空模様

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Posted by チエ on  | 

詩と哲学と宗教、その間

言葉はラベリングだったり、枠だったり
流れる川の水をすくう容器みたいなもの、
この感覚をことばにしてみたいと思ってきた。

以前にも、キャラメルと包み紙という形容で書いた。
http://soramoyo.blog43.fc2.com/blog-entry-793.html


キャラメルは包み紙におさまっているけれども
包みきれなかったキャラメルが気になっていた。

川の水をすくってみても
流れている水とはまるで違ってしまう。
あそこに流れている水と、この容器の中の水はおなじものなのか
と考えている。

キャラメルや川の水は、本来ならば
容器や包み紙に分断されない状態であるんだろう。


そんなことばかり考えていると
表現は詩的になる。

中学生の頃は詩人になりたかった。




若松英輔さんの著作から、池田晶子さんを知り
そしてまた井筒俊彦さんという人の存在を知った。

若松さんの「悲しみの秘義」という本に
井筒さんの一節が引用されている。

人間の耳にこそ聞えないけれども、ある不思議な声が
声ならざる声、音なき声が、虚空を吹き渡り、宇宙を貫流している。
この宇宙的声、あるいは宇宙的コトバのエネルギーは
確かに生き生きと躍動してそこにあるのに、
それが人間の耳には聞えない
「言語哲学としての真言」




若松さんは、井筒さんのことをこう書いている。

哲学者の井筒俊彦(1914-1993)は晩年、「言葉」とだけでなく
「コトバ」と記すようになった。
コトバと書くことによって彼は、文字の彼方に息づいている豊穣な意味のうごめきを
浮かび上がらせようとした。
井筒が考えるコトバには無数の姿がある。
画家にとっては色と線が、音楽家には旋律が、
彫刻家には形が、宗教者には沈黙がもっとも雄弁なコトバになる。
苦しむ友人のそばで黙って寄り添う、こうした沈黙の行為もまたコトバである。




あてどなく感じてきたことを、ずばりと書き表してくれる人がいたことに
私は驚いたし、うれしかった。
今まで、出会えてなかったから。
話をしても通じないことの方が多かった。


井筒さんの著書そのものにはまだ手を出せていない。
若松さんや池田さんの、井筒さんへの批評が載っているこの本を買ってみた。



巻頭にある安藤礼二、若松英輔の対談「コトバの形而上学」から引用する。

「言葉にできないものと、しかし、それでも、そのもの自体を言葉で語ろうとすること」。

「言葉を超えるものを言葉で語ること」。

「人間が思考し表現する一番根源にある、全てが消滅してしまうような、
あるいは全てを消滅させてしまうような場所を、哲学的な思惟の逆説として考え続けていた」。


「あらゆるものが光の中で一つに融け合っている。
透明で光り輝く宝珠が無数に連なっている。
一つの宝珠には他の無数の宝珠のイメージが映り、
他の無数の宝珠には一つの宝珠のイメージが映る。
一は同時に多であり、多は同時に一である」。


「哲学の発生と詩の発生は別のものではなかった」。

「学問を突き詰めていくということは、詩情を損なうものでは絶対ないのだということを
彼らの生涯は証している」。


「『詩的表現の起源』を問い続けることが大切なんですね。
そして詩的表現の発生を問うのは、文学だけの問題ではなかった。
宗教学も、民俗学も、そして哲学も、みなその一点に収斂にしていく」。


「14歳からの哲学」を題材とした「読書と対話の会」でも
なにが話題であっても最後の方、私からは「自然」「魂」の話になってしまう。
考え続けてゆくと、「私が生きている」というその源にゆきつかないわけがない。
それこそが私の話したいことでもあるからだ。

池田晶子はこう書いている。

「哲学が扱うものは意識であり、そして人が自分が意識であることを認めるならば
哲学は本来的に、万人のものだ。
テキストが先ではない。まず自分の意識の仕方を体得しておくことだ」。

