンも
どの人種の祖先も実は同じで、それぞれ船で渡った先や歩いてたどり着いた先に
定住した人たちがそれぞれ固有の国の人になったんだろうと、私は思っている。
それは気功を教えるようになってとくに実感するようになった。
私たちの思想の根底にあるのは同じものだ、と。

私は、今自分が暮らしている日本が本当に好き。
だから、この地で古来から大切されてきているものを
受け継いでいきたいと思う。
「日本」という国、ではなく「この地」を。
入ってきたものを、自分たちにうまく取り入れることのできる
この地の人、として生きていきたいと思う。
気功についてもそうで
かつては中国のものではあったが、自然と一つになることが
気功の大きな教えならば、この地のものと為すことがすなわち自然であると。


ちなみに、4000年前を最後に
平安時代まで、この地に居住する人はいなかったそうな。
気候は温暖寒冷を繰り返し、人々はそれにあわせて住むところを変えていったようで。
三内丸山に縄文の人々が居住した期間は1500年。
・・・現代の私たちも、そろそろ住まう場所を変える時期に入ってるのかもね。


そんなことを
オーストラリア、アボリジニたちの楽器であるディジュリドゥの祖かもしれない、
アイヌの間に伝わるというイオンカの音を聞きながら
ぼんやりと私は考えるのでありました。

20090815-R0018152.jpg



その三内丸山遺跡で10月にこんなイベントがあるそうな。
ああ、行きたい!
http://runday.exblog.jp/12164628/

Category : 旅日記
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夏のひまわり

20090818-R0018207.jpg

私はそんなことは、絶対しない
と思っていたことを
やってしまった時
絶対、なんてことは
ないんだな
とわかった。

それから
自分以外の他の人に対しても
許せない
と思うことがほとんどなくなった。


許してください
ということばは
誰かに対してのものではなくて
自分自身へ
だな。

誰かからの謝罪なんていらない。

自分がしたことは
自分が一番知っているはず。


20090818-R0018211.jpg



夏のひまわりのように。

こんなふうに
顔をあげて
いきたい。


Category : いつものこと
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青い森の国

20090815-R0018117.jpg



東京に行くたびにお世話になっていた愛ちゃん
この5月に青森の弘前へ引っ越し。
私にとって青森は、10年前に訪れたきりで
その時は、下北半島を中心に回ったのだけれど
真夏にもかかわらず、やたらさみしい感じで
もう二度と行くことはないな
と思っていた地だったが
愛ちゃんが「弘前は楽しいよ」と言うのと
旅という雑誌にたまたま「金木」特集があって
そこに載っていた「十二本ヤス」という大きな木に会いたくなって
この夏は青森に行こうという気になった。
新潮社・旅 リンク先のバックナンバー08年10月号の5ページ目)

yasu_small_20090820125937.jpg


一度、東京に出て
東京から車で青森へ。
街の距離感とはまるで異なり、思っていた以上に遠く
灯のない山道を走りつづけた。
東北はまさしく道の奥、みちのくなのだなぁ。

本当に、青森は「青い森の国」。
分け入っても分け入っても、緑色。
青森は、私たちの原始にある記憶を
呼び覚ましてくれるゆたかな地だった。

10年前に訪れた青森の記憶を更新、というか刷新して
またもう一度訪れたいと思わせてもらえた。


訪れた場所、いずれもが
深く心に残る場所なので
またあらためて書いていきたいと思うが
今日はひとまず、この写真を。


20090815-R0018110.jpg

十二本ヤス。

12本の枝が、魚を突く「ヤス」に似た形で突きだしているのでこう呼んだもの。
地上数メートルの所から一斉に枝が分かれて天を突いている。
樹種はヒバ(ヒノキアスナロ)。
樹高33m、幹周7.2mで、樹齢は800年と言われている。
ここでは12月12日が「山の神祭り」になっているので、12は大切な数である。
この木は、新しい枝が出て13本になると、必ず1本枯れて、
いつも12本になるということから、神木とされている。
この木の由来は、弥七郎と呼ばれる臆病者が、勇を鼓して山の魔物を退治した際に、
村人が祟りを恐れて供養にヒバの苗を植えたものとされる。


ブナの森にあった樹齢400年のマザーツリーはやさしく穏やかに包んでくれる感じがしたが
この十二本ヤスは、孤高の長老といった感じだった。
 教えて欲しいのです
と乞うても
 自分で感じることだ
と、しか言ってくれないような。

その姿を見るだけでも
なにかがわかったような。
そのなにかは、ことばにはしたくないもの。

会えてよかった。
会いにいってよかった。


Category : 旅日記
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2009年夏休みのお知らせ

20090808-R0017977.jpg

今年は、夏休みをどーんとちょうだいして
北へ南へ、大移動してまいります。

8月11日から20日まで

8月24日から9月6日まで。

前半は東北へ
後半は九州へ。

贅沢に旅をしてまいります。




ちょーパワーアップしてきますので
秋からのセッションはすごいですよ~(多分きっと)




8月の予約はいっぱいになりました。
ありがとうございました。



また9月以降、どうぞよろしくお願いいたします。

Category : いつものこと
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自分のカラダ、としてみる

