ウェブサイトをあたらしくしました。

2018年04月16日 14:12

ウェブサイトをあたらしくしました。


それに伴い、今後はあたらしいブログへと移行します。


東京でも、あらためてセッションをはじめています。


今後ともどうぞよろしくお願いいたします。


http://1love.link/

京都の家を手ばなすことにしました。

2018年02月22日 19:42

こちらのブログ、ずいぶんと長くご無沙汰してしまいました。

すみません。





このブログをのぞいてくださっていた方には突然のお知らせとなりますが
去年の春にがんが見つかり治療を受けていました。

その前の夏にも疑いがあったのですが
疑いが疑いではなくなったということでした。

さいわいなことに、昨年末の12月で治療は一旦終了。
経過観察へと移行いたしました。


今はとても元気に過ごしています。
治療中も、とてもがん患者には見えないと言われ続けていました。
がんだとわかる前より、今の方がむしろ元気です。




さて、冬の時期をこえて暖かくなってきたら
セッションを再開しようと考えていたのですが
残念なことに、京都の家をでることになりました。


貸してくださっていた大家さんもご高齢で
90歳になられました。
まだまだお元気ではありますが、さすがにもう大家をやめたいと
何年か前から言われていました。

その度に、まだもうすこしもうすこしと粘っていたのですが
さすがに限界となり、この3月をもって
完全に契約を終えることとなりました。


12年間、貸していただいたことになります。


私としても残念ではありますが
去年の療養のことも含めて考えると
ああ、また新しくはじめるために
終わるのだなという気がしています。


東京へと移住する時には
この家をてばなすということがなかなか考えられませんでした。

けれども、今はどちらかというと
すがすがしい気持ちでいます。


(昨日は、引越し業者の手配やスケジュールを決めるのに
てんやわんやで頭が爆発しそうでしたが、
今日なんとかもろもろの手配が決まったので、ホッとしています)



3月の半ばには完全に荷物を出して、鍵を返します。



振り返ると、本当にたくさんのことがあの家であったなぁ。
しみじみしてしまいます。
が、今はまだそれらについては書き出さないでおきます。



3月5日から9日までと
12日から15日まで京都に帰ります。

後半、12日から15日までで荷物を出します。

5日からの数日は、家を堪能しようと思っています。

6,7,8日でセッションもお受けいたします。
施術料は、精油の有無にかかわらず、90分10000円です。


3月6日 午前〜午後3時 予約済
3月7日 午前 午後
3月8日 午前 午後


もしご希望があれば、承ります。

施術以外でも
お会いできる方がいれば
お声がけくださいませ。




もろもろのご挨拶もできないまま
こんなとりいそぎのお知らせで、
申し訳ございません。
ひさしぶりの記事がこれかよ
と怒られても無理はないお話です。
本当にごめんなさい。


12年間の感謝とご挨拶を
あらためてさせてくださいませ。

どうぞよろしくお願い申し上げます。


成瀬知詠子




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先日、免許証の更新に行きました。
5年前と、今の私。
抗がん剤の影響で髪の毛が抜けましたが
いままたあらたに生えてきています。
スキンヘッドが似合うと言ってもらえるので
もうしばらくこのあたまですごそうと思っています。
寒いんですけど(笑)



あと、今後のことをひとつ。

病を経て得たものがたくさんあります。
そのことについて今後は発信していきます。

どうぞよろしくお願いいたします。







空茶話会 〜詩をよむ会

2017年10月08日 16:51

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詩を読みあって、感じたことを話す会をひらきます。
この詩がどういう詩かを語るものではありません。
詩をよんだあなたがどう感じたかを聞きたいと思っています。



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【日時】2017年11月5日 13:00〜15:00
(終了後も歓談の時間あります)
【場所】練馬区富士見台「空 -くう-」
(お申込みいただいた方に道案内いたします)
【参加費】1,000円
お茶とおやつご用意しています。
【定員】6名
ポケット詩集(1)田中 和雄 編をお持ちください。

◉参加を希望される方はメッセージくださいませ◉
→横のメッセージフォームからどうぞ。

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学校の中、社会の中では、
間違ってたらどうしようとか、人と違ってたら恥ずかしいと感じて
なかなか自分の考えって言いにくいということがあります。