「なるほど、わかった、で、それがどうした、となお人は言うか。
どうもしやしないのだ、世界がかく在り、
私たちがかく暮らしているという事実に、全然変わりはないのだ。
変わりうる余地があるものといえば、ただひとつ、
そういう君の、その生き方だ」。

「精神を、さらにさらに高く精神性を掲げよ。
やがてそれは滔々と立ち上がる光の柱、
高貴な魂たちの勝利と祝祭、
その雄々しい知性が断固として君臨するのを、私は見る。
神であってもなくてもどっちでもいい。
しかしそれは確かなことだ、なぜならそこには歓びの感情—。

私たちの知性は、その高潔さによって、あんなにも遠く遠くへ行けるものであることを、
私は井筒氏に教わったような気がするのです。
信仰なき身として、これ以上の救いはなかったと、深く感謝いたします」。



まだ山の麓にたどり着いたにすぎない。
きらりとひかる湖の、その淵をみつけたにすぎない。

けれども、美しい山や湖が私の眼前に姿を見せてくれた
そのことが、とにかくうれしい。
ずっとずっと探していたのだから。
ことばとは何かを。


IMG_0155.jpg



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キャラメルと包み紙

ことばが大切だと思ってきたけれど
時に、人が言う「ことば」とわたしが「ことば」と言い表したいものとは
違うように感じてきた。

それを、私は
「キャラメルと包み紙」というように書いていた。

パッケージによってキャラメルの印象も変わってしまうけれど
包み紙じゃなくて、私は中身をただ味わいたいのだ
というように。

たとえば
http://soramoyo.blog43.fc2.com/blog-entry-372.html
http://soramoyo.blog43.fc2.com/blog-entry-382.html




若松英輔さんの「悲しみの秘義」から引用する。

哲学者の井筒俊彦(1914-1993)は晩年、「言葉」とだけでなく
「コトバ」と記すようになった。
コトバと書くことによって彼は、文字の彼方に息づいている豊穣な意味のうごめきを
浮かび上がらせようとした。
井筒が考えるコトバには無数の姿がある。
画家にとっては色と線が、音楽家には旋律が、
彫刻家には形が、宗教者には沈黙がもっとも雄弁なコトバになる。
苦しむ友人のそばで黙って寄り添う、こうした沈黙の行為もまたコトバである。

『荘子』には「地籟」「天籟」という表現が出てくる。
「籟」は、ひびきを意味する。
天地の場合、ひびきがコトバになるというのである。
「天籟」にふれ、井筒はこう書いている。

人間の耳にこそ聞えないけれども、ある不思議な声が
声ならざる声、音なき声が、虚空を吹き渡り、宇宙を貫流している。
この宇宙的声、あるいは宇宙的コトバのエネルギーは
確かに生き生きと躍動してそこにあるのに、
それが人間の耳には聞えない
「言語哲学としての真言」



ひびきという無音の「声」は、耳には聞こえない。
だが胸には届く。
胸が痛む、あるいは胸が張り裂ける、と私たちはいう。
あるいは心の琴線にふれる、ともいう。
コトバが心に届くとき、人は何かに抱きしめられたように感じる。
誰の人生にも幾度かは必ず、こうした出来事が訪れる。
そしてその感触は忘れられることはあっても、生涯消えることはないのである。




私が感じていたのは、このことだ。


池田晶子さんも「言葉が世界をつくる」と書いていたが
池田さんがいうところの「言葉」も、ここにある「コトバ」なんだと思う。

言葉ができるには、その言葉の意味をしっていなくてはならない。
ニワトリが先か、卵が先か。
そのどちらかわからない、そのもとにあるものが「コトバ」であり
私がいいたかったキャラメル。
(キャラメルの先にはクリームや砂糖があるけれど。
そしてクリームの先には、牛乳が。砂糖の先にはさとうきびが。
まだもう少し先をたどれそうだけれど、コトバの先は…)

私がいいたい「ことば」は、多くの人が思う「言葉」じゃなくて
だから、ことばについての話がすんなりできなくなった。


言葉、ことば、コトバ
とかきわけるのも、とりあえず便宜上なだけ。
私はかなが好きなので「ことば」と表している。
おなじ音なので、話すとなるともっとややこしい。
たいてい伝わらない。