ガンを抱えている友達がいる。

先日久しぶりに血液検査を行ったところ
腫瘍マーカーの値が上がっていた
と日記に書いていた。

ガン再発の目安になる値。



でも、ホントは
私たちのように、表向き健康な人だって
同じなのかもしれないと思った。
数字として、表される機会がないだけ。

「自分のからだ」を
数値で表せるとしたら、
やばいと、コワくなる人はたくさんいるはずだ。

ガンじゃなくとも。

いつ死ぬかわからないから
のほほんとしているだけ。
死ぬのは、明日かもしれないし、来週かもしれなくても。




ここに彼女のことばを切り取っておこう。



先日、腫瘍マーカーが上がっていることを知ってから、
自分の中が、変わった。

自分の体に、責任を取らないといけないな、と心底思うようになった。

今までは、やっぱりどこか甘えている部分があって、
誰かが体を調整してくれて、
良い方向へ向かわせてくれて、という考えが自分の中に根強くあった。
誰かが、なんとかしてくれる。そういう甘えだ。

これは、明確な鏡とでもいうべき人物がいて、
私のかかりつけの鍼の先生のところに、行きだした人がいる。
直接は知らない人なんだけど、鍼の先生が治るといったから、
治してくれるものだと思っているように感じる。

でも、自分の体なのに、それでいいのかな。
そう思った。
確かに、鍼の先生は、その手助けはしてくれるだろう。
免疫力もあげてくれるだろうし、体もゆるめてくれる。
どこで、どんな治療を受けても、それは同じことだと思う。
例をあげると、手術をするのは、病院の先生だけど、
傷口を治すのは、自分の体の力だ。
極論、自分の体は、自分の体の治癒力で治るのだ。

でも、そういう私だって、自分の体が感じていることを、
充分に、感じているだろうか。
そもそも、自分の体のために、精一杯やったことがあっただろうか。
腫瘍マーカーが上がって、「鍼に通っているのに…」
そう思う部分はなかっただろうか。

もちろん、全てが自己責任という話をしたいわけではなく、
全てが他人任せという無責任感で生きてきたわけでもなく、
体をすべてコントロールできるという妄想をみているわけでもない。
そういう土俵の話ではなく、ただ、今できることを、
ただ、体のためにしてあげたことがあったかなと考えると、
あまりなかったような気がする。

もうそろそろ、きちんと向き合ってみてもいいんじゃないか、と、
自分の小さな声がきこえる。
その声に、さいしょの、さいしょの第一歩を踏み出したところです。

これは、うまく説明できないけど、
「結果を期待せず、ただ、今やるべきことを、
この世で一番大事なこととしてする」ということに、
繋がるような気がしている。
たとえ、損をしても、ただ、するということ。
どんなに体のことを気遣っても、望むような結果はでないかもしれない。
でも、体のことを見て見ぬふりをして、痛めつけることは、もうしたくない。

とても、とても、こわい。
自分で、自分のことを、責任を取るということは。
こんなにこわいなんて、逃げ出したい。
誰かのせいにできるのなら、そのまましておきたいけど、
もうそうできないところにきているみたいだから、
おそるおそるだけど。



*****

常々、マッサージのクラスで
「自分がキモチヨイと感じる、
心地よいと感じる方にいく」
ことは、つまり自分中心であって自己責任が伴う
というようなことを話す。

しんどければ休めばいいけれど
そんなこと無理です、と誰かに文句を言うこともできない。
自分が「それがいい」と選んだことなのだから。

自由に動いていい
というのは、実は責任の伴うことなのだ。

人の言う通りに動いている方が
案外ラクかもしれないのだ。
・・・誰かの責任にできるから。



そう言ってきながらも
この友達が書いているみたいなここまでの「こわさ」は、
私にはもちろん伴っていなくて。

(なんか、こう書くと厳しく感じるけれど
でも基本的に、自分がよいように動ける
ということはとてもシアワセなことなの。)


いろんなことが突き刺さる。

マッサージの仕事をしているけれど
私は依存されるのが嫌で
「カラダを緩めたくて」と言ってくる人には
「人に身を委ねるという時間はもちろん必要。
けれども、それがなくちゃダメという状態は依存になっちゃう。
自分でもなんとかできる方法も知って」と、
気功してみませんか、
みたいな方向に話を持っていきがち。


しんどいと感じている人に、私が提示できること。

マッサージをビジネスとしてとらえたくなくて
マッサージのクラスもあえて「仕事したい人向けではない」と謳ったり
マッサージも、セッションだとか言いながら
なんだかしっくりきていなかったのは、
やはり、一方通行だからだな、仕事としてやっている以上。
もちろん、こういう立場の人も必要なんだけれど
仕事としてではないところで、
伝えることが、私にはもっとクリアなことなんだな。
それが、先の日記に書いた「私が還せること」かもしれない。