「本当はこう感じているんだけど…」ってことがあるのだけれど
場の空気を乱したくなくて押し殺しちゃったり。

感じること、感じ方は人それぞれで違うのだから
私が感じたことに他者から正解不正解を言われることこそが、まちがいです。



詩は、自由です。
こうでなければ詩とは言えないというものはありません。
長い詩もあれば、短い詩もある。
けれども小説のように読むのに時間がかかるものではありません。
さっと読むことができるものがほとんどです。


さっと読める
のだけれど、短いそのことばに
胸をふるわされます。
その余韻は長く続きます。
詩は、書いた人のものではなく
受けとった人のことばになります。


詩人についての知識や文学的情報は必要ありません。
何かを学ぶ場でもありません。


ただ、詩ってなんだろう、おもしろそうだなと感じる方に
きていただければと考えています。





いろんな詩と出会う場にしていこうと考えていますが
まずは、この本をテキストにします。

ポケット詩集 文庫 – 1998/11/1
田中 和雄(編)




おそらく、どこかで、たとえば学校の教科書などで
一度は出会ったことがあるような詩がおさめられています。
できればご購入いただければと思います。
アマゾンの中古販売だと格安で取り扱われています。

図書館にもあるので、まずは借りてみる
ということでも構いません。
本をお持ちいただくことが条件です。

まずはさっと本をめくって、何かを感じる詩を
見つけてみてください。
当日も、その日の詩を見つける時間をはじめに少し持ちます。
はじめに見つけたものと違うこともあります。

詩と、あたらしいことばに出会える場となればさいわい。
お茶とおやつを用意してお待ちしています。




《大切にしたいこと》
小さな声に耳をすませること。
沈黙もことばです。
ゆっくり。あせらず、あわてず。
無理にはなす必要はありません。
さっきのあれどういうことだろう?と戻れます。
安全であること。
安心できること。

《場は、みなさんの声からうまれます》
こんなこと話してみたい
こんな会をやってみたい
こうしたほうがいいかも
ということがあればお聞かせください。
お待ちしています。




ブログ更新が随分と滞っていました。
半年ぶり。
のぞきつづけてくださって、ありがとうございます。




言葉にするということ

2017年03月20日 12:31

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先日18日の読書と対話の会。参加者は9名。

ファシリテーターと名乗る人がそこにいても、ただ存在するというだけで、
そこに集った人たちの中で対話がなりたつ、安心、安全にことばが行き交うというのが理想。

この日は「体の見方」の章を読んだ。
「自分を体と思うのは、間違っているんだ。と、君は『自分』の章で思ってしまっただろうか。
そう、この体であるところの自分とは何かを問うとしたなら、確かに自分はこの体じゃない」。

この章はこのような文で始まる。

私はずっとどこか乖離している私をずっと感じてきているので、この部分のことが今はとてもよくわかる。
今はというのは、乖離しながらもながらく自分で自分のからだなどを客観的に見つつ、批判的であったから。
今は、そうである自分をただ見ている。
切り離されているというのとも違う、そういう視点があるだけだ。
インサイトカメラのようなものだ。…いや、インサイトなんだろうか?
私が見ているもの、感じているものをみている眼だ。
この眼が受け取って、動いてみることも「考える」と言いたい。
スポーツするにも考えることが必要だというようなことを言ったのは誰だったか、
中田かカズか、イチローか。多分、みんな同じようなことを言ってる。

そして、考えたことは言葉にしてみることで、またからだに返ってくる。
私の感覚だと、おなかだ。ハラに帰ってくる。

ここでは、ずっと、本来「それ」としかいいようのないおおきなものの話をしている。
でも、「それ」ではなくて、そこで安住せずに、果敢に言葉に、私はしていきたい。
どうやっても、言葉にし得ないものがあるのはわかっている。
谷川俊太郎さんもそう言っている。
谷川さんでダメなんだから、無理? そうなんだろうか。

そうではなくて、自分でやってみなくちゃダメなのだ。
本当にその領域(それ)を体感できるのは、そこまでやってみた人にしかわからないんじゃないかと思う。
科学者たちも、突き詰めればどうやってもわからない、神の領域だとしか思えないところに行き当たるという。
どこまでいってもわからないから、どこまでもいってみなくては。
すると、するりと抜けたりするんではないだろうか。
おそらく、「わからないこと」が苦悩ではなくなる。