この話したいことが伝えられない
というジレンマ、長らくあったよね…。

やっと、的確な表現に出会えた。


ああ、これもね。




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おいしい珈琲と豆を提供してくださる店を教えてもらった。
理想の深煎。

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死と生きる 獄中哲学対話



池田晶子氏と、1998年死刑判決をうけた恩田真志氏との往復書簡集。
のちに何度も「易しくなかった」と池田さんはいろいろな書き物の中で
こぼしておられるが、まさしく真剣での斬りあいであり
身を、いのちを削って、ソクラテスとプラトンのごとく
「善く生きよ」と強く訴えかけている。
「良いと善いは違う」と。

陸田氏は、一審において死刑を受け入れ上告しないとしていた。
しかし池田さんが「控訴せよ」と伝えた。
単純な命乞いではない。
悪を悪とも思わずに、悪事を働いてきた陸田氏は
独房に入ってはじめて「自分がしたことは悪だった」と気づいた。
そして池田さんに手紙をしたためたのがはじまりだった。
池田さんは、陸田氏が獄中で知り得たことを、他人にも知らしめるべきだとして
もっと考えろ、魂を言葉にしろ、そのための時間をのはぜと訴えた。
そして、往復書簡が展開されていく。



いいもわるいもない
とよくいわれるが、
万人に同じ「良」がないだけで
ひとりひとりのなかに「その人にとっての良」があるはずだ。
そして、その良をなすことが「善」である。
ただし、「金銭的な良いと精神的な善いは違う」。

そのことを、「わかろうとしない者にはわからせる事はできない」と池田さんは斬る。
だから、反感も喰らう。
わかろうとしない大衆から。

P.28
「言ってもわからない」とわかっているのに、それでも私が書いているのは、
あなたのような人がひとりでも増えるよう、それ以外ではありません。
ほかに理由はありません。そうでなければ何もしないほうが、よほどましだからです。
私にとっての「善く生きる」とは、このこと以外ではないのです。

二千五百年後のあなたが、ソクラテスに共感することができたのは、
彼が、善く生きることを自ら示してみせたためだということ。
そして、プラトンという人が、そのことを書いて残したためだということ。
示し、書き、残さなければ、善く生きるということを、人に伝えることはできないのです。
そして、善く生きるということは、明らかに、そのことを「人に伝える」ということを含んでいるのです。





P.141
なるほど最終的には、真理は言語を越え、「あるがまま」ではありますが
理知には理知ゆえの使命があり、それが他でもない、我々がしているところの、
この「言語による真理の表現」です。
音楽も絵画も、それが本物であるならば、必ず同じ「それ」を表現しようとして
為されていますが、しかし、言葉には、音楽と絵画とは決定的に違うところがあります。
それは、思想を人に伝え得る、というこのことです。
音楽や絵画は、人に感動は伝え得ますが、思想を伝えることはできません。
あれらが、直接に人の行動を左右されることがあるかのように見えても、
それは必ず一度、言語化の過程を経ているはずであって、
ベートーベンの音楽によって戦争が起こった、ピカソの絵によって革命が起こった、
ということは絶対にない。人を行動へと駆り立て、戦争や革命を起こすことができるのは、
必ず、「思想」、すなわち「言葉になった考え」だけなのです。
それは一行のスローガンであることもあり、たった一語の単語である場合さえあります。
生かすも殺すも言葉のみ、音楽や絵画によって、人は生きたり死んだりしません。
だから、言葉を大切に扱うことを、くれぐれも心がけて下さい。
せんだって、いわゆる「批評家」という人たちについて、あなたも指摘していましたが
じっさい、あの手のものは、ちゃちな自己顕示欲である場合がほとんどで、
ああいうところに本物はいません。
「愛」なしに批評なんてものが、可能であるわけがない。
他人を叩くくらいの目的で、大事な言葉を使うなど、
言葉を愛していないことのまぎれもない証拠だからです。
なんでそれで「言論人」なんでしょうか。
あなたにもまだ、若干ですが、その傾向が残っています。
「被害者の生命とともに書く」という覚悟なら、最終的に人に届くことができるのは、
愛のある言葉だけだということを、しっかり肝に銘じておいて下さい。