友達のことばで
私の見る方向も、曖昧さから抜け出た気がする。

伝えることばを、紡いでいかなくちゃ。

ああ、まだちょっと
うまくまとまらないけれど。

Eさん、ありがとう。

Category : いつものこと
Posted by チエ on  | 2 comments 

僕が一番欲しかったもの

今日は、バイト先の女将がマッサージを受けにきてくれた。
10日から五島に帰るそうな。
女将の故郷は、中通島の有川。
去年買った「旅」という雑誌の五島特集を眺めていたら
中通島にも行きたくなった。

いろいろお世話になったし、
私の気持ちでマッサージをさせてもらおうと思っていたのが
「手伝ってもらって助かったのは私の方だから」と。
「アナタがそうしようと思っていたのは、わかっていたわ」
と言われとしまう。
いただいたお代は、ちゃんとまわしていこうと思う。

女将は
今まで、10万円の家賃のところに住んでいたのが
今月末から、お客さんの紹介で
半額以下の家賃で、しかも今住んでいるところよりも広くていい家に引っ越すことになった。
10万円の家賃を払うために、店をやめたあとは「4、5万円分は働かなくちゃ」
と思っていたのが、その分宙に浮いたので
お寺の掃除の仕事をボランティアで行うことにしたという。
そういうお金は、ないものとして
出していったらまた何か違うかたちで還ってくると思うのよね、と。

私も、お金はエネルギーなので
質量保存の法則があてはまるのだと思っている。
自分が出していったエネルギーは
また何か違うカタチで還ってくると思う。(よくも悪くも)
だから、お金もまわしていかなきゃいかないし
出さなければ(しかも適正なカタチで)、新しく入ってこない。
お金に限らず
エネルギーと見なせるものはすべて、そうだと思う。


独立して仕事を始めていく際に
収入のことはとても不安な懸案事項だったけれど
気功の講師をさせてもらったり、
HPの制作をさせてもらったり
収入度外視で始めたことではあったけれど
結局、なんだかんだで助かった小料理屋のバイトのおかげで
私は何一つ困ることなく、ここまで来れた。(この秋で丸4年です!)
この家を借りて、仕事を始めるための小道具をそろえるのに
お金は使ったが、貯金も目減りすることなく来れたことは
本当にありがたいことだと思ってきた。

だから、時々は還していかなくちゃと思う。
私ができることで。
それが「手放していくこと」なんだと思う。
自分が大切にしているものを
それをほしがっている人に差し出せるか
ということを
そういえば、私は島の人たちに教わったなぁ
と思い出した。
島の人たちが、旅人を迎え入れ
惜しげもなく持っている物を差し出して、歓待してくれるのを見て
私にとって、本当に大事なのは
私が大好きな人たちが笑っていてくれることだと
あらためて気づいた。
自分が持っているものは、誰かのために差し出してもいい。
本当に欲しい物なんて、そうそうない
と思った。

今年も、島に行こう
と思うのは
だから、だと思う。


本当は女将がいる間に
中通島に行ければ案内してもらえてよいのだけれど
タイミングが合わないので
中通島について調べていたら・・・

実は来週、大阪の小さなFM局で10分ほど話す予定なのだけれど
その番組のスタッフの人と今日電話で話したら
「五島列島、しかも中通島」出身の人だった。
こんなことってあるー!?

そう言いつつも
こんなことってあるー!?
っていうことばかりなんだけれどね、私の人生。




槇原くんのメロディは、本当に美しいなぁ。


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Posted by チエ on  | 0 comments 

筆と紙に、触れてみる

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書展が、今日で終了となりました。
会期中、1000人ほどの人がいらしてくださったそうです。
お越しいただいたみなさま、どうもありがとうございました。


これまで、書道を続けてきた中で
何度か書展を経験させていただきましたが
今回のようにギャラリーでの展示
テーマをもって(今回は、『自分の人生』を主軸に)
いっせいに同じフレームを使って
という見せ方は初めてのスタイルで
出展者ながら、おもしろいなぁと思わされました。
本当に、様々な書のカタチがあって
教室で見てきたのとはまるで違う、
人それぞれの表現方法がありました。


先生は、古典を大事にしながらも革新的。
本当に大事なものは残しつつ
既存の枠を超えて
表現とはなんだ?
という命題を、みんなにも与え続けていきます。

墨文字が流行る昨今、
楽しく書く、自由に書く
こともいいけれど
古典という基礎があってこそ。
ただ自由に書くだけでは、めちゃめちゃなだけ。

以前、歌舞伎の中村勘三郎が
「型のある人が型を破ることを型破りといい、
型のない人が型を破ることを型無しという」
というようなことを言っていて
(中村勘三郎も、誰かに聞いたと言っていたと思いますが)
なるほどなと思いましたが
書でいう型はやはり古典なのです。


本当に、いい先生に出会えたなぁ
と思っています。


20090803--1.jpg



私は今回、「触れる」ということばを書いたのですが
「触れる」ということは、私にとって私と他者とをつなぐ行為であり
私の核となすものです。

だから、きっと
折につけ書いていくことばのような気がしています。

またはじまり。
この「触れる」という文字をこれからどう表現していくか
どう変化していくのか
自分自身でも楽しみにしています。

20090802-R0017975.jpg



Category : いつものこと
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