この日は前回の混沌を踏まえて、やってみたことがいくつかある。
「体の見方」ということもあって、呼吸に意識を向けるワークと、聴覚に意識を向ける「耳をすませる」こと。
あと、言いたいことは言わせてもらった。時には少し辛辣なことも言ったと思う。

それでも、9名も集まっていれば、言わんとしても話が流れていってしまうことがあった。
もうすこし細かに掬いあげていきたいものだ。


これまでにないことをやってみる 其の七

2017年03月15日 22:34

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学校での発表が終わった。
言い足りなかったこと、こう言えばよかったということ。
終わった後にいただいた反応で湧いてくる。
発表してみたからわかること。
9月の学会発表をめざそうかな…と思ったりする。
(さて、私はその頃どうしているんだろうか)

発表した全員の話からみえたことは、
人と人がかかわることについて表面のアプローチは違っても通底しているということ。
キーワードはひたすら「対話」だった。

今回の発表でも使わせていただいたが、中島義道さんの「対話のない社会」にはひきこまれた。


「なぜ?」という疑問や、「そうではない」という反論。
地道な手探り、慎重な歩み寄り、念入りな違いの確認。
「わかった」と「わからない」の揺れ。
この揺らぎから「普遍的真理」をめざして語ること。



生半可なやさしいものではないのだ。
そして、これが真のやさしさなのかもしれないと思う。

グリーフケアと読書と対話の会がどうつながるのかと最初思ったけれど、
そういうことかとわかったと何人かの方から声をかけていただいた。

あと、クラスメイトたちから
「あなたがすすもうとしている道がみえた」「刺激を受けた」「気持ち動かされた」ということばももらった。

あらためて、大好きな池田さんの話を150名ほどの前で
できたことが何よりうれしくて、自分でも「よかったなぁ、私」としみじみ思っている。



池田晶子さんは、「生きているってどういうことだ?」と、のこした言葉から執拗に問うてくる。
若松英輔さんはこの本の中でこう書いている。


会ったこともなければ、遠くから見かけたことすらない。生前には、どんな声かも知らなかった。ある期間、確かに同時代に生きたのだが、その言葉は、彼方の世界からやってくる、そんな感覚をぬぐいさることができなかった。それは彼女が亡くなった今でも変わらない。池田晶子の言葉、誤解を恐れずにいえば、言葉である池田晶子は、今も語ることを止めない。


本当に、そうだ。
ずっと語りかけてくるの、本から池田さんが。

池田さんは、「言葉はそれ自体が価値である」と書いているが、
彼女のいう「言葉」とは、通常、人が使う言語の領域をはるかに超えていて、
ときには、色であり、音であり、また芳香、あるいは形でもあるような、
姿を定めずに私たちの前に顕れるものであり、それらは「コトバ」として言い表すとしている。

そして
「死の床にある人、絶望の底にある人を救うことができるのは、
医療ではなくて言葉である。宗教でもなくて、言葉である」と。
これは、いうまでもなくコトバのことである。

私は池田さんのコトバに触発され、「生きているとはどういうことか?」を問いたくて、
読書と対話の会を続けている。
そして、からだからもそれをいま味わっている。

池田さん曰く。
言葉それ自身を追求してゆくと、当然言葉の向こう側へ出てしまう。
「言葉」とはすなわち「意味」であり、「言葉の不思議」とは、「意味の不思議」。

私たちは「うつくしい」という感覚を、誰からも教わらないまま、
それをうつくしいというと幼い頃から知っている。
うつくしい、そのもとにあるものはどこからきているのだろう。


「言葉の意味というものは、目に見えて手でさわれるこの現実の世界には、
存在しないということなんだ。意味というのは、別の世界に存在するものなんだ」


ああ、すてきだ。
このことばだけで、ご飯三杯。



さて、「これまでにないことをやってみる」はここでひと段落。

あらたな「これまでにないことをやってみる」が始まっています。
それはまた違うかたちでご報告します。

読んでくださってありがとう。


【これまでにないことをやってみる 其の一】
【これまでにないことをやってみる 其の二】
【これまでにないことをやってみる 其の三】
【これまでにないことをやってみる 其の四】
【これまでにないことをやってみる 其の五】
【これまでにないことをやってみる 其の六】








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