引用が長いが、この引用は
のちのち読み返す時のため。
そしてまた、私自身に届けられている言葉だとも感じるためだ。
とくに以下の部分。


P.142
「愛が大事」と申しましても、あなたも言うような、そのへんのディスカウントショップで
投げ売りしているようなものでなければ、あなたの居る「独房」で
いかにしてこれを維持し得ましょうか。
ただでさえ極端に頭の人なのに、いかにして情理のバランスを保ち得ましょうか。
あるいは、動植物との交感とか、自然への畏敬といった古い感情を思い出すことなど。
あなたが自覚的にそのように努めるという、そこに全てはかかっています。
達磨禅師や荒野のキリストという例もあります。立派すぎるということはありません。
先人に可能だったことは、必ず我々にも可能です。
がんばって下さい。
やり遂げましょう。





「生かすも殺すも言葉のみ、音楽や絵画によって、人は生きたり死んだりしません」
という一文に反感を覚える人もいることかと思う。
私もはじめはかすかに抵抗を感じた。

けれども、こういう時に思い出すのはいつも「46年目の光」というノンフィクションのこと。



マイク・メイは3歳で視力を失った。
46歳のとき、幹細胞移植という手術を受け、視力を取り戻すことができた。
けれども、彼には何も見えなかった。
網膜に刺激が届いている。
実際には、目には映っている。
けれども、それらを認識できない。
彼がみるものは、光が散乱する混沌とした世界だった。
光の散乱、ノイズ。
それをカタチとして認識できるのは、これまでの脳の学習あってこそ。
学習により、あらかじめ予期しているから。
「こういうものだ」という脳の認識=信念が、
目に映るものをカタチとして私たちにみせている。

脳の認識をいい換えると「言語化」となるように思う。
「からだを経る」とはこのことでもあろう。

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池田さんは2007年に腎臓がんで亡くなっている。
陸田氏は2008年に刑が執行された。
刑を受けるに際して「池田さんのところに行けるのはこの上もない幸せです」
という言葉を残したそうである。

ことばについてあらためてかんがえるきっかけになった。
お二人のやりとりに深謝するばかりである。


考えるということは、精査をあげること。
無意識を意識にのぼらせてゆく。
無意識のその深層こそ、私の源である魂なのだから
言葉も魂なのである。
そう気づけば、適当な(思ってもいない)ことは言えない。

(何度も何度も考えて、本能のままに書き出していって、精査をあげるんだよ。
「思っている」だけでは、あがらない…)

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仏教思想のゼロポイント



図書館で予約していたのがようやく手元に届いたというのに
この2週間はなんとなく本を読むことに着手できずにいた。
いよいよあさって返さねば!そしてこの本はこの後も予約がぴっちり入っているので延長できない!
ということで、あわててパラパラとページを繰った。

釈迦の言っていることと、仏教が指し示すことって
イコールじゃないな
(まぁ、それはキリスト教とて同じ…)
思ってきたけれど、そういう観点をまたあらたに指し示してくれる本。

仏教が輪廻転生を否定しているという説について。
私も大学で聞いて「そうだっけ」と思ったのだったけれど、
この本の中でも「『ゴーダマ・ブッダは輪廻を説かなかった』という結論は出しようがない」とあった。


仏教、とくに大乗と呼ばれるそれらあまたの教義はじつに多様なのだけれど
それについて明記してくれている本は、これまで読んだことがなかった。
(そこまで違うならなら「仏教」と名乗らなくてもいいのに、とニー仏さんは書いていた)
ゴーダマ・ブッダは「異性と目もあわせないニートになれ」と説いているのだが、
それがどうして人々に手を差し伸べるような教えへと転じたのという説明がわかりやすい。
仏教が世界宗教へとなるに至った由縁。


まだざっくりとしか読めていないけれども、
おおと思ったところは抜粋しておく。


P.175
渇愛を滅尽し解脱に至った者たちは、存在することを「ただ楽しむ」のである。
それはもちろん、「欲望の対象を楽しみ、欲望の対象を喜ぶ」ような、
執著によって得られる「楽しみ」ではなく、
むしろそこからは完全に離れ、誰のものでもなくなった現象を観照することによってはじめて知られる、
「最高の楽(paramam sukham)」と言うべきものだ。
対象への執着がなく、利益が得られるわけでもなく、
必要が満たされるわけでもないが、「ただ楽しい」。
そのようなあり方のことを、「遊び」と呼ぶことは許されるだろう。
仏教では、何ものにもとらわれない自由闊達な仏の境地を「遊戯三昧」と形容するが、
ここで言う「三昧」は、「集中」というより、「まじりけがない」というほどの意味。
つまり、解脱者たちの生きる時間は、その本質として、純粋な「遊び」であるということだ。
したがって、彼らの一部が利他行への実践へと踏み出すのも、もちろん「遊び」ということになる。
彼らは「必要」だからそれをするわけではないし、「意味がある」からそれをするわけでもない。
ただ、眼前の「衆生」と呼ばれる現象は、それが本来「公共物」であることに気づかずに、
「それは私のものであり、それは私であって、それは私の我である」と考えて「世界」を形成し、
自縄自爆の苦しみに陥っている。
解脱者たちも、かつては凡夫であったがゆえに、それが彼らにとっては「事実」であり
「現実」の苦として作用していることをよく知っているから、それを「ただ助ける」ことにするのである。
「ただ助ける」というのは、解脱者たちには行為の対象である衆生に対する執着がなく、
「物語の世界」を実体視してもいないがゆえに、それは意味も利益も必要もなく、
「ただ行われる」ということ。
したがって、それは「遊び」である。

P.177
そして、解脱者たちの「遊戯三昧」は、子供の「遊び」よりももっとまじりけがない。
(略)彼らの生きる時間はその全てが純粋な「遊び」であり、
さらに巳自身も含めたあらゆる現象が「公共物」であることを徹見してもいる以上、
彼らは利他の実践のために、場合によっては自分の命も「芻狗(すうく・神前に供えるわら細工の犬)」
のように捨て去ることを決して厭いはしないのである。
彼らにそれができるのは慈悲の行為が彼らにとって「遊びではない」からではなく、
むしろそれが、「何かそれ以外の大切なもの」を別のどこかで確保しておくことの全くない、
純粋な「遊び」そのものであるからだ。





P.159
涅槃(nibbana)の原義は(煩悩の炎を)「消すこと」だとされるが、
まさに火が消えるように、その時には対象と観察、即ち、継起する現象の認知が消失してしまう。
現象の認知がないのに、「経験」があるというのは理解の難しいことだし、「推論の領域を超えた」ことだ。
だから、その「経験」の内実について、言葉で語ることは不可能である。
ただ言えることは、それが起こった時には、煩悩の炎が実際に消えてしまうということだけだ。



ゼロポイントとは、ここのことだ、と。
ゴーダマ・ブッダがこの経験をしたことが仏教の始点だ、と。


ゴーダマ・ブッダは「異性と目もあわせないニートになれ」と説いている。
それがどうして人々に手を差し伸べるような教えへと転じたのかという説明がわかりやすい。
仏教が世界宗教へとなるに至った由縁。

http://mainichi.jp/articles/20151215/dde/012/070/013000c



(インドの数学における「 0 (ゼロ)」をあらわすシューニャ、
そしてシューニャは「空」をあらわす。
唐突ですが、ばあちゃんちもひきつづき「空」という屋号にしようとおもって〼)

IMG_8223.jpg
いただいた沈丁花。あまいながらも、ほんのかすかに柑橘様の爽やかさのある香り。

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素粒子の心 細胞の心 アリの心 其の二



昨日、書き出したこの本からの引用の部分。
http://soramoyo.blog43.fc2.com/blog-entry-782.html

わかりやすく書くとこんな感じになるかな。

人間は、時々パッと頭上に電球が灯るがごとく新しい閃きを得て、
そして今までにないなにかあたらしいものをうみだしてきたけれど
きっと生命も、宇宙にあるこころの閃きからうみださてきたんじゃないかな。
そう考えると、5億年前に起こった「カンブリア紀の大爆発」と古生物学者から呼ばれるような
それまでの生態系からは考えられない、ダーウィンの進化論では説明できない
まったく異次元の生物の誕生も腑に落ちるよね。

まぁ、そういうのってまったく荒唐無稽に聞こえるかも知んないけど
人の、あの電球がパッと灯るかのような閃きだって、だれにも説明できないことだ。
なんであんなことが思い浮かんだのかなんて、それこそだれにもわかんないことだ。

ってことから、

宇宙がそうであるから、人間の営みだってそうなっている
といったほうが正しいのかもしれない。




なんにもないところから、うまれる。

もっかい書くけど
老子はこう言ったそうだ。

そのはたらきは時間空間を超越して止むことがない。これが天地の母である。
この物は、限定できないから、名づけられない。かりに名づけて「道」と呼ぶ。
「道」は天地に満ち満ちていて、四方八方くまなく行きわたっている。
万物は、「道」のあらわれとして生ずる。






この本はフィクションとなっているけれど、今あらためて読むと
「素粒子の心 細胞の心 アリの心」と同じようなことが書かれているように思えて、おもしろい。

P.298
生命の発生をハプニングとしてとらえるあなた方のその生命観は、
生命の重みを宇宙に求めることを不可能にさせている。
宇宙の中にたまたま存在した物質が偶然に結びついて生命を生じたとするその認識は
一個の生命発生と成長しか知らない者が、そのブログラム(遺伝子)を無視し、
個体の成長のすべての課程を偶然のハプニングと見なしているに等しい。
空間とは最初から別種である物質と物質が結びついた偶然の結果として生命が生じる…
空間と物質とを切り離すあなた方の宇宙観は、宇宙の生命不能な現象に対し、
最終的には偶然という神を持ち出すしかない。
しかし、真実は、そこに偶然というものを挟み込む余地はないのだ。
秩序という秩序のすべては、最初から空間というこの宇宙の本質に秘められているのだ。



P.301
意識とは、偶然に突如として発生したものではなく、物質が空間そのものであるように
宇宙とは意識そのものの存在であり、我々は最初からその中にいるのだ。


P.306
人間の意識は、その本源に出会い、触れ合うたびに豊かさを増すのだ。
その奥には、あなた方の想像も及ばない至福の領域がひろがっている。


P.316
人間は、真の本質に繋がらない限り、才能も自信も生まれはしない。
確かに褒められて自信がついたり、逆にけなされて自信を失ったり、
外界に左右される不安定な自信は、宇宙から切り離された自尊心にすぎない。
しかし、巨大な愛から生じるそれは、ゆるぐことのない宇宙の意識そのものだ。
真実の自信と、その自信から生まれる信念は、
必ずこの宇宙にあらたな世界を誕生させるだろう。



池田さんの「14歳からの哲学」から問われていることともつながってくる。
「思うこと」のその先、「考える」「感じる」。

どこまでも「私」が「考えていること」をずっとずっと追っていきなさい。
すぐにだって、いつだって宇宙を旅できるわよ
と池田さんも書いていた。


ユングのいう、意識と潜在意識と集合意識。
宇宙までつながっている
というか、いつだって宇宙の意識からはなれたことないし
宇宙の意識そのものですよ
ってことだな。


気功も、そのことにあらためて気づくためのツールなんだと思う。
いやー、今までやってきたことと読んできたものが
そういうことかと全部つながった。
そのヒントをくださったのは、Cさんだったなぁ。

いや、とはいえ
やはり私も知っていたのだ。
だって、学びとは、もともと知っていることを思い出すことなのだから。



まだまだ続きます。

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どーしよー、ヤバいよー!オカザえもん〜!
だいじょうぶ、ヤバいのはキミの方だろ(笑)


昨日は、「this is it」だったけれど
今日のテーマソングは「Starman」よ。